さて、昨日に続き、書評を書きたい。上巻はまず、第一章で天安門事件について書かれている。この中で最も印象に残ったのが胡耀邦死去をうけて追悼の献花を人民英雄記念碑にした最初の様子だ。「反革命扇動」の発端とされたことの理由のひとつが、花輪につるした『マオタイの小瓶』だったという話。「小瓶」は『小平』と同音で、鄧小平への侮辱、攻撃だというのだ。このあたりのいいがかりは、すこぶる中国らしい。中国では、こういう些細な上げ足をとり、「反革命」という一言で攻撃される。ある意味、恐ろしい世界である。
全編にわたって、様々な言質、記事、手紙等が詳細に記述されているが、本音を語ることが、いかに中国では難しいかということを痛感させられるのだ。それはこの大阪の地では決して他人事ではない。
第二章で、最も印象に残った話。東欧の無血革命が起こっている中、武力で独裁政権を守った中国は完全に孤立した中で、鄧小平は、タンザニア革命党のニエレレ議長と会談。国際情勢についてこう話す。「冷戦終結を願っているが、今は失望している。別の冷戦が始まっているからだ。西側諸国は、社会主義国に硝煙なき第三次戦争、つまり和平演変を行っている。東欧の変化は意外ではなく、遅かれ早かれ表面化したに違いない。」鄧小平は、中国もブルジョワ自由化の「動乱」が起こったが、断固として阻止したと言い、再発しても断固阻止すると強調した。武力鎮圧への確信は不変だった。とある。実は、鄧小平は、改革開放で中国を豊かにすることをライフワークとしていたが、どんなに毛沢東派に攻撃されても、毛沢東への尊敬・忠誠については人後におちなかった。もちろん、毛沢東の全ての言・指示が正しいと言う盲目的な追従ではない。しかしプロレタリア独裁という面では毛沢東の後継者であることは間違いない。毛沢東も、劉少奇には容赦ない攻撃を仕掛けたが、鄧小平にはそういう面で信頼を置いていたとあった。わかる気がする。
この「紅」と「専」の両輪をバランスよく推進できればいいのだが、莫大な人口をもつ中国と言う地で実験するには、その調合が極めて難しい。大躍進政策や文化大革命、天安門事件などは、化学実験に例えれば、間違って爆発が起こってしまったということだ。毛沢東も、鄧小平もそのスタンスは「紅」「専」と異なるが、バランスの良い調合を目指したという面では共通である。毛沢東も、鄧小平も、そういう面で違いがあるからこそ、補完しあえる仲というか、互いを認め合っていたのだろうと私は思うのだ。
第三章は文化大革命である。この章を通じて、むなくそが悪くなるのはやはり江青の存在だ。自己顕示と権力欲の権化のような、文革期のコトバで言えば、まさに「牛鬼蛇神」(妖怪変化を意味するらしい。)であり「毒草」である。今日のNHKニュースで、文科相が新設大学を突然不認可にしたことを知った。江青と同じような、自己の権力を誇示する姿勢に、教育に携わる者として、怒りが込み上げる。たしかに大学が増加しており問題がないなどと言うつもりはないが、省が認可の方向で進め、この時期なら、それぞれの大学に入学を決めている生徒や短大からの編入生もいるのは、教育関係者なら周知の事実だ。TVで流れた短大から新大学に編入する予定だった女子学生は、「いまさら就活もできません。」と困惑していた。真面目に学ぼうとしている学生を泣かせてよいのか。それが正しい教育行政なのか。自己顕示で権力を振り回して、被害をまき散らすようなことはゆるせない。まさに江青の日本版である。一刻も早い罷免を望みたい。センセーショナルな言動、行動が今の日本政界にあるれている。特に教育については、センセーショナルな政治家の空中戦はやめてもらいたい。地に足を付けて真面目に頑張る生徒や教師にとって、文革期のコトバで言えば「毒草」以外の何物でもない。「鬼畜」よりは、表現としてまだ品が良いかなと思う。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121102-00000105-mai-soci
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