2011年5月31日火曜日

教育実習と恩師の話

母校の時計台
本校では昨日から教育実習が始まった。10人以上の実習生が職員朝礼で並んだ。壮観である。保健体育科の実習生が多いのは本校らしい。前任校でも、明日から教育実習が始まる。私のクラスだったOGでK大のN君が社会科の実習生として、弟分のU先生の世話になることになっている。本当は私が世話をしたかったのだが、K君にもU先生にも誠に申し訳ない想いで一杯である。

さて、そういう私も母校で教育実習をしたことがある。(当たり前である。)教科は、倫理社会であった。恩師であるO先生が担当教官だった。O先生にとって私や妻は、教え子1期生にあたる。Nさんと同じK大出の新任で、ハイデッガーの徒であった。
私の教育実習は、初日から授業見学など全くなし。すぐさま授業をやれとのことだった。O先生は最初に1回見に来られたが、ついにそのままである。(笑)教える内容も含め全く自由にやらせていただいた。(私の範囲分の試験まで作らされた。)さらに、政治経済を教えていただいた恩師のN先生に、「俺のもやれ。昼飯を食わせてやる。」と倫理社会に加えて、政治経済もやらされた。毎日5~6時間授業という無茶苦茶な教育実習だった。ちなみに先生方の「指導」など一切なし。お二人とも2週間、大いに羽を伸ばされたハズだ。おおらかな時代だった。(笑)

私は、母校では生徒会をやっていたし、教師に逆らうことも多かったので、ちょっとした危険人物扱いだったようだ。教育実習の挨拶に行ったら、当時の教頭先生に「生徒をくれぐれも扇動しないように。」と釘をさされた。(笑)O先生もN先生も、そんな私をすこぶる可愛がっていただいた。「お前みたいな面白い奴が最近いなくなった。」が実習が終わった後の3人の宴会でのN先生の言である。

N先生は、当時進路指導部長で学校の重鎮であり、まさに豪傑というにふさわしい方であった。「お前、来年卒業したら、うちで非常勤講師をやれ。」と、母校では危険人物である私の大きな後ろ盾でもあった。残念ながら、母校の非常勤講師にはなれなかった。というのも採用試験に合格してしまったからである。「一次試験に合格しました。」と連絡を入れると、「二次は絶対無理だと思うが、まあ頑張れ。万が一合格したら、連絡しろ。俺がなんとかする。」という言葉をいただいた。「二次に合格しました。」と報告すると、「来年の非常勤講師の予定が狂ったやないか!」と怒られた。(笑)

ところで、N先生は、大阪市高等学校教育研究会・社会科部会の長をやっておられたらしい。後に私が社会科部会に始めて顔を出したとき、部会の重鎮のある先生から「君は、部会長を長らくやってこられたN先生の弟子だから、部会で頑張らねばならないのだ。」と諭された。その時、始めて知ったのだった。そういえば、新任の時、挨拶に行って、「生徒会やらの特別活動を頑張ろうと思います。」と言うと、「アホか。教師は授業が命じゃ。いい授業ができん奴はクズじゃ。」とボロクソに怒られたことを思い出す。(これまで4回ほど、社会科部会で研究発表させていただいたのも、そういうN先生の弟子としての存在を全うしたいという意味あいもあるのである。)

そんな豪傑だったN先生も、そして教育実習の時、私の授業を1回見ただけで「最優秀やと報告書を書いといたで。それより、来年非常勤にきたら、いっしょにギリシャ語をやって、アリストテレスの原書を読まへんか。」と誘っていただいたO先生も、すでに鬼籍に入られている。 三十年以上前の話である。

2011年5月30日月曜日

京阪電車の企業努力を讃える

土曜日の京大の公開講座に行った時の話である。京大の公開講座の会場の最寄り駅は京阪の「神宮寺丸太町」という駅である。したがって京阪電車で行くことになる。JRで、河内磐船という駅から、河内森という京阪交野線の駅に乗り継いだ。すると、変な電車が入ってきた。機関車トーマスのペインティングが施されている。窓にも、車内にも。オイオイ。とにかくトーマス一色である。おまけにアナウンスもトーマスの声である。次の駅には「スペンサーがいるよっ。」というような感じで、駅事に、トーマスの仲間と称する様々な機関車がいるという設定になっている。大人げないが、どこにいるのか探してしまった。なんのことはない、駅舎に絵が描かれているだけであった。それだけでも凄いかと思う。(笑)へー。京阪電車もいろんな企業努力をしているなあと思ったら、ひらぱー(遊園地:ひらかたパーク)との連携らしい。
http://www.keihan.co.jp/traffic/topics/event_thomas2011/

枚方市駅からは特急で三条まで行く。ちょうど特急がきた。たまたま並んだトコロが、二階建て(ダブルデッカー)車両の乗車口であった。実は始めて乗ったのである。上の階の座席があいていた。座りごこちも、眺めもなかなか良い。
大阪の私鉄の中で、昔の京阪のイメージはあまり良くなかった。カーブが多いし、駅間は短いし、いつも満員で、車両もぶさいく(関西弁で美しくないという意味)だった。しかし、ものすごく改善されている。走りもきわめてスムーズだった。いやあ、感激である。

公開講座の帰りは、新しい中之島線開業と同時に導入された特急に乗れた。昨日ブログで書いたように『仮想地球』の論文を熟読していたのだが、1人の座席があって、車内のデザインもいい。すこぶる快適である。もちろんスムーズな走りである。
京阪電車は、いつも乗っているJRより、かなり頑張っていると思うのだ。

ところで、私は地理の授業でイギリスを教えるとき、機関車トーマスが本当に実在することを教えている。生徒は、不思議な顔をするが本当である。私がそれを知ったのは、はるか昔、「旅行人」のコラムを読んでである。。疑り深い方は、こんなブログへ行ってみて欲しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/het_mozaiek/2835282.html

追記:残念ながら、近畿大会で本校野球部は、兵庫代表に敗退してしまいました。しかし、これからが夏に向けての本番。あらためて頑張って欲しいと思う次第です。また、本ブログの読者の皆さん、応援ありがとうございました。

2011年5月29日日曜日

『仮想地球』の試みを一読して

昨日の公開講座で、無料配布の”『仮想地球』の試みー地域と地球をつなぐ-”をもらって帰ってきた。帰りの電車の中で黙々と読んだ。なかなか面白い。京大アフリカ地域研究科教授の荒木茂教授が中心になって行われた平成19~21年の科学研究費補助金・基礎研究で、正式な研究のタイトルは、「『仮想地球空間』の創出に基づく地域研究統合データベースの構築」研究成果報告書である。(現場の高校教師にとっては縁遠い世界だが、最近、こういう報告書にふれる機会も多くなってきた。)

まずは、荒木先生の”『仮想地球』の試みー地域と地球をつなぐ-”という10ページにおよぶ仮想地球論を私なりに、申し訳ないほど簡単に整理してみたい。地域研究という立場については、2月19日付のブログでも紹介したが、荒木先生のコトバで改めて示すと次のようになる。「地域研究は、地域にどっぷりつかることによって、個別学問分野から決して明らかにすることができない地域の人々のいきいきとした関係や営みを描き出し、アカデミックな世界や一般社会にインパクトを与えてきた。」しかし、荒木先生は、こう続ける。「しかし最近、地域研究のこのような独自性は、個別的学問分野が国際化し、グローバルイシューを扱う傾向が増大していることによって薄れてきているのではないか、というのが私の実感である。」「むしろ地球環境問題、グローバリゼーションなど地域研究の外部における”世界認識”が、地域研究に新たな問題を投げかけ、地域研究に対応を迫っているというのが現実であろう。」
そこで、荒木先生は、論文以外の方法としての地域研究の発表を提案するのである。それは、グーグルアース上での、データベース化である。「地点、地域に関する様々な情報(写真・映像・音声・記載)と、それを素材、データとしたメッセージ」を集積することによって、「論文では、調査地としての役割しか果たさなかった地点情報も、仮想地球空間上に定置することによって、地域を構成する1つの情報となる。」…なるほど。

仮想地球とは、要するにグーグルアースであった。でも面白い試みだと思う。私のような一般市民も地域研究の研究成果利用できる。ありがたいと思う。
HPトップ:http://virtual-earth.asafas.kyoto-u.ac.jp/
データベース:http://virtual-earth.asafas.kyoto-u.ac.jp/ve-world/datac.cgi

Eさん撮影のブルキナべの写真
データベースをクリックしていたら、ブルキナを研究しているEさんが投稿している写真もあった。ブルキナの仕立屋さんの様子である。
Titel     『シャツの仕立』
Information アトリエで生地を裁断する仕立師
Location   Bobo-dioulasso,Burkina Faso
Date            2005年1月
Photo     Eさん

荒木先生の論文の後、実際のモデルとして、『人類の揺籃として氾濫原』、『地域研究者の協働による仮想地球構築の試みー地域景観から紡ぐアフリカ植生誌』などという興味深い論文が続く。なかなか面白いのである。

さらに私の目を釘付けにしたのは、第二章にあった中沢新一の論文である。2008年7月に第4回『仮想地球』研究会での講演内容のようである。「脳内トポロジーとしての地図学」と題された41ページにもおよぶ論文であるが、これについては、後日紹介しようと思う。中沢新一を読むのは、ホント『チベットのモーツアルト』以来である。教員生活に入った頃、浅田彰や中沢新一を読んでいたものである。なつかしい。
こんな貴重な論文集を無料配布で手に入れれて、すこぶる満足である。

2011年5月28日土曜日

京大 アフリカ研公開講座 5月

鴨川ぞいの新緑から京大稲森財団記念館を望む
雨の中、京大の公開講座に行ってきた。今日のテーマは荒木茂先生の「土に生きる」である。荒木先生のプロフィールを見ると、私の予想どおり農学博士であった。現在は、①アフリカの生態環境と生業の関わりを、生態学、土壌学、農学的な視点を明らかにし、その成果を地域の歴史的文脈の中に位置づける。②世界の地域は自然史と人類史の結合から成り立っているという観点から、学問の融合をはかる(『仮想的地球』モデル)。③アフリカ熱帯林の保全と農業が両立する可能性を追求すべく、実践的な地域研究を開始している。とあった。

荒木先生は、講座の最初に、『土壌』というものについての基礎的な知識の伝授をされた。私は地理の教師でもあるから、ラトソルとかチェルノーゼムとかポドゾルとかいった土壌の名前と分布が頭に浮かぶが、そもそも「土とは何か」といった地学的なことは苦手である。
先生は、その中で面白い理論を教えてくださった。E・ラブロックの『ガイア理論(地球生命圏)』である。地球は1つの生命体であり、土とは、動植物や細菌ら生命が生きるために形成する仕組みであるというのだ。もちろん、それ以前の腐植栄養説や無機栄養説などにも触れられたが、これらを統一的に見る立場(ガイア理論)を是とされているようである。その説明で、地球上のCOは、その生誕以来減少しており、地球自体が生命圏を守るため温暖化ガスの衣を脱ぎ捨ててきた歴史である。低COでも光合成可能な植物(トウモロコシ等)が出現し、酸素も藍藻が海中で光合成をはじめ、海水中のイオンを酸化し続け、鉄分と融合し酸化鉄として海底に沈殿(実物を拝見した。)して以後、大気に酸素が浮遊されるようになったとのこと。へー。こういう事は私は全くの無学なので率直に驚いた。この辺は、荒木先生のプロフィールにある②の視点である。

