寒空の左大文字と京大稲森財団記念館 |
今回の「マンドゥメ王」の話は、WWⅠを挟んでの百年ほど前の、現在のアンゴラとナミビアの国境付近にあったクワニャマ王国の話である。この国境付近には15世紀ごろから農耕と牧畜の民が定住し、大小の王国が成立したようだ。これらの総称をオヴァンボと呼び、クワニャマ王国はその最大集団だった。さて、1880年頃からアフリカ全土の植民地分割が進み、この辺りもアンゴラ(ポルトガル領)と西南アフリカ(現ナミビア・ドイツ領)に分割される。
ポルトガルは、現在のアンゴラ北部から南部へ征服を進め、クワニャマ王国とぶつかることになる。クワニャマ王国は牛を売り、銃を手に入れ独立を守るのだが、この時登場した若き(17歳で即位)独身の王がマンドゥメ王である。彼は、武装しつつ、近代化を図りながらもも数々の伝統保持政策をうち、王国のアイデンティティを守ろうとした。なかなかの賢王だったようである。
さて、まもなくWWⅠが起こる。西南アフリカがドイツ領だったこともあって、南アが英軍のかわりに攻撃をしかけ、これを支配する。ポルトガルは中立だったが、これを好機としてクワニャマ王国を攻撃、王国は西南アフリカへ拠点を移すことになる。南ア軍もクワニャマ王国を攻撃。ここでマンドゥメ王は死去するのである。やがて、西南アフリカは南アの支配下に長く置かれることになる。
さて、このマンドゥメ王の死を巡っては、南ア軍の戦闘報告書(1917年)に、マキシム銃で銃殺したとあるが、不明確な部分もあり、南ア軍が射殺したのか自決したのか、この文字化された史料でもよくわからない。一方、クワニャマ人の間では自決説が強い。(伝聞)しかも、首が切り離され、頭部は晒された後戦争記念碑に埋められているという噂が強まった。また1968年、「老兵の回顧」という元南ア軍兵士のエッセイが当時の写真付きで発表された。そこには「治療を受けている」される王の姿が写っているのだが、どう見ても首がずれていいる。これをパロディ化したクワニャマ人版画家の作品もでた。断頭されている王を描いた作品である。
マンドゥメ王の首のゆくえは全くの謎である。彼は白人に屈しなかったクワニャマの人々の英雄であり、歴史の事実を探るためとはいえ聖なる墓を掘り起こすようなことはできない。一方、ナミビア人歴史家は、王をナミビアの英雄として描いている。アンゴラでも同様に英雄視されていたりする。王は、ますます聖なる存在になっていっているわけだ。
無文字の人々の視点も含めて、アフリカの真実の歴史を再構成する必要があるというのが永原先生の視点だそうだ。
…いやあ、面白かった。特に、版画と写真が、なかなかミステリーだった。NHKの歴史ミステリーといった趣があって、先日の沢木耕太郎のキャパの話同様、思わず身を乗り出して興奮するような面白さだった。これからのアフリカ学会の市民公開講座に大いに期待したい。
0 件のコメント:
コメントを投稿