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私は思うに、イギリスの市民革命・フランス革命と、アメリカの独立革命は、ある意味、似て非なるもののように考えている。なぜなら、アメリカの独立革命は、絶対君主や貴族階級がそもそも存在しないからである。アメリカでは、市民革命であることに間違いはないが、ヨーロッパの社会類型としての「自由な個人」となるべく、「不自由な共同体」が立ち上がったというカタチではない。たとえ、貴族が英国王より認可を得て、アメリカでコロニーを開いたとはいえ、その後貴族階級化したわけではないし、「平等化を求める、いわゆるデモクラシー」は存在しない。「自由を求めるリベラリズム」が主体だといえるかもしれない。要するに、民主主義化のカタチというか、両者のバランスが違うのである。
そう考えれば、時間軸に沿って、英・米・仏と市民革命を論じていくより、英・仏・米と分けて教えた方がよいと思うのだ。しかも、日本の民主主義は、かなりアメリカ的である。WWⅡ以後の日本国憲法では、明治以来のイギリスに近い議会制民主主義の形態をとっているけれど、イギリスより、三権分立がはっきりしている。最大の違いは違憲立法審査権である。このあたり、急いで作ったわりには、アメリカ的要素が憲法に十分に盛り込まれている。その後の日本の平等を形成した累進課税や税制の直間比率なども、アメリカ的な平等観が強い。
日本は、このアメリカ的な「リベラル・デモクラシー」の優等生であるといえる。選挙の際にいつも争点になるのは「景気対策の是非」である。アメリカ独立宣言だけにあり、権利の章典や人権宣言にない「幸福の追及」、言い換えれば、ビジネスの自由・生活設計の自由・消費の自由といった豊かさのリベラリズムに彩られた民主主義なのである。
「マレーシアでは、選挙の争点はどんなことが多いの?」と質問したら、生徒はやはりそういう経済政策の是非が大きいと答えてくれた。マレーシアも、そういう意味では、日本と同じリベラル・でもクラシーが浸透しているのかもしれない。これが、グローバリゼーションの正体だと言ってしまう勇気は私にはないけれど、日本の大学で是非考えてみてほしいところだ。
こういう、極めて高度な講義ができるのも、歴史分野も政治分野も経済分野も、私自身が十二分な時間をいただいて講義してきて、統一性があるからだと思う。来年度はどうなるかはわからないが、ともかくも、いい経験をさせてもらった、と感謝している。
今日の最後の挨拶では、みんな「大学生の顔」になっていたように思う。
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