チテメネの焼き畑(ザンビア)
さて、講座の中心になった話は、ザンビア北部のムビカ県にある『チテメネ』と呼ばれる焼き畑の生態学の話である。この『チテメネ』というベンバ人の焼き畑は、少し変わっている。ミオンボという木の林を伐採し、その中央に木や枝、葉っぱなどを集め燃やすのである。ある意味集約的(手がかかるという意味)である。しかしながら、タンザニアのランダムな焼き畑の方法(伐採したものをわざわざ中央に集めない一般的な方法)と対比すると、次のような収穫量となる。収穫物はシコクビエ(ミレット)である。
タンザニアのブッシュ焼き畑:灰のスポット部分1.56t、灰のない部分1,21t
タンザニアのミオンボ焼き畑:灰のスポット部分3.39t、灰のない部分1.51t
ザンビアのチテメネの焼き畑:灰のスポット部分3.57t、灰のない部分0t
ザンビアの退化したチテメネの焼き畑:スポット部分2.14t、灰のない部分0t
結局、灰を中央に集めてもそう意味がないようである。反対に灰のない部分は全く取れない。なにしてんねん、チテメネ!と宮田珠巳風(5月25日付ブログ参照)に言ってしまいそうな結果だ。ザンビアとタンザニアの土壌を比較してみると、炭素含有%、窒素含有%、カルシウム、マグネシウム、カリ、硫黄などの含有%も大差がない。若干違うのがザンビアのチテメネの方が、サラサラした黄色砂質土壌で、タンザニアの方が粘土が多い赤色粘質土壌だということらしい。この辺り、完全なる文系の私にはなかなか難しかった。こういう生態学は、荒木先生のプロフィールでいう①の視点かと思われる。

本当は、③について、カメルーンの研究成果を熱く語られる予定だったと思うのだが、時間切れであった。いつものように飲み物付きの休憩、質問を書いて提出する時間になった。私は、チテメネの焼き畑が、3年間輪作されることに驚いた。ミレット→落花生→キャッサバという順らしい。自給農業なので、あまり商品価値は問題にならないと思われる。ハタと気付いた。根っこの深さである。徐々に根っこが下まで延びる作物順である。で、質問用紙にそういう理解でよろしいかと書いて提出した。荒木先生の答えは、一言。是であった。まあ、どうでもよいような質問である。(笑)

さて、ブルキナ研究のEさんは無事帰国されて、実家におられるそうだ。スタッフのお嬢さんからそう伺った。ちょっとホッとしたのであった。
ところで、明日は、荒木先生のプロフィールにあった②の『仮想地球モデル』について書くつもりである。会場の後ろに、無料配布のコーナーがあり、『仮想地球の試み』というA4版で200ページにも及ぶ冊子が置いてあったのだった。私は『仮想世界ゲーム』の使徒である。(ラベルの仮想世界ゲーム参照)『仮想地球』?興味を持たないわけがないではないか。

2011年5月27日金曜日

入梅遠足・バーベキュー

りんくうタウンを望むバーベキュー施設で
まだ5月だというのに大阪はすでに梅雨入りしたらしい。とはいえ、今日は遠足である。本校では、各クラス事に遠足の行き先を決める。(学年によっては学年単位の場合もあるようであるが…。)私が副担任となっている2年1組は、二色の浜という大阪ではメジャーな海水浴場にある施設を利用してバーベキューをすることになった。偶然2年5組も同じ場所だったので、2クラス合同という感じだった。私は両クラスで世界史を教えているので気が楽だったし、担任・副担任計4名で付き添いというのも気が楽である。
南海電車の貝塚まで行って、ちょっと距離のあるスーパーまで歩いた。そこで、1人1000円の予算でバーベキューの材料を班ごとに購入する。紙の皿やコップ、箸などはクラスで事前に用意し、炭などは施設で購入する。なるほど、合理的である。(これまで、飯ごう炊さんなど何度も経験してきたが、だいたい食材は事前に購入し、みんなで分け合って持っていったような気がする。)だから焼き肉が中心メニューなのはいっしょだが、班によって、その他の食材には若干違いがある。

またテクテク歩いて、二色の浜へ向かった。時折雨もあったが、着いたら上がった。曇天ではあるがバーベキューには支障ない。”りんくうタウン”や関空を望んで、次々に炭に火がついていく。結局、アミの前で私は焼き肉を焼く番人になってしまった。どんどん焼けた肉を選別する。女子がそれを皿に入れて鉄板前の組に送る。まるで”おとうちゃん”である。(笑)
鉄板組は、どこも焼きそばを作っていた。焼き鳥をしている班もあったり、タンドリーチキン風の班もあったり、マシュマロや不二家のカントリーマムというクッキーを焼いたり、イチゴが出てきたり、プリンが出てきたりとなかなか豪勢である。ちなみにプリンを生まれて初めて箸で食べた。(笑)

こういう、合理的で手作り感のある遠足はいい。帰りの道は本格的な梅雨の雨となったが、それも”季節の趣”というものである。野球部やテニス部の生徒が、そのまま学校へ向かっていったのが、また本校らしいと思う。

2011年5月26日木曜日

中村ノリ選手を応援したい

原発の海水注入がどーのこーの、大本営と参謀本部と関東軍の情報が錯綜する、えーかげんな話ばっかりで、いいかげんウンザリである。サミットで、大本営が最初に演説するらしい。日本の信頼が地に落ちるのは火を見るより明らかである。というわけで、突然ではあるが、この話題はこれで終わりたい。もっと、日本が元気になるような話題はないものか。

昨日のニュースで、事実上引退扱いだった元近鉄の中村ノリ選手が、横浜からオファーがあり二軍から再出発することになったらしい。私は野球ファンというほどではないが、中村ノリ選手は大阪の近鉄に所属していたし、大阪の公立高校からプロになったという経歴も好感がもてる。なにより常にフルスイングという彼の持ち味も、好きだ。ファンとは言えないまでも、同じ大阪人として頑張って欲しいと思っている。昔、億を超えていた年俸も、今回は500万円プラス出来高だと聞く。中日にテスト入団から入って日本シリーズMVPまでいった男だ。もう一花咲かせて欲しい。

さて、中村ノリといえば、私はドジャーズに入ったものの、傘下のAAAの”ラスベガス51s”で野球をやっていたことを思い出す。私は、いつかアメリカでマイナーリーグの試合を見たいと思っている。もちろん、イチローが頑張っているうちにシアトルのセーフィコフィールドにも行きたい。「私をボールパークに連れてって」を、小さなマイナーリーグのボールパーク(野球場)で歌ってみたいと思っている。というわけで、私はアメリカ地域研究の一部として、マイナーリーグにはかなり詳しい。
ラスベガス51sのCAP
面白いのは、中村ノリが所属していた「51s」の”51”とは、ネバダ州ラスベガスの北にある”エリア51”を意味していることだ。エリア51にはいろんな噂がある。ここでUFOや宇宙人の研究をしているとか、近づくと軍に監視され、金網を乗り越えると射殺されるとか…。とにかく軍関係の施設であることは間違いない。グーグルアースで調べたこともあるがよくわからなかった。(笑)まあ謎の地域であるほうが楽しいので、それでいいではないかと思う。このラスベガス”51s”のロゴがまた面白い。宇宙人の顔なのだ。宇宙人が墜落したと言われるニューメキシコ州ロズウェルを彷彿とさせる。アメリカは何でも商業化してしまう。そのうさんくささもアメリカ理解であると私は思っている。
http://lasvegas.51s.milb.com/index.jsp?sid=t400

ところで、ラスベガスやエリア51のあるネバダ州は、第二次世界大戦長後長らく核実験場として使用された。連邦政府の所有地の割合が最も多い州でもある。この死の灰が西部劇のロケが出来ないようにしてしまったのだった。ジョン・ウェインも、スティーヴ・マックウィーンもユル・ブリンナーもみんなこの死の灰をかぶり肺ガンで死んでしまったのだった。詳細は、広瀬隆の「ジョンウェインはなぜ死んだか」に詳しい。広瀬隆は「東京に原発を」などの著作がある強烈な反原発の作家である。

…ありゃ、また原発の話に逆戻りしてしまった。

2011年5月25日水曜日

宮田珠巳のレトリック

ときおり、単純におもしろい本を読みたくなる。こんな時私は宮田珠巳の本を選ぶ。独特のレトリックが楽しい。放出の本屋で『ジェットコースターにもほどがある』(集英社文庫/3月25日第1刷)を見つけた。宮田球巳は、昔、蔵前仁一の月刊誌『旅行人』に”タマキング”というコラムを連載していた”リーマンパッカー”(サラリーマンをしながらバックパッカーをする人々)で、結局作家になってしまったヒトだ。早川千晶さんの『ナイロビのうわさ』と同様、愛読していた。とにかく、彼のレトリックは奇妙である。完全に『脱構築』の世界なのであるが、私は大好きだ。

今回の本は、ジェットコースターの話である。”タマキング”の頃から、彼がジェットコースター評論家として、いろいろ書いていたので、その集大成的な本である。彼のレトリックを引用する前に、こんな思い出話もある。数年前、JICAの高校生セミナーに参加していた時の夜のことである。自室のテレビでBSを見ていた。(恥ずかしながら私の家にはBSは入らない。)NHKだったと思うが、”世界のシェットコースターベスト10”だったか、そんな内容の番組だった。これが案外面白くて、ベスト10中、アメリカのカリフォルニア州、フロリダ州を押さえて、オハイオ州に凄いマシンがあることを知った。意外だが、オハイオ州こそ、ジェットコースター乗りの聖地なのだ。この本にもこの3つの州を中心に、日本も含め、様々な絶叫マシンに乗った話がこれでもかというほど書かれている。
では、宮田珠巳らしいレトリックをいくつか引用してみようと思う。

宮田氏の迷作「旅の理不尽」
”まえがき”から
『ジェットコースターが好きである。ジェットコースターなんか子供の乗り物だと思っていtが、30台後半になった今、依然として乗りたい。…(中略)…なかには呆れ顔で「いい年してなんの話をしてるんだ」などと尋ねる人もあったが、答えは、ジェットコースターの話をしている、が正解である。…(中略)…そんなわけでこれからジェットコースターの本を書こうと思う。これは、私が東にスゴいジェットコースターがあれば行って乗り、西に珍しいマシンがあればそれも乗り、南で怖がっている人があれば行って乗せ、北につまらないマシンがあってもそれにも乗り、とにかくあれこれもやたら乗り、その魅力を解剖したり考察したり、あー面白かったりした思索と行動の記録である。』

