ゆで卵を売るブルキナの少女 |
ブルキナに足を運んだ私としては、実感が伴う記事であった。遊牧の民・トゥアレグの人々とは、サヘルの村やゴロンゴロンという町の家畜市で接したし、ワガでは文化人類学者の荒熊さんの調査に付き合って、コーラン学校の子供やホームレスの子供の姿を追った。
こういう記事を読むと、たしかに最貧国のブルキナの子供たちには未来がないような感覚を覚える。記事の横にある「世界子ども救援金募集」のお知らせに見事に繋がる。彼らのためになにかしてあげたいと思うのは純粋な想いだ。そういう気持ちは大事にしたい。しかし、私はこういう悲惨さだげが全てだとは思わない。上から目線で、ブルキナの子供たちを見るのは、どうも違うと思うのだ。たしかに、ブルキナでは、子どもは親の所有物的な側面がある。日本の子どもなら考えらない様な苦難を経験している。アマルティア=センの言うように、「貧困とは潜在能力が生かされない状態」だと私も思う。彼らの潜在能力を生かす機会は日本の子どもたちに比べはるかに低いだろう。だが、彼は生きる力をもっている。いかに悲惨な状況であれ、かれらは誇りを持って生きているし、前を向いている。そのことだけは、私は声を大にして教え子たちに伝えたい。
募金をすることを否定しているのではない。上から目線ではなく、同じ地球で共生している仲間として、彼らの手助けをして欲しいと思うのだ。
今読んでいる「謎の独立国家ソマリランド」(4月18日付ブログ参照)に次のような記述がある。著者が難民キャンプを訪れた際に、ニコニコした笑顔の難民を見ることが多いということについて語っている部分だ。
『なぜ、難民や重傷者の家族が笑顔を見せるのか。それはきっとホッとしているのだと思う。彼らは戦乱や飢餓から必死の思いで逃れてきた。難民キャンプにしても病院にしても、やっとたどりついた「安全地帯」なのだ。そして私たちのようにカメラを構える外国人は「自分たちを助けてくれる人」と無意識に認識するのだろう。だから、警戒心もなく、むしろ仲良くしたいという意思表示で微笑むのだろう。これが現場のリアリティである。』
毎日新聞の記者の方に悪意はないだろう。こういう連載記事の意義も大いに認めるところである。だが、往々にして、アフリカの人々や子どもたちの「リアリティ」を失うこともあるのではないかと危惧するのである。
幸い、最後の最後に、職業訓練学校に通う少年の記事から、そのリアリティを感じた。「僕はここで(金鉱で働いていたために失いかけた)将来を取り返すんだ。」…そう、ブルキナの人々は、苦難に耐え、そして何があろうと常に前を向いている。我々が彼らから学ぶことはこれだ。
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