2010年3月21日日曜日
アパルトヘイトは消滅したかⅡ
南アの話の続編である。プレトリアは、ヨハネスブルグに比べ治安が良いので、私はジンバブエ行きのバスチケットが取れるまで、”ひねもすのたりのたり”と、街をブラブラしていた。ある日、USドルをランドに両替する必要があり、銀行に行った。南アの銀行の出入り口は、ゆっくりと回る電動の回転ドア式である。どうやら治安対策らしい。治安がいいといっても日本とはケタが違うのである。さて、2Fの両替所での話である。私が防弾ガラス越しのカウンターで両替を申し込んだ後には、黒人の青年が待っていた。彼に変わろうとすると、階段を駆け上がってきた白人が、彼を押しのけカウンターに両替の申し込みをしたのである。「…?」
順番を抜かされた黒人青年は、平然としている。カウンターの白人女性も平然としていた。その平然さが私をイライラさせた。安物の電子辞書に私は「ゴウマン」と記入して、英訳した画面を黒人青年に見せた。彼はニヤッと笑った。彼の申し込みが済み、私が呼び出されるまで、小声で話をした。「いつもこんなかい?」「どうってことはないよ。」「私は、(あんなことをする)ホワイトは嫌いだ。」「(笑)私も…。」「今日は何故両替をするんだ?」「マレーシアに行く。初めての海外旅行で楽しみなんだ。」「それはよかったねえ。」(私の両替が済んで)「じゃあ。マレーシアを楽しんできてね。」「ありがとう。ハブアナイスデイ!」私にとって、強烈な経験であった。。…アパルトヘイトは法的には消滅したのかもしれないが、現実には生きているのではないかと思った。
プレトリア大学に行ってみた。芝生の広い綺麗な大学だった。しかし黒人は黒人、白人は白人で輪を作って談笑している。生協に案内してくれた黒人学生に「いつもこうかい?」と聞くと、何故そんな当然のことを聞くのかといったような顔をされた。…アパルトヘイトは消滅したのかもしれないが、人種の壁は超えていないのが現実なのである。ところが、一歩大学を出て、隣の女子高の前を通ったらまた違うのである。黒人の生徒も白人の生徒も仲良くおしゃべりしてバスを待っている。「…?」
ある日、ヨハネスブルグのアパルトヘイト博物館に行った。<今日の画像はその内部の写真で、当時の警察の装甲車の展示である。>入口が、白人用と黒人用に別れた博物館。チケット売り場で偶然入場口が決まる。私は黒人用から入らされた。当然全て英語の展示である。写真パネルや映像のの展示が多い。これでもか、これでもかと差別の実態をさらけだしていた。ツアーで一緒だったのは、ベルギーのアントワープ在住の母娘と、カナダの院生の青年である。ソウェト(アパルトヘイト時、隔離されていた旧黒人居住地のひとつ、マンデラ大統領の生家もある)や、黒人暴動のきっかけとなった黒人少年惨殺の記念博物館も見学した。この時の昼食での話。ソウェトの中のちゃんとした”レストラン”であった。カナダ人青年が、アフリカン・ランチを注文した。いわゆる主食の白トウモロコシをゆでたサザ(ジンバブエではこう呼ぶ。ちなみにケニアではウガリ)が、真ん中にどかっとある。彼は、これをナイフとフォークで食していたが、「まずくて食えないよ。」とほとんど残したのだった。私には、まず手で食べないことにびっくりしたし、あんなうまいものを残したことにもびっくりした。
たしかに…南アのアパルトヘイトは消滅したのかもしれないが…。
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