ナガシマ・スパーランドに完成した「スチールドラゴン2000」の試乗会の話。雑誌の取材で優先乗車することになって…。
『私はこれまで、ろくに優先された記憶がない。株主優待とか、学費免除とか、シード権とか、VIP席とか、顔パスとか、それどころか新幹線のグリーン車だって乗ったことはない。…(中略)…だが晴れてこのたび優先である。つに栄光は訪れた。これまで報道関係者というと、なんとなく傲慢というか、無礼というか、遺族にマイク向けるなよ、かわいそうだぞコラ! 人の迷惑考えろ、と思っていたけれども、今こうして優先側の身分になってみると、自分という人間は、最初から一般庶民と何かが違っているような、そんな感慨を得ることができた。ようやく自分がいるべきところにいる、そんな実感がある。ナガシマスパーランドに向かう名古屋行きの新幹線内で、トイレに行って戻ってくると、みんな私のほうを向いて整然と座っていたので、思わず「いや、ご苦労」と手をあげそうになったほどだ…(中略)偉大なる私は、こうしてさんざん世界一(注:スチールドラゴン2000がギネス記録を更新した)を堪能し、記念のTシャツまでもらって、最後は新幹線の普通車に乗って東京に凱旋した。』
宮田氏オススメの「ニトロ」(ペンシルベニア州)

カリフォルニア州ナッツベリーファームの急流すべり”ペリラス・ブランジ”に乗った話。豪快な乗りごごちに同伴の西島君が「アホちゃいますか、アメリカ人」とさっそく”アメリカ人アホ説”を提唱した、後の部分である。
『興味深い説ではあるが、そこまで言っては身もふたもなので、もう少し科学的に考えて、あたりにポンチョなどの防水着を貸す気配がまったくなかったことから、アメリカ人は水をはじく、というのが私の仮説である。「ゴーストライダー」には乗れなかった(注:運行停止だった)ものの、こんな無謀な乗り物に乗れたのは幸運であった。』
サンフランシスコのマリンワールドで「メドゥーサ」に乗った後の話。アメリカのコースターは、スイス製だったりオランダ製であることを聞いて…。
『つまりジェットコースターはヨーロッパがつくり、アメリカ人が乗るという構図になっているらしい。なぜかはわからんがそうなっているらしい。アメリカ人めっちゃ漁夫の利。いや漁夫の利は少し違うな、他人のふんどしである。他人のふんどしでジェットコースター大国になっている。』
宮田氏が選んだ世界No1 ミレニアム・フォース(オハイオ州)
…ところで、私自身は、遊園地やジェットコースターは好きではない。アントニオ猪木くらいロング・ロング・アゴーに、生駒山上遊園地で「往復型」のに乗って以来、ご無沙汰である。HPで名前を調べようとしたら、すでに跡形も無くなっていた。それぐらいアントニオ猪木である。(ちょっと宮田珠巳風レトリックで書いてみた。)

2011年5月24日火曜日

雨上がりのドンキーコング


一番左のレモン・イエローが新しい愛車である
 今朝は、かなりの雨量で妻に最寄り駅まで送ってもらった。ところが、やがて曇天になり、2時間目の試験監督をしている頃から、陽がさしてきた。実は私は、この時を待っていたのだった。と、いうのも自転車を買うつもりだったからだ。いつもモーニングをしている喫茶店の前の自転車屋で、気に入った自転車を見つけたのだった。レモンイエローの車輪の小さな奴。先日まで4800円の値札がついていたのだが、昨日見たら3800円になっていた。もちろんリサイクル車である。
放出の駅から学校まで、そこそこ距離があることは、これまで何度か書いてきた。だいぶ慣れてきたのだが、夏休みのストロングな日差しを思うと、ちょっと気が遠くなる。そこで、梅雨が終わったら自転車を買い、月極の駐輪場も借りて駅から学校まで、自転車通勤をする予定をしていた。妻も了解してくれていたのだ。で、恐る恐る「3800円の自転車があるのやが…。」とお伺いをたてると、黙ってオカネを出してくれた。(ちょっと怖い。笑)

というわけで買ったのだ。税込みで登録代も鍵も無料サービスだった。安い。
車輪が無茶苦茶小さいので、学校まで試運転したが、そんなにスピードがでない。(笑)歩くより、1.5倍早いという程度である。もちろん、必死で漕げばもう少し早くなるだろうが、そんな大人げないことはしない。ゆっくりと、少しだけ風を切って走れば十分である。危ないし…。なによりしんどい。

郵便局へ国際理解教育学会の参加費を振り込みに行く用事もあったので、学校からまた運転してみた。普段使わない筋肉を使うし、緊張感も手伝って、すこし下半身が痛くなった。楽するために買った自転車だが、楽できるようになるには、それなりに走り込まねばならないようだ。

ところで、昔息子がまだ小学生の頃、北海道は夕張のサイクリング・ターミナルという安宿に泊まったことがある。レンタサイクルを借りてサイクリングを楽しんだのだが、その時私が選んだ自転車が、今回選んだ愛車と同型である。その時、妻と長男は私を指さして「ドンキーコングや。」と笑った。その頃はやっていたゲーム(スーパーファミコンの時代である)の”マリオカート”のドンキーコングというイメージを持ったらしい。
まあ、私は人より少しばかり太っているかもしれない。だからだと思うが…。たしかにユーモラスな”絵ズラ”かもしれない。(笑)

追記:またちょっとBloggerのシステムがおかしいようです。私はいつもGoogleChromeからBloggerのダッシュボードにアクセスするのですが、何時間もログインできませんでした。他のブラウザでログインできるという情報を得て、結局、長い間使わなかったInternetExplorerからアクセスして、今日はブログを更新した次第です。頑張って!Bloggerのシステムさん!

2011年5月23日月曜日

マサイの講演会をあきらめる

早川千晶さんの講演会の様子
中間考査初日。試験を2種類刷った後、午後は何も予定がないので、糖尿病の薬も切れかけているし、病院に行くために半休をとって帰ってきた。…というわけで早い時間のブログ更新である。

早川千晶さんが、来日されているようである。毎日新聞のWEBニュースによると、山口県光市でマサイの若きリーダーとともに、トーク&ライブを行い、大好評だったようである。
なんと、永松真紀さんも来日している。通訳や補足説明をしたと書かれている。マサイの第二婦人になったという本を出した永松さんである。(私はまだ読んでいないが、書店で手に取ったことがある。)マサイの若きリーダーとは、彼女の夫だったのだ。永松さんは、早川千晶さんの『アフリカ日和』で登場するマタツゥーのオーナーであるらしい。早川さん同様、ケニアに惚れ込んだ人なのだ。なかなか面白そうな人である。
永松さんのHP:http://www.masailand.com/book.htm

永松さんのHPを見ると、28日にクレオ大阪中央で、同様の講演会があるらしい。うわぁー、行きたいなあ。行きたいが、あまりにタイトすぎる。今週は、中間試験の後、金曜日に遠足がある。3日目・4日目に、私の試験があるので、7クラス分の答案を見なければならないが、あまり余裕がない。(月曜日には最低でも4クラス分返却しなければならない。)しかも土曜日の午後は、京大のアフリカ研公開講座の日である。(朝には、またまた野球部の近畿大会があるのだが、どう計算しても舞洲から3時に京大は無理である。今朝、監督のI先生に、2回戦応援に行くから必ず勝ってやぁと言ったばかりである。)その上に日曜日、マサイの講演会はきつい。もう歳である。無理すると、きっと尾を引く。せめて次の週ならと、地団駄を踏むのである。

もし、OBやOGがこのブログを見ていて、代わりに見に行ってくれるのなら是非とも行って来て欲しい。どうやら前任校の人権映画をやっていた場所らしい。入場料は1500円でちょっと高いけど…。

2011年5月22日日曜日

雨なのでプログラムを読む

歌川国芳展割引券
雨である。今日はH城鍼灸院に行った後、大阪市立美術館の歌川国芳展に行く予定だったが、激しい雨故に、妻が「今日はやめよー。」と言ったので、従うことにした。我が家の主導権は妻にある。(笑)歌川国芳展は6月5日までなのだが、これからの土日の予定はなかなかタイトである。今日行けなかったのは痛い。かわりに近所のキン太でお好み焼きを食べて帰ってきた。なんのこっちゃ。(笑)

ところで、昨日、国際理解教育学会から連絡が来た。6月18/19日の第21回研究発表大会のプログラムである。今回は、山科区にある京都橘大学で開催される。私の発表は19日の第14分科会だった。同じ分科会の発表のタイトルと、発表者の所属を挙げてみる。
(1)タブレット型情報端末機(ipad)の有用性~博学連携ワークショップでの実践より/B大学、H市教育委員会、R大付属M中学、K女子学院初等科
(2)国際理解教育のためのスマートラーニング;アンドラゴジー的観点から/韓国E大教育研究所
(3)シミュレーション・ゲーム考ー実践者の立場からオリジナル教材を考える/私の発表である。
(4)「世界の檜舞台へ開発途上国ブータンに支援をしてみよう」ー学年縦割りのゼミ活動を通じて 開発教育の実践/T中学
(5)内発的発展に、向けての地域事例にみる参加と参加型学習ー「社会づくりへの参加」を目指した参加型学習実践への課題と方策ー/O大学

会場校:京都橘大学
だいたい、各分科会で時間を切って発表するので、参加者は分科会の(1)~(5)を渡り歩くことが可能である。私はいつも、その分科会に最初から最後までいるのだが、今回こそ、他の分科会で友人の先生方の発表もあるので、見に行きたいと思うのだ。
奈良のH高校のY先生の『世界遺産教育(WHE)とESD~「文化の多様性」の学びより~』は、今年世界史をやっている関係で是非聞いておきたい。隣の教室だけど、私の発表の直前の(2)の時間帯である。うーん。やっぱり厳しいか…。
府立三島高校(3月5日付ブログ参照)のK先生の『Bomeoの森から学ぶESD~体験的な学びの追求~ビデオカンファレンスを通じた高校生の相互理解』も面白そうだが、これも(2)の時間帯…。うーむ。
府立三島高校から今年A高校に転勤されたらしいM先生も『戦没者追悼のあり方から考える国際理解ー高等学校公民科における授業実践を手がかりに』という発表をされる。これは(3)なので私と同時間帯である。絶対無理である。
知らない方だが、こんな発表もある。『高校生と見いだすKIVAを通じたマイクロクレジットの可能性』/神奈川県立A高校 …是非聞きたいが、これも(3)なので絶対無理である。あーあ。

他にも聞いてみたいなあと思う発表も、たくさんあるのだが、なかなかうまくいかないものである。初日の午前中にも研究発表があるのだが、どちらかというと大学の先生方中心の教育学理論の発表が多い。実践者である私の興味は2日目にどうしても集中してしまう。発表と聴講の二足のわらじは、なかなか難しい。

