本日は、いよいよ西洋哲学史の要・カントの人種主義について考察することになる。実は、カントは人種を初めて理論化した哲学者である。カントは人種それ自体をア・プリオリ(=先天的)な概念として擁護し。道徳的配慮から非白人を排除することを危険な仕方で正当化していると、アフリカの哲学者たち(エゼやセラクバハン)は異議をとなえている。カントは、アフリカ人たちを長年苦しめてきた人種概念を整備したというわけだ。たしかに、カントの初期の見解はヒュームの受け売り的である。
カントの功績の一つに、コスモポリタニズムが明言された「永遠平和のために」があるが、この発表より後に書かれた「人種の性格について」にも、初期からの見解は変化していない。カントは、人種の性格を固定的に捉える人種主義者で、同じように固定的に捉えるが、他人種を差別的に見下しつつも教育や宗教的教化で同等になりえると考えるタイプのキリスト教聖職者と異なる。カントは、(アリストテレスの)「目的因」論的に説明した。すなわち、”家具になる目的を持つ木”というような概念である。人種の能力について、働ける能力はぼ全ての人種が持っているが、活動への意欲はインディアンと黒人の人種に欠けていると記している。わかりにくい記述だが、人種にこれを当てはめているということは、(活動への意欲を持ち)世界を支配する目的因を持った白人と、この目的因を持たない非白人という、人種的階層があることをを意味する。
「永久平和のために」の中でも、ヨーロッパの植民地主義の暴力性を批判しているが、根本的な批判ではない。カントのコスモモリタニズムは、ヨーロッパの中心部、最も文明的な国々の地政学であり、下層階級や非ヨーロッパ人、女性を排したブルジョワの公共圏を意味している。
「カントの沈黙」という表現をカント批判の哲学者・ラリモアが使っている。人種差別そのものについてカントは明確に批判していないことからくる言葉だが、ラリモアは「崇高な浪費ー人種の運命についてのカント」の中で、カントは人種の形成を自然史のプロセスの結果として、白人以外の人種は一掃されるだろうと考えていたと解釈できるとしている。この「カントの沈黙」(はっきりと差別的なことを公にしてはいなけれど、実は…)の理由は、こういった根底の差別感にあると著者は指摘している。
…カントの哲学は、私が高校時代の哲学独学時代、最初にふれたものである。ドイツらしい、いかにも哲学という感じで惹かれたのだが、このエントリーをまとめていくにあたって思い当たるのは、カントが長年教えていた形而上学(実証が不可能な学問の意)の限界を露呈したものだったということである。
…本日の冒頭に記した、著者の過激(?)な高校倫理教科書批判については、納得するところが大である。今、地理総合で、世界価値観調査の教材を使って、倫理的な地理を教えているのだが、どうしても先進国と途上国の格差を、文明面(その多くは伝統的な宗教的価値観)だけでは説明しきれない、と考えている。この内容を加味して教材をさらにつくろうと考えている次第。
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