2015年3月29日日曜日

毎日 ケニアテロ容疑者追跡記事

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毎日の朝刊に、13年のケニア・ナイロビのモールで起こったアルシャバブのテロの容疑者(すでに事件時死亡)の追跡記事が載っていた。執筆記者の服部氏(ヨハネスブルグ支局)が、追ったのは、ハッサン・アブディ・デュフロー容疑者(当時23歳)である。彼はノルウェイからアフリカに戻ってきた人物である。しかもテロ事件中に負傷したフランス人買い物客に「子供は外に出てもいい。」と流暢な英語で言ったという。子供が「人を撃つなんて悪い人だ。」と非難すると「俺たちは怪物じゃないんだ。ケニアや米国がソマリアを攻撃し、多くの人たちが殺されているんだ。」と答えたのだ。その襲撃時にも人間的だった彼は、どのような人物だったのか。

現在ノルウェイの人口の1割強が移民で、ソマリ人は出身国別では4番目、2万6千人ほどである。テュフロー容疑者は、オスロの南、人口4万ほどのラルビクに住んでいた。ここには200人ほどのソマリ人移民が暮らしていた。彼は9歳の時に叔父叔母夫婦の元にきた。内戦から避難してきたらしい。白人の隣人からは控えめな良い子に映っていた。高校に入るまでは、礼拝もしない少年だったが、高校に入ってから校内でも祈るようになったという。

ちょうどこの頃ソマリアは大きく揺れていた。エチオピアの侵攻、それに対抗するアルシャバブ。彼がこの頃熱中していたのが、イスラム系のWEBサイトで、2500以上投稿している。”インターネットのビンラディン”と呼ばれるアラビア半島のアルカイダ幹部・アウラキ容疑者(イエメンで殺害された)の影響を強く受けた。08年以後、彼はアルシャバブへの強い共感を示す。09年高校を卒業後、ソマリアに向かい2年後ノルウェイに帰国した際はアルシャバブしか着ないような緑(注:イスラムの色である)の服を着ていたと友人が明かす。

家では6人の幼い子供がおり料理や掃除を行い、流暢なノルウェイ語を話し白人社会にも溶け込んでいるように見えながら、ソマリ人にもノルウェイ人にも友人がいなかったという人もいる。彼の高3になった時の集合写真には、一人イスラムとわかる服装で寂しげな表情をしていた。(画像参照)

服部記者は、この記事をこう結んでいる。孤独感に包まれる中、忍び寄ってきた過激思想が、彼の心の中邪悪な面を引き出してしまったのか。これからも過激思想がどこかで誰かの内なる「怪物」を引き出す可能性は誰も否定できない。

…服部記者の感想は私にもよく理解できる。そういう見方は一般的だろう。ただ、あくまで日本やノルウェイといった富める側にある先進国の人間の視点であると私は思ったのだ。

…彼の孤独は、常岡氏が先の本の中、イスラム国の義勇兵の箇所で指摘していたように、ヨーロッパ移民の「疎外」から来るものではなかったか。デュフロー容疑者は、純粋な青年だったのだと思う。彼は、(高校入学前は)医者になってソマリアに戻りたいとも言っていたという。しかし、イスラムの信仰に目覚めた後、目に映るノルウェイの豊かな生活と、故国ソマリアの圧倒的な差に、嫌悪感を抱いた(構造的暴力を強く認識した)のではないだろうか。同時に自分のアイデンティティを、どちらに置くか(ノルウェイ人として生きるか、ソマリ人として生きるか)というジレンマが強くあったのではないか。
…そのノルウェイとソマリアの圧倒的な差異を強く認識したとき、純粋であればあるほど、故国のために自分に何ができるかという思いが沸き起こるだろうし、それが復古主義(あえて過激思想とは呼びたくない。欧米からみた過激主義というコトバであると私は思う。)と接することで、ソマリ人として生きることを選び、そのあるべき姿を求めて、このような事件に参加することになったのだろう。「怪物ではない」という彼のコトバには、真の怪物が他にいることを暗示していると私は思うのだ。

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