2011年5月21日土曜日

アフリカ経済の接合理論

室井論文の資料から
土曜日は、自宅でアフリカ関連のWEBなどを見て勉強することにしている。前任校では、机上のPCにインターネットが無線LANで接続されていたのだが、H高校ではそういうシステムがない。正直不便なのだが、職員室の数台の共用PCで、各分掌や各教科の共通フォルダがネットワークとして構築されているので、情報の保全上の問題なのだと思う。ともかく、土曜日は自宅にいる時は思い切りWEBに浸るのである。(笑)

さて、NIRA政策レビューというPDFファイルを見つけた。アフリカ開発経済学の峯陽一先生や、平野克己先生の論文も載っていて、おおっという感じである。今回は、専修大学の室井義雄先生の「アフリカ問題への視座」という論文が特に印象に残った。詳細は、WEBページを参照されたい。
http://www.nira.or.jp/pdf/review33.pdf

室井論文では、40年以上も前の人類学者の分類(市場なき社会・周辺的市場をもつ社会・市場法則と価格決定に支配された社会)を引用して、アフリカの社会構造を見るとき、今なおその示唆するところは有効であるとする。高校生に説明するように、平たく言えば、資本主義がきっちと成立している地域、資本主義と全く関わらない自給自足の地域、そしてその中間地域に分類できるというわけだ。
室井論文では、ここで「接合理論」を持ち出す。本来は、生物学や材料工学、音声学などの概念らしい。社会科学的に読み替えて、「審級」「生産様式」「社会構造」という三段階で分析する。「審級」という語も、始めて聞いた。分析上の第一の水準のことらしい。調べてみると三審制などの審議するレベルといった意味で、そもそも法律用語から来ているようだ。社会科学も、人文科学も自然科学も、学問の世界では、こういう理論の相互乗り入れが盛んに行われている。現場の高校教師から見るとはるかに遠い世界であるが、こういうコトバにふれることは重要だと私は思う。ともかくも、「審級」である。室井論文では、共同体土地保有を経済的審級、ムスリム独自の政治機構を政治的審級、親族関係は社会的審級としている。これらの諸「審級」の「接合」から、「生産様式」が、資本主義的生産様式や非資本主義的生産様式を決定する。そこから第3の分析点である「社会構造」がある。
なるほど。たしかに、下部構造(経済)が上部構造(政治・文化等)を決定するという、マルクス経済学の、というより一般的なセオリーをある意味、逆転してしまっている。なかなか面白い。

このような「接合」という視点でアフリカ開発経済学を見ると、国際支援のあり方を抜本的に見直さなければならないという結論が出てくる。アフリカのそれぞれの地域は、たしかにかなり資本主義的なナイロビのような場所だけではない。ブルキナのワガドゥグのような資本主義的でもあるが、非資本主義的な部分を併せ持つ、フォーマルセクター(正規の商業活動)とインフォーマルセクター(非正規の商業活動)の接合したトコロもある。牧畜民の住む地域では、非資本主義的な社会構造である。これらを一律に考えて様々なインフラ整備を行っても効果がうすいというわけだ。たとえば、ナイジェリアのラゴスに、巨大な産業廃棄物処理工場を建設するより、小規模なバイオ式のゴミ処理機のほうが、燃料問題やゴミの回収の不備などを考えれば、はるかに有意義だというのである。同感である。最後には、貧困問題は、経済学だけでなく、ガバナンスの正常化へ向けた社会学や政治学的なアプローチが重要と結んである。…なるほど。

かなり難解な論文ではあったが、下部構造→上部構造という定説をある意味覆す「接合」という理論、なかなか面白いと思った次第。

2011年5月20日金曜日

言語からオリエント史を説く

ダレイオス1世
来週の月曜日から中間考査である。ホント、世界史を教えるのはずいぶん久しぶりである。オリエントからやるのは、30年前の新任の頃以来である。とはいえ、浅学の私でも、この30年間様々な知識の蓄積があったわけで、それなりの歴史に学ぶ視点のようなものがある。学習意欲に欠ける生徒もいるようなので、あえて今回はだいぶサービスして、出題のポイントをバラしてみた。

まず言語の問題である。4月22日付ブログで書いたように、世界の民族は言語によっておよそ集約できる。意外な言語の地域的分散があったりするのだが、地理ではあまり語れなかった。それは世界史のテリトリーであるからだ。ならば、専門外だが、教えてみたいと、まず世界の言語分布とその構造をやった。私自身は、なかなか面白い。基本的に、オリエントは、メソポタミアを中心に、セム語系中心の世界である。フェニキアやアラム、ヘブライ、アッシリアもセム語である。古代エジプトはハム語系だが、言語学的には近い。オリエント史も、様々な王朝の興亡があるが、構造的には、セム語圏メソポタミアとハム語圏エジプトの綱引きである。オリエントを始めて統一したアッシリアもセム語系である。だが、圧政がもとで崩壊してしまう。ところが、四カ国に分裂した後、オリエントを再度統一したアケメネス朝ペルシアは、インド=ヨーロッパ語族である。ペルシア人とセム語系すなわち現アラブ人は、言語的民族的にはかなり違うのである。
だからこそ、ダレイオスを初めとした懸命なペルシア人君主は、アッシリアのような圧政をしなかったといえる。王の目・王の耳といった監察官を置き、知事を監視する中央集権国家の構造をもちつつも、各民族のアイデンティティをある程度認めていった。彼らこそ、歴史に学んだ最初の人類のように思えるのだ。この「学び」はローマに通ずるものだがある。50を過ぎた世界史の門外漢としては、そんなことを考えるのだ。言語は、世界史理解には、非常に大事ではないか、と思う。

また、オリエント(東方)という呼び名は、世界史がヨーロッパを中心としていることを図らずも露呈していると私は思う。ところが、倫理の教師である私から見れば、ヨーロッパ文明は、かなり単純に言ってしまえばキリスト教的な部分とギリシア・ローマ的な部分から土台が形成されており、そのキリスト教的な部分の大半はユダヤ教、もっと言えばユダヤ教成立以前のオリエントの文明的遺産が土台になっている。シュメールの伝説や、エジプトの死者の書やアケメネス朝ペルシアのゾロアスター教などをやると、それがますます明白になってくる。

さらに、ヨーロッパから見れば、オリエント的な専制君主は誹謗中傷の対象かもしれないが、乾燥した土地で外来河川の治水・灌漑が文明を生んだことを考えれば、当然の帰結である。

「…てなことが今回の中間考査の範囲で私が教えたかったことだ。」と生徒には、もっともっと易しく伝えたのだった。「私は、どこかの問題集から適当に選択して問題を作ったりしない。全てオリジナルである。そのつもりで。」と言うと何人か頷く生徒もいた。嬉しい。倫理と地理が専門の教師が教える世界史B…専門の先生方から見れば、批判もあるかもしれないが、生徒の世界を見る目が少しでも変わればいいかな、と思ったりするのであった。

2011年5月19日木曜日

スワジランドへの嘲笑

スワジランドの話題が、SAPIOの5月25日号に載っているようだ。WEBニュースでは、面白おかしく書かれていた。『スワジランドでは伝統的に一夫多妻制が認められており、ムスワティ3世には少なくとも13人の王妃がいる。毎年、13歳以上の処女が胸を露にした伝統衣装を着て参加する「リードダンス」の儀式が行なわれ、国王は参加者の中から気に入った女性を新たな妃にすることが慣例になっている。妃に選ばれれば、宮殿と運転手付きの高級車が与えられるため、2008年の「リードダンス」の儀式には全国各地から、シンデレラを目指して7万人もの少女たちが集まったという。
http://www.news-postseven.com/archives/20110518_20409.html

3月1日付けのブログで、私もスワジランドの国王批判デモの話を書いた。上記の記事の前にも、そのことが書かれている。日本という近代国家から見て、その後進性、特に民主政治が行われていないこと、すなわち「人の支配」がいまだ行われていること、女性蔑視への批判などが、なんとなく読み取れる気がする。

たしかにそうなのである。近代国家論から見れば、スワジランドは、単一民族国家故に、国民国家ではあるかもしれないが、資本主義の発達、民主政治の発達といった側面から見れば、近代国家とは到底言い難い。だからといって、「今だにこんなことやってる。」と嘲笑することはいかがなものか、と私は思っている。(SAPIOの記事が嘲笑記事だとは言っていない。念のため。)歴史を学ぶというのは、そう言うことではないだろうか。
ヨーロッパは確かに世界的に、最も早く資本主義や民主主義を育んだ。しかし、短時間にそれを得たわけではない。長い時間をかけて、時には血を流し、暗中模索しながら確立してきたのである。日本だって、近代国家にすべく明治維新以降、様々な紆余曲折を経て、現在に至っている。とはいえ、私は、日本の民主主義は、欧米のように勝ち取ったものではなく、あくまでGHQによって、与えられたものだと理解している。しかも、たかだか60年である。日本は嘲笑できるほどの近代国家なのであろうか、嘲笑する前に、彼らと共生する方途を考える、そんな人間を育てたいと思うのである。

2011年5月18日水曜日

関空と伊丹の経営統合に喝

拡大して見ないとわかりません
関西国際空港と大阪空港が経営統合するらしい。昨日の衆院本会議で法案が可決・成立したらしい。一般の利用者としては、「しゃあから、どうなんねん?」(大阪弁で、「だからどうなるというのか」の意味)という感じである。私は飛行機大好き人間であるし、飛行機に乗るのも、見るのも大好きである。しかしながら、日本の航空行政はたしかに無茶苦茶である、と思う。こんなに各県に空港や路線が必要なのか?と思うのである。しかも大阪周辺には関空、大阪(伊丹)、神戸と3つもある。まるで、ニューヨークである。(ニューヨークには、超国際空港としてのJFK空港と、NYC近辺のラガーディア空港、それにイーストリバーを渡ったニュージャージー州にニューアーク空港がある。)

アメリカは広大で、しかも鉄道網(特に旅客)はあまり発達していない。フリーウェイを車で移動というのが、最もメジャーな移動手段で、遠距離なら航空機に乗れという感じだ。日本のように、新幹線はあるは、高速もあるわ、飛行機もあるでという状況ではない。だから、各航空会社がハブ空港(ユナイテッドなら、サンフランシスコ、デンバー、シカゴ・オヘア、ワシントンDCのダレスなど)をもち、地方の空港と結んでいる。私は、アメリカで何度も飛行機に乗ったが、なんか新幹線というか、特急の感覚であった。ノースウエスト航空のハブ空港であるデトロイト空港で、アホほど飛行機が駐機しているのを始めて見た時、ぶっとんだ。少し古くなるが、B747のような馬鹿でかい飛行機から、定員が20人ほどの小型プロペラ機まで、旅客数に合わせて見事に合理的に振り分けられていた。アテンダントという、日本では特別な職業も、アメリカではそんなに人気の職業ではないようだ。

デンバーからサウスダコタのラピッド・シティへの便は、おそらく最小のプロペラの小型機だった。座席はヨコに見ると、1席の列と2席の列に分かれていた。前を見ると操縦席が見えたりする。金髪の美人がパイロットだったりして、びっくりしたのを覚えている。私は、こういうプロペラ機のフライトが大好きだ。先日乗った大阪ー秋田便も小さなプライベート・ジェットという感じだった。それで十分でないか。

新幹線と飛行機と高速道路が競合する日本のような狭い国で、いったい何やっているのかと思うのだ。関空と伊丹が経営統合したところで、何が変わるのかと思うのは、私流のアメリカから見た日本の認識なのである。

というわけで、今日の画像は、いつも私が休憩している本校そばの公園から、17:26頃撮影した、伊丹空港に着陸態勢にある、おそらくエアバスA320で、熊本からのANA526便?(あまり確かかどうか自信はない。時刻表から見るとこの便が最も近いだろうという推測である。)拡大しないと、全く見えない。(笑)休み時間などに喫煙していると、着陸態勢の飛行機がよく見えるのだが、でっかく見える時には、だいたいカメラを持っていない。(あたりまえである。)

2011年5月17日火曜日

昭和天皇 第二部 読後メモ

昭和天皇第二部をやっとこさ読み終えた。本来なら三日もあれば読めるのだが、通勤時間の短縮だけでなく、内容も第一部同様、興味深く大事に大事に読んだ故だろうか。第二部は、皇太子時代の欧州訪問の内容が半分、その後が半分といったところだろうか。大局的な読み方はひとまず置いて、印象に残った部分のメモを記しておきたい。

スエズの手前で、供奉(ぐぶ)艦「鹿島」のボイラーが爆発し、三人の機関兵が死亡した。御召艦「香取」でも4日後ボイラーが爆発、二名の機関兵が死亡した。数日後、皇太子(昭和天皇)は、兵員用の作業服を着て、機関室を見学している。私には、かなり意外な事実であった。

スエズ運河は、エジプト太守が破産し、運河の株を手放す羽目になった時、レセップスの故国フランスの金融不況のスキをついて、ディズレーリ英首相が機敏に動いて即金で手に入れてしまう。この裏には、ロスチャイルド(ユダヤ資本の大御所である。)男爵がいた。ディズレーリーの秘書が、ロスチャイルド男爵邸に駆けつけた。食事が終わったところだったらしい。「首相は、400万ポンド欲しいのです。」「いつかね。」「明日。」男爵はつまらなそうにマスカットを一粒口に入れ「担保は何かね?」「イギリス政府。」「承知した。」というやりとりだったらしい。コミッションは2.5%、10万ポンドだったという。

オックスフォードでのやりとり。「あの村は、グレイが言及している村ですか」と皇太子が尋ねる。ー皇太子は、詩人トーマス・グレイの『エレジー』のことを語っているのだ。皇太子が社会的知識だけでなく、かなりの教養を備えていることをリッデル(英海軍の接待役)は認めざるを得なかった。また、皇太子は、英語より、フランス語の方が流暢だったらしい。(当時の慣習とはいえ、かっこいい。笑)

当時の日本とヨーロッパの航空技術の差ははなはだしかった。ケンレー空軍基地にて、ヨーク王子が乗ってみませんかと皇太子に声をかける。侍医たちが喜んで代わりに乗ったが、軍の関係者はその宙返りやキリモミ降下などに大きなショックを受けていた。その後30人の英軍パイロットが招聘され、厳しい訓練を施すことになる。その中心者セルビル大佐のコトバが凄い。「日本では男で肝っ玉の小さいことを、男子の大切なモノを落として来たというそうだ。日本の海軍士官の中には、初めからそれを持ち合わせてない者があって心配したが、近頃はどうやら土浦辺りで拾って来たようだ。」…強烈である。

スコットランドの田舎でアンソール公の屋敷で世話になる。最後の夜、領民たちがやってきて、アンソール公(彼は勲章をいっぱいつけていた正装だった)と踊る姿に感激する。公爵夫人もドレスのまま、百姓爺を腕を組んで踊っている。皇太子も領民の女房と手を組んで踊ったという。連なって肩を組み、スコットランドの離別の歌を歌ったそうである。

エッフエル塔で、土産物屋の間に立った皇太子は、「良子さん(後の皇后)に買っておいて」と木製のエッフエル塔の模型を指さして頼んだという。弟たちや侍従の誰それにと、かなりの数の絵はがきを選んだという。面白いのは侍従たちが現金を持ち合わせておらず、新聞記者に借りたという事実だ。

バチカンにも皇太子は足を運んでいる。意外な気がするが、熱心なカトリックの武官の存在と、当時カリフォルニアでの日本移民排斥法との関わりなどが関連していた。昭和天皇は、後にバチカンとの外交を重視する。戦争を始めるとき、戦争の収拾役としてバチカンというチャンネルを昭和天皇は考えていたようである。このあたり、ただの「あっそう。」と言って帽子を挙げていたオジイサンという昭和天皇の印象は間違っている。

うーん。今回も、とても後半までいかない。とりあえず長くなったので…。

2011年5月16日月曜日

団活動の「記録」システム

各団用のPCが並ぶ 工芸教室
中間試験一週間前となった。クラブ活動が盛んな本校では、クラブ活動は停止にならない。今日朝礼前に配られた試験への対応マニュアルを見ると、「試験一週間前なので、クラブ活動を停止してもよい。」という文言だった。ちょっと驚いた。サッカー部の顧問をしているI先生に聞くと、「練習後、集めて勉強させます。」とのこと。…なるほど。(笑)たしかに、その方がいいよな。

ところで、前から書こう書こうと思っていたことがある。特別活動部の仕事の話である。本校では、団活動を特別活動の基軸においていることは以前述べた。私は、この団活動の「記録」という部門を臨席のY先生と共に担当している。本校には、団活動のために、ビデオやデジタルカメラによる画像を残し、編集し、DVDに焼き付けるための部屋がある。今は、芸術科との関係で、ここで授業も行われるようになったらしいのだが、以前は純粋に団活動のためのコンピュータルームだったらしい。団は、8団あるので、8団分のデスクトップのPCにハードディスク、プリンター、ビデオ用のUSB、デジカメ用のUSBが配線されている。もちろん、ビデオも、録画用テープも、デジカメも、デジカメ用のメモリーカードも各団別々である。

先人の苦労が偲ばれる。色々聞くと、かれこれ10年前くらいになるが、府教委が各校に様々な教育のための資金を出したことがあったのだ。今は昔という感じで信じられないが、本校は、この設備に資金をあてたのだった。だからこその充実した設備なのだ。しかし、ITの進歩は著しい。PCのOSはXPである。おまけに当時の最新式CPUは、今やクロマニヨン人の頭脳なみに感じる。すこぶる遅いのだ。ハードディスクは、おそらくDVD編集には、PCの記憶装置の容量不足を補うための苦肉の策だったと思われる。うーん、と共に転任してきたY先生と2人で唸ってしまった。

しかも、ビデオもデジタル式ではあるが、古い。デジカメも同様である。10年間の使用によって、だいぶガタがきていた。バッテリーもだいぶ消耗している。しかも、これらのビデオやカメラも、メーカーがバラバラなのである。SONY、ビクター、パナノニック…。Y先生は、毎日、メーカーの違うバッテリーを確認しての充電の日々である。

いつこのシステムが疲弊して、崩壊するかも知れない。一度に新しいものに買い替えることは出来ないだろうし、事務所も協力していただいて少しずつ改善してもらっているのだが、Y先生とドキドキしているのが実情なのである。なんとか、本年度、無事に「記録」できますようにと祈るのみである。

2011年5月15日日曜日

東洋医学恐るべし

妻は、H城鍼灸院の受付ボランティアを時々している。東洋医学に興味があり、かなり勉強している変な人である。ツボの名前や筋肉の名前など、プロと堂々と会話できる。鍼灸のツボを詳しく知っているのだった。さて、今日の昼、急に妻が苦悶の表情となった。どうやら、胆石の発作らしいとのこと。私が目にするのは初めてだが、ときときあるらしい。「私にできることはないか。」と聞くと、お灸をして欲しいとのこと。我が家には、鍼灸の様々なグッズが常備されている。妻の指示に従って、私がお灸をした。背中に6ポイント。少し、ましになったらしく、苦悶の表情は消えた。東洋医学恐るべしである。

夕方、今度は私が腰が痛くなった。だいたいパソコンに向かって、同じ姿勢でいるからだと妻に罵倒されたのだが、妻が鍼を打ってあげるという。プロ使用の鍼を使うのである。H城先生直伝である。(もちろん素人なので、妻が打つのは私か息子だけである。しかも肺の裏は打たないと決まっているらしい。)で、妻はツボを押さえて、消毒液のしみた脱脂綿で拭きながら、トントンと打っていく。痛くはない。

10分ほど、ハリを打ったままじっとしていると、私の腰も一発で直った。東洋医学、恐るべしである。H城先生ならば、脈診(手を軽く握って、体調を見ること)から始まる。何を食べたか、とかどれくらい歩いたとか、日常生活を透視されてしまう。うーん、東洋医学恐るべしである。

2011年5月14日土曜日

野球部 決勝戦を応援に行く

本校の野球部の大阪府春季大会決勝戦の日である。これは、応援に行かねば…。ただし場所が遠い。舞洲ベースボールスタジアムである。かの大阪名所・USJ駅のもう一つ先、桜島駅からまだバスに乗って行かねばならない。朝8時、H城鍼灸院に寄って週1回の治療を受けてから、すぐさま電車に乗ったのだった。

ところで、私がいつも喫煙している本校近くの公園も、昨日は久しぶりの青空がひろがり、近所のご老人がたも来られていた。話題は、本校野球部の決勝進出である。「えらいもんやなあ」「甲子園行かへんかな」などと喜んでいただいていた。近くに、コンビニがあるのだが、そこの店長が、本校の運動部の試合に駆けつけては、写真を貼りだしていただいている。服装や頭髪も含め、礼儀正しいスポーツの学校として、地域に受け入れられているようである。


舞洲の野球場には、野球部員だけでなく、サッカー部をはじめとした現役の制服組、私服の現役組、もちろん私服のOB/OG、そしてわれわれ教員と、保護者や近所の方々(もちろんカメラをかかえたコンビニの店長さんも…)がどっぱーと集まった。祭りである。


試合前、例によって、直前のノックが行われる。隣に座っていたO先生と「使っているボールの色が違いますねえ。」と語り合った。真っ黒な本校のボール。真っ白なT高校のボール。設備投資額の相違がここに見て取れる。(笑)T高校のピッチャーは、かなりの変化球のキレみたいだ。一塁側からはよくわからないが、ストレートは早いし、変化球が凄いみたいだった。一度1・2塁のチャンスを迎えたのだが、点は入らなかった。本校も必死に守り、0ー0で3回を迎えたが、ついに捕まってしまった。外野フライで得点されてしまった。まだまだと、応援が熱気を帯びる。最初野球部だけが頑張っていたのだが、サッカー部や他の制服組も一体になって、歌い、踊る。うちの生徒は、実にノリがいい。いいプレーが出ると、総立ちで歌い、踊る。いいなあ。後ろにいた私服組が、「制服できたらよかった。」と嘆いていた。


結局、本校は、振り逃げで3塁ランナーが得点したのみ。後半は、T高校の強打が爆発した。あれよあれよという間に点差が開いた。

結局、歯が立たなかったけれど、私は大いに満足した。まるで甲子園にいったような気分だ。野球部と他の生徒が一体化して応援する姿に感激した。
いいなあ。高校生は、そのSein(存在)そのものが美しい。

Blogger システムダウン

私の知る限りでは、昨日の早朝から、Blogger のシステムが完全にダウンしてしまった。実は、月曜日の夜もかなりシステムがおかしかった。画像が挿入できなかったのである。なんかの拍子に画像は挿入できたけれど…。おそらく世界中からシステムエラーの報告があったのだと思う。(日本のWEBでも、同様のシステムエラーの事が、たくさん書かれていて、私だけでないことを認識できたのであった。)

というわけで、本日(5月14日)の7:38付になっている『失敗国家ランキング』というエントリーは、一昨日の夜、書いたモノである。昨日は、全く書き込みが出来なかったのであった。

だが、私は、このBlogger が気にいってる。かなりの数のブログサービスがあるようだが、今のところ、他に替えるつもりなどない。
…だから、Blogger の担当の方、頑張って下さいネ。

失敗国家ランキング

WEBで、アフリカのことを調べていたら、おもしろいHPを見つけた。社会実情データ図録。たまたま「失敗国家ランキング」というのが、引っかかったので見てみた。HPによると、英国エコノミスト誌の記事から作成したらしい。なかなか興味深い記事であった。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1018.html
『これまで当図録では、UNDPの人間開発指数といった概念の明確な指標を除いて、国際競争力指数など複数のデータからなる合成指標のランキングは結果の解釈が恣意的になりがちなので取り上げてこなかった。失敗国家インデックスも同様の欠点があり、これを取り上げているエコノミスト誌自体が「流行の専門用語か、有用なカテゴリーか?「失敗国家」という用語は多くのもつれたあった状況を覆い隠している」という副題をつけていることからもうかがえるように失敗国家概念には批判的である。こうした見方を含めて興味深い例なので取り上げることにした。ここで、「失敗国家」とは、国家が機能しなくなり、内戦や政治の腐敗等によって国民に適切な行政サービスが提供されない国家を指す。』
私も、「失敗国家」というあやふやな概念は好まない。とはいえ、だいたい予想した通りのランキングだった。HDI(人間開発指数)では、マリやブルキナファソ、ニジェールといったところが最下位に近いのだが、他国からの評価という意味では、なんとか頑張っているのかもしれない。少し意外なのが、パキスタンである。パキスタンの評価は、もの凄く複雑多岐にわたっているような気がする。
2年くらい前に、元世界銀行副総裁の西水美恵子さんの『国をつくる仕事』を読んだ。ムバラク元大統領の項を読んで、”かなりの人物”という気がした。毀誉褒貶の多い人なのかもしれない。パキスタンという国自体も、同じように毀誉褒貶が多いのかも知れない。ちょっと、興味がわいた次第。

ともあれ、このHP、面白い。凄い量のランキングが載っている。これから授業でも使わせてもらおうと思う。

2011年5月11日水曜日

柔道部と剣道部を見に行く

今日は不思議な一日だった。授業は午前中で終了した。本来なら水曜日は、午後は総合的学習の時間とLHRなのだが、2時からPTA委員会という日程が組まれていた。2時前になると、他の先生方が自分の大阪市の教職員証(出退勤をPiとするICカード)を首からぶら下げておられる。…? 本校では、PTAの会合に教員全員が出席するのだった。まあ、たしかに保護者と教員のアソシエーションなのだから当然と言えば当然だが、びっくりした。会議室でPTAの委員の方々に全員が自己紹介をして挨拶をした。さらに、専門部会に分かれて討議するのだ。私たち特別活動部の教員は、成人教育委員会という部会に出席した。今年1年の活動について、委員長の保護者から説明を受けた。この成人教育委員会が文化祭の時にPTAの喫茶店を開くらしい。なるほど、だから特別活動部がこの委員会と対応しているのだ。前任校もPTAとの関係は親密だったが、教員生活30年を超えて、PTAの委員会に出席し討議するのは、初めての経験だった。本校は極めて真面目な学校だと思ったのだった。

その後、同じ特別活動部の剣道部顧問のH先生と武道館へ向かった。武道館には、1階に柔道場、2階に剣道場がある。3年生の武道科の生徒達に、「稽古の様子を、いっぺん見に行くなぁ。」と言っていたのである。昨日、たまたま柔道部顧問で、彼らの担任でもあるW先生に、「いっぺん見に行っていいですか。」とお願いすると、「どうぞ、どうぞ。」と言うことになっていた。ちょうどPTAの委員会が行われた教室が武道館のそばだったのだ。普段は職員室から遠いし、時間に追われているので、行きたいと思いながら、なかなか行けなかった。今日こそ、見に行く絶好のチャンスであったのだ。

柔道部は、打ち込みと言うのだろうか、基礎的なトレーニングをしていた。時間が決まっていて、その間に何回も何回も同じ立ち技をかけるのだ。生徒によってかけている技が違う。背負いや払い腰や、大外刈りなど、投げる寸前まで連続してやっている。それが、無茶苦茶早いのだ。タラタラやっていると、W先生の罵声が飛ぶ。見ていて私も力が入った。教室で見ている生徒とはちょっと違う。休憩になった。みんな、汗だくである。私が約束を守って見に来たことを、一様に喜んでくれていた。柔道部、顔は怖いが、気はいい。(笑)

その後、剣道部に顔を出した。剣道部も基本的な練習をしていた。切り返しや打ち込みをずっとやっている。本校の剣道場も広い。30人ちかい部員が打ち込みをしている様はなかなか壮観である。剣道部は、面を着けているので顔がわからない。休憩になって、面をとると、3年生が嬉しそうに挨拶をしてくれた。(笑)H先生が、以前、新入生歓迎会で、私が「剣道部の突きを見て感動しました。」と言っていたことを覚えていただいていて、突きの練習をするよう指示された。うまいもんである。見事に決まる。決められる方は、かなり苦しいのではないかなあ。そんなことを考えていた。

武道科の生徒との約束を果たせて、ちょっと嬉しい。しかし、突然行くことになったので、デジカメのG12を忘れてしまった。(ずいぶん後悔している。しかたがないので、先日の野球部に続き、本校のHPから画像を借用することになった。)

ところで、武道科には、なぎなた部と弓道部の生徒もいる。次は、そっちも見に行こうと思っている。

2011年5月10日火曜日

今、最も気になっている本たち

先日、J堂書店に足を運んだとき、「はしごを外せ」という本を見つけた。J堂書店はありがたい本屋さんで、椅子に座って”座り読み”ができる。少しだけつまみ読みしていた。かなり面白いのである。冒険的なまでに簡潔に述べると、先進国がいかに自分たちが発展するようにもってきたか、また途上国が発展しないようにもっていったかという内容だった。著者は、ケンブリッジ大学の韓国系のエコノミストのハジュン・チャンである。

政治経済の授業で、今、アフリカ開発経済学テキストV4.01をもとに近代国家論をやっている。非常に基礎的な資本主義の成り立ちや民主主義の成り立ちをやっているのだが、いずれ構造調整の話になる。その時までには読んでおきたいと思っている次第。春は宴会の季節で、どんどん出費がかさむので、そんなに高くはないのだが、今だ手元にないのが悲しい。(笑)

こんな本も今欲しい。「遊動民」 先日の京大の公開講座で置いてあり、ウメサオタダオ展でも目にしたアフリカの牧畜民の研究書である。無茶苦茶面白そうな内容だった。ぶっとい本で、価格がなんと10000円。アマゾンの古本も見たが春のこの季節に手に入れることが可能な本ではない。

これに先日紹介した「都市を生き抜く狡知ータンザニアの零細商人マチンガの民族誌」も、早く読みたいと思っている。これも手が届かない。あーあ。金欠状態である。結局、今日は放出の本屋さんで、文庫本を1冊だけ買った。.楽しみにしていた続編、「昭和天皇 第二部」である。

「タバコをやめれば、本もバンバン買えて、海外にも行けて、しかも血流も良くなるでぇ。」とは妻の悪魔の誘惑のようなコトバである。うーん。でもタバコは、きっと…やめれないと私は思うのである。

2011年5月9日月曜日

野球部 春季大会決勝進出


本校の野球部が、春季大会大阪府予選で決勝に進出したことを、今朝知った。凄いではないか。ソフトテニス部がインターハイ出場をかけて、土曜日に試合があるとのことは若手のH先生から聞いていた。(もちろん出場を勝ち取ったらしい。)同時刻、いやちょっと前に野球の試合があり、O商大S高校に逆転勝ちしたらしい。それを速報(おそらく携帯電話)で聞いて、テニス部も負けられんと頑張ったのだと顧問のA先生が言っておられた。本校の運動部は、一体感があるのだ。

申し訳ないが、私は詳しく知らなかったので、いろんなWEBで調べてみた。1回裏に3点を先取されたのを、5回表に4点取って逆転、8回表にも2点を追加している。8回裏には1点返されたが、9回表に1点をまたとって、結局7対4だったようだ。エースのS君はコントロールも度胸も良かったらしい。ショートやレフトのファインプレーなど、チーム一丸の勝利だったらしい。

いやあ、本校教員としては非常に嬉しいニュースである。近畿大会の出場もこれで決定した。なんと十数年ぶりの公立高校の出場となるのだという。大阪の高校野球は私立高校が圧倒的に強い。才能のある生徒を各地から集めているし、予算やグランドなどの設備もケタが違う。ここまできたら、決勝も是非勝って欲しいと思わざるを得ない。相手は、プロ野球選手も輩出している甲子園常連校、大阪T高校である。本校には失うモノは何もない。のびのびと自分たちの野球をやって欲しいものだ。

ところで、3月にお会いした若いO先生率いる秋田商業高校野球部も、春季大会で勝ち抜いているようだ。(雨天順延で今日試合だったようだが詳細は残念ながら不明である。)実は、本校の野球部監督も若い。今年新採用されたI先生という本校OBである。私が始めて本校に赴任したとき、始めてコトバを交わしたのがI先生だった。これまで長年野球部を指導されてきたN先生という方が転勤され、I先生が監督になった。秋田商業高校の野球部の話で盛り上がったのを覚えている。今朝、遅ればせながら祝福した。「もし秋田商業が甲子園に来たら、関西での練習試合、胸張ってできるね。」「そうですね。(笑)」「もしかして、甲子園で対戦したりして…」「それは…(笑)」取らぬ狸の皮算用はやめよう。でも、本校の野球部も、秋田商業高校にひけをとらない成績を、今回おさめてくれたことに、心から感謝したい。

現監督のI先生にももちろん感謝したいが、私は前任のまだお会いしたことがないN先生にさらに感謝したい。渾身の指導をして育てた野球部が、OBの元で花開いたのである。もちろん自分で栄光を手にするのも凄いのだが、教え子に栄光を譲れたというのは、もっと凄いと思う。私は、こういう男の美学にしびれてしまうのである。

2011年5月8日日曜日

無性に桜餅が食べたかった日

日曜の朝はH城鍼灸院に夫婦で行く事が多い。治療中に『お茶』の話が出て、そのせいか「桜餅」が無性に食べたくなった。今はタベモノに季節感がない。スーパーでもコンビニでも売っている。まあ風情がないと言えばないが、便利ではある。結局、Kスーパーに寄って妻に買ってもらった。(笑)

妻の言。「…病気やねんで。」たしかに私は甘いモノを少しでも食べると一気に手が痒くなるのである。とはいえ、桜餅はいい。昼食の後、小さめの桜餅を口にほおりこんだ。

昔々、JICAの高校生セミナーの事前学習で、何処になるか解らない研修員さんに、日本を紹介するというワークショップを真剣にやっていたことがある。まずは日本をイメージする語彙を、自然・産業・文化という3つの視点から生徒に挙げさせてみるのである。。自然に関する語彙としては、四季、富士山、温泉、田んぼ、梅雨、そして桜などの語彙が挙げられる。産業に関する語彙は、自動車、カメラ、丁寧、工夫、痒いところに手が届く、性能が良いなどが挙げられる。文化に関する語彙では、寺社、歌舞伎、万葉集、ひらがな、かたかな、アニメ、ワビ・サビなどが挙げられる。(実際にはもっともっと多く出る。)
それらを関係性で結びつけていく。(黒板に書いた語彙を線で結んでいくとよく解る。)そのうえで、日本の自然とはどう定義できるのか。日本の産業は?。そして日本の文化とは?と、文章でまとめていく。最後に、大きく日本とは何かという順にまとめていくのである。

そのまとまった「日本」をどう研修員さんに語ろうというわけだ。ある時は、漢字で表したいと「潤」という字を書道で紹介した。ある時は、モノで表したいと、街で配られる広告入りのティッシュペーパーを選んだこともある。なぜ?このティッシュペーパーは、非常に使いやすい。ワンタッチで開けられるし、抜き出しやすいし、工夫に工夫を重ねた日本の産業を表現しているという結論になった。しかも広告付きで資本主義国・日本をも象徴しているという結論だった。なるほど、と私も手を打ったものだ。

しかし、このワークの最高傑作は、「桜餅」だったと思う。日本の自然の象徴としての「桜」、これをスウィートとして純化しているのだという。桜の葉、餅米の桜色、この繊細で丁寧な仕事が産業を表している。さらに、川端康成のノーベル賞受賞講演のタイトル「美しい日本の私」にあるように、自然と文化の一体化という面も表現できるというのだ。「日本=桜餅」論であった。これらを英語化して、説明文を書くのは大変だった記憶があるが、近くの和菓子店で購入し、とにかくも研修員さんは喜んで食べてくれたのだった。

ともあれ、「桜餅」である。理屈はともあれ、美味しかったのだった。今のところ、まだ手は痒くない。

2011年5月7日土曜日

梅棹忠夫「裏返しの自伝」

ウメサオタダオ展で1冊だけ文庫本を購入した。「裏返しの自伝」という本である。梅棹先生の自伝なのだが、構成がおもしろい。梅棹先生がなれそうでなれなかったJOBを6つ挙げ、…というわけで…にはなれなかった、と記してある。先日も述べたが、通勤時間の短縮化によって、読書スピードが落ちている。とりあず6つのうち半分読んだので、その時点での私の感想を書いておきたい。
梅棹先生は、文化人類学者として大成された方だから、大いに研究生活の人生に満足されていたのだろうと思ったが、なんのなんの、もの凄いエネルギーと極めて多彩なベクトルをお持ちだったのだ。

とりあえず、梅棹先生がなりたっかたと記されているJOBを記しておきたい。大工・極地探検家・芸術家・映画製作者・スポーツマン・プレイボーイの6つである。このうち、読んだのは前者の3つだが、特に、極地探検家と芸術家の章が私には面白かった。

梅棹先生は、戦前から南極探検に深い思い入れをもっておられたようだ。この章では、そういう冒険に関する様々な人物が登場する。本多勝一氏もそのひとりである。なるほど、カナダエスキモー、ニューギニア高地人、アラビアの遊牧民と、文化人類学的な著作は、梅棹先生のバックアップのもとに書かれていたのだった。また有名な昭和基地に取り残されたタロ・ジロの話も出てくる。梅棹先生の人脈の広さと強さに驚愕する。イヌといえば、日本で最も早く犬ぞりの論文を書かれたのが梅棹先生であったことも興味深い。樺太で行われたフィールドワークは実際はかなり大変であったというのも面白く読んだ。

ウメサオタダオ展にて (かなり拡大して見れます)
芸術家については、基本的に美術の話である。先生は子供の頃から画才があったようだ。みんぱくでのスケッチも素晴らしいものだった。三高の理系でのデッサンや図学、京大理学部での分類学実習などで、鍛えられたものだと思うが、先生は絵を描くこと自体がお好きだったようだ。だから、退官したら、油絵を描きたいと思っておられたのだが、残念なことに目を患うことになり、その夢は果たせなかったのである。
しかし、民族学博物館自体が自分の芸術だったという満足感をお持ちなのが、私には嬉しい。大阪の誇りである。もちろん多くの著名な画家やデザイナー、建築家などとの合作であるが、美への熱い想いがある館長が毅然と存在したが故のことだと私も思う。
もうひとつ、面白い記述があった。先生の息子さんは、陶芸家となられているのだという。少し引用してみたい。
『彼はいっこうに売れない陶芸作家であり、経済的にはパッとしない。個展をひらくたびに、父親のほうはその何点かを買い上げさせられるばかりであるが、わたしはそれでよかったと思っている。自分の好きな道で生きてゆけるのだから、しあわせというほかない。私自身も、たしかに自分の好きな道を生きてきたのだから文句はないが、私にはもうひとつの好きな道もあったのである。そちらのほうが充足されないままに、年をとってしまった。その芸術家への道は、マヤオが実現してくれたものと思って喜ぶべきであろうか。』

…この梅棹先生の気持ち、まことに僭越ではあるが、私にも思い当たる。息子が、バックパッカーとなり世界を旅し、私の興味あるところの学問をしていることに、同様のコトバを記すべき時がくるのであろうかと思った次第。

2011年5月5日木曜日

毎日新聞 木語 「処危不驚」

偶然手に入れた画像ですが…あまりに
このところ、毎日新聞には小気味の良いコラムが載っている。連休中、やたらブログを更新しているので、やめておこうかと思ったのだが、内容が内容だけに、是非とも記しておこうと思った。金子秀敏氏の「木語」である。タイトルは、『危に処して驚かず』である。要約と引用で紹介したい。

引退した中国の朱元首相が、時局批判の演説の中で「(日本の大震災では)小さな子供まで、危機に処して驚かずだった。民度は、基礎教育からしっかりとやらなければよくならない。」と述べた。中国では「処危不驚」という四字熟語でパニックにならない日本の国民性を表現する文章が目立つ。香港の評論家の陳夢施氏も東京で大地震を体験した。交通機関がストップしホテルまで5時間半も歩いたそうだ。車道は車で埋まっている。歩道は勤め先から徒歩で帰宅する人々で埋まっていた。しかし、誰もが横断歩道で信号を守っていた。のろのろでも車の列は動いていた。陳氏は驚いた。混乱の中でも社会秩序を機能させる国民性は、外国から高く評価されている。たしかに国民は「不驚」だったと思う。しかし政治の中枢はパニックになっていたのではないか。

想定外の原発事故で「東日本が壊滅する」と首相が口走ったとしても、そうとがめる気はしない。ただし、その後首相は国をまとめていくための求心力を作り出したのか。その記憶がない。米国なら大統領が国民に結束を呼びかける。国によっては戒厳令を発令する。

『東日本大震災でそれに相当するのは、3月16日の「天皇陛下のお言葉」だった。被災した国民と被災者を助ける国民が、ともに立ち上がっているというメッセージを内外に発信した。テレビニュースを見て、大震災発生以来、始めて安心を感じた。「天皇は日本国民統合の象徴である」という憲法第1条が浮かんだからである。国民が統合している状態にある、憲法秩序が機能していると感じたからである。けれども、憲法の精神は国民主権である。まっさきに国民の結束を宣言するのは、国会の議長と、国会で選ばれた首相だろう。地震からお言葉までの5日間、あるいはその後も、国会も首相も熟語でいえば「茫然自失」だったのではないか。』

コメントは不要かと思うほどだ。今日も関東軍の社長が罵倒され、土下座三昧の映像を見た。首相も被災地を訪問したようだが、どうしてもその姿(よく似た作業服姿)がダブる。我々が期待しているのは、お詫び三昧のような大本営のリーダーの姿ではないと思うのだが…。

マトマイニ チルドレンズホーム

昨夜、民放TVでキベラスラムで頑張っている菊本照子さんのマトマイニ・チルドレンズホームの様子を見た。汚水の漂うキベラスラムの様子は、9年前と何も変わっていない。
私たちが、ストリート・チルドレンの話を聞いたときも、家族がいるのだが家にいることができない、という子が多いという話を聞いた。

今回TVで紹介されていた子供、母親のもとに孤児院で預かる承諾を得るためにスラム(キベラではなかったと思う)に向かった子供については、極めて条件が良かったのだと私は感じた。温厚そうな母親、彼が自ら絞った牛乳やウガリの粉を渡していた。母親は冷静に、うちでは彼を育てられないと話した。
現実には、もっときびしい話題があるはずだ。ストリート・チルドレンは狡猾にならざるを得ない状況におかれている。麻薬やシンナーに手を出したり、窃盗や恐喝など犯罪に走るケースも多い。大人に平気で嘘もつく。それは彼らの責任ではない。そういう貧困の環の中におかれているからだ。とはいえ、今回の子供のケースは、かなりラッキーなケースだと私は思う。

私は、菊本さんの存在を恥ずかしながら始めて知った。30年という長期にわたってナイロビで頑張っておられるのだった。本物である。凄い人である。何より私がそう確信したのは、彼女の温和な表情と、「子供達から学ぶことが多いですね。」という一言だった。
マトマイニ・チルドレンズホーム/菊本照子さんのブログ:
http://ameblo.jp/scckenya/

本物は必ず「アフリカから学ぶ」という姿勢を貫いている。

2011年5月4日水曜日

大英博物館 古代ギリシャ展

神戸市立博物館の『大英博物館古代ギリシャ展』に行ってきた。今回も妻と一緒である。連休の神戸は、凄い人出だった。1階でまず8分ほどのビデオを見る。ギリシアがペルシャ戦争に奇跡的に勝利して、自信をつけ、「神至上主義」から「人間中心主義」に重心が移ったとか。なんか世界史の授業のようだった。(笑)それが美術にも大きな影響を与え、写実的で人間の肉体美を重要視するようになったとか。今回の展覧会のホシである「円盤投げ(ディスコポロス)」は、その究極美の1つだということだ。…なるほど。

展覧会も大入り満員だった。よく見えない。妻も不満なのかと見ていたら、チャッチャカ、チャッチャカと進んでいく。彼女も人混みが嫌いなのだった。(笑)さすがに、円盤投げのところではゆっくりと見ていたが…。「壺が多いよねえ。」と妻。そりゃそうだろう。ギリシアといえば、彫刻もいいが、私は壺だと思うのだ。

近くのカフェで、コーヒーを飲みながら、そんな話になった。「ギリシアの壺は、世界で最も美しいのだ。」と私が言うと、妻は不思議そうな顔をした。「どこで見たん?」「ボストン美術館。空いてて、近くの美大生がスケッチをしていたりして…。」「ふーん。」私は、その時あまりの美しさに感激し泣けたのである。

だが、今日はとても泣けなかった。混んでいたからだろうか?違う。さきほどブログで書いた『旅する力』にあるように、歳をとったのだ。好奇心や感動する心根がすでに摩耗しているのかもしれない。もうギリシアの壺で感動できない。35才という齢で、あのボストンという非日常的空間で、ギリシアの壺を見たからこそ感動できたに違いない。そんなことを考えていたのだった。



その後久しぶりに南京町に寄った。別に用もないのだが、ブラブラするのもいい。「加油、東日本」という文字に”今”を感じたのだった。

沢木耕太郎『旅する力』を読む

先日、梅田のJ堂書店に行ったとき、沢木耕太郎の『旅する力 深夜特急ノート』の文庫本を手に入れた。沢木耕太郎の「深夜特急」は私のバイブルである。深夜特急の誕生前夜の秘話、そしてその後日談が載っている。通勤時間が半減したので一気に、とはいかなかったが、自宅で少しずつ読んだりしながら今日読み終えた。こんな面白い本にこれだけ時間がかかるとは…。この調子でいくと読書量も半減しかねない。ちょっとイカンと思っている。

奈良教育大のG君も、今読んでいるという『深夜特急』。この深夜特急・最終便は、それ以外の沢木耕太郎の作品(若き実力者たち・破れざる者たち・人の砂漠・テロルの決算・一瞬の夏・壇・オリンピアなど)も読んでからでないと、わからないことも多いので、それらを読んでから、この本を読む方がいいと思う。

ここでは、私の印象に残ったことを書いておきたい。興味をもって、これから読もうと思われる方は読み飛ばされますように。

88P:沢木氏がテヘランで会う磯崎・宮脇ご夫婦とハワイで会食した際、ウェイターとの会話で困った時、宮脇さんが「そんな時はね、have を使えばいいのよ。」と教えてくれるシーン。
『たったひとつの単語、たったひとつの言いまわしを知ることで世界が開けるということを知ったことが大きかった。』『私が、結果として1年に及ぶ長さになってしまう旅に出るのは、そのすぐあとのことだった。まさに<have>という単語ひとつを携えて。』…そうなのだ。まさにそうなのだ。私のサバイバル・イングリッシュも、<have >の乱用を基調としている。これは正しいと証明されたのだった。

116P:旅に当たって様々なカンパを沢木氏は受け取っていく。その中で溜め息をつきたくなるような渡し方をしてくれた文藝春秋の松尾氏。きれいな100ドル札が1枚。
『私が感動したのはその額の大きさではなかった。これから異国に旅立とうとしている者に、百ドル札を1枚渡すというふるまいに粋なものを感じ、参ってしまったのだ。』『私はその百ドル札をパスポート入れの奥深くにしまい、何かがあった時のためにと使わないでおいた。実際その百ドル札が1枚あることでどれほど励まされたことだろう。』…結局沢木氏はこの100ドル札を使わないままで帰国する。以後、知人が外国に行くとき同様の餞別を贈ることになる。…実は私も、一度だけ高校2年生でカナダに私費留学する教え子に、阿倍野の両替センターまで行って、米ドルとカナダドルにわけて餞別をしたことがある。これは、カナダでの米ドルとカナダドルの立場を理解してもらうためにわざわざそうしたので、”粋”とはいいがたいが、ふとそのことを思い出した。私も昔々、始めてアメリカに行くとき、当時の校長から米ドルで餞別をもらったことがある。…なんか嬉しかったよなあ。ちょっとした事だけど、やっぱり粋だと思う。

149P:マレー半島で知り合った駐在員夫婦との会話の中で得た考え方。
『わかっていることは、わからないということだけ。私はその言葉を常に頭の片隅に置いていたような気がする。そして、その言葉は、異国というものに対してだけでなく、物事のすべてに対して応用できる考え方なのではないかという気もした。(中略)私がこのユーラシアの旅で学ぶことのできた最も大事な考え方のひとつとなったのだった。』…このことは、私もジンバブエ行やブルキナ行で得たものである。結局わかならい。でもわからないということがわかったことが重要なのだと思うのである。

177P:バスでひとり旅をするということについて。
『ひとりバスに乗り、窓から外の風景を見ていると、さまざまな思いが脈絡なく浮かんでは消えていく。そのひとつの思いに深く入っていくと、やがて外の風景が鏡になり、自分自身を眺めているような気分になってくる。』…沢木氏は、ひとり旅をこうも表現している。『ひとり旅の道連れは自分自身である。周囲に広がる美しい風景に感動してもその思いを語り合う相手がいない。それは寂しいことには違いないが、吐き出されない思いは深く沈着し、忘れがたいものになっていく。』
…そう、ひとり旅とはそういうものだと思う。ひとり旅は自分を知る旅である。私も『深夜特急』に触発されて、アメリカやアフリカをひとり旅した。ルート66の田舎町セリグマンでみたアリゾナの美しい夕焼け。ジンバブエの夜明けに見たバオバブ。これらを忘れがたいものにさせているのはひとり旅だった故だと思うのだ。

実はまだまだ書きたいことがあるのだが、長くなってきた。これだけは書いておきたい。沢木氏は26才でユーラシアの旅にでるのだが、それより早くても遅くてもいけなかったのだと言う。早すぎると経験が足りなくて、危険に遭遇したりした時、対応できない。反対に遅すぎると、経験値がありすぎて、食事をはじめ好奇心が摩耗してしまう。感動できないというのだ。私はこの意見に賛成できる。人と旅の方法など、それぞれ違うだろうが、『深夜特急的ひとり旅』には、ある程度の経験値と若さからくる瑞々しい感覚のバランスが必要なのだ。私が始めて海外に出たのは35才。ひとり旅はその2年後。歳をとっているが、そのバランスは取れていたと思う。だからこそ、それ以後、何度もひとり旅に挑戦したのだ。バスの窓を見ながら、自分を見たい。そのパトスこそ「旅する力」なのだ。

トーゴの『ブードゥー』土偶の話

DODO WORLD NEWS が届いた。何回かこのブログでも紹介しているが、「道祖神」というアフリカ専門の旅行会社の雑誌である。夏に向けてアフリカツアーの紹介が満載である。ホント、60万円ほど、オカネが天から降ってこないかなあと思う。(笑)
さて、今回の記事の中から面白いものを紹介したいと思う。ブードゥーの話である。ブードゥーはハイチなどで盛んなアフリカが起源の民間信仰で、ゾンビで有名である。小川弘氏という美術商の方の『アフリカ美術入門』というコラムで、「ブードゥーの祠の祖先像」(トーゴ)について書かれていた。

ガーナからトーゴにかけてエヴァ族、アジャ族、フォン族と同系の文化圏にブードゥー教が信仰されているようだ。(調べてみると、さらに東のベナンが、ブードゥーは多いそうである。)ブードゥーとは、彼らの住む全ての世界に存在する、生命を支配する神秘的な力を表す言葉で、最も良く知られる工芸品は、金属製の洗練された彫刻(王家の主人用)や真鍮などで覆われたり包まれたり結びつけられたりした木製の彫像であるらしい。今回紹介されているのは、神殿や祠に置かれている焼き物である。儀礼に使われるらしい。

底が開いていて空洞になっている。(壺の逆さまのカタチ)生け贄の供物の体液が頭部から滴りその線が腰のまわりまで染みになっているので腰の部分から下は土の中に埋められていたことがわかる。…なるほど。

トーゴの首都ロメから20km位北に行ったところにフェティシュマーケットと呼ばれる占いに使われる市場があるそうである。牛や猿の頭蓋骨、カメレオンの干からびたもの、蛇、鳥、蛙などあらゆる動物の死骸。その市場に近づくと異様な臭いがただようらしい。小川氏は、そこで新品の「土偶」を手に入れたんだとか。なんとなくかわいらしいが、いったん祠に安置され何度か生け贄の儀式を経ると神秘的な力が宿っていくらしい。

以前にも書いたが、南アでこのような呪術の店に私は入ったことがある。面白いよなあ。アフリカの文化人類学。嗚呼、天からオカネ降ってこないかなと思う私であった。

2011年5月3日火曜日

毎日新聞の署名記事から

首相官邸
毎日新聞の今日の朝刊に、震災の第一次補正予算成立を受けて、政治部長古賀攻氏の「ポスト菅を明示せよ」という署名記事が載っていた。大筋を紹介するとともに、少し引用したい。
政界で「菅やめろ」の声がかまびすしい。なぜこんな事態となったのか。3.11以降の首相の振る舞いに第一義的な責任があるのは間違いない。初動の段階でますべきことに集中せず、やる必要のないことに手を出しすぎた。大震災発生直後、政府の最高指揮官として、全省庁が一体的に動く体制を即座に整えるどころか、「現場主義」「政治主導」にこだわるあまり、救援物資の速やかかな搬送に手間取った。原発を視察し必要以上に事故処理に口を出した。人事権の乱発や会議の乱造も、指揮命令系統の混乱を招いた。こうした点を批判されると強弁を繰り返す。

『国民は全知全能の神を求めているのではない。国民の痛みに心を砕き、公平無私で事に当たるリーダーであってほしいだけだ。』
『菅首相ではその任を全うできないという主張は理解できる。ならば誰がいいのか。与野党を超えて答えを明示すべき段階だ。』
『ポスト菅が小沢一郎民主党元代表の復権にすり替わってはいけない。鳩山由紀夫前首相に代表される空疎な言葉遊び政治に戻されても困る。まして巨額の復興予算にすり寄る野合など許されるはずがない。』
『日本政治の正念場だ。首相を選ぶ権限は国会にしかない。もし菅氏とは別の人物を見いだせないのなら、菅おろしに連なる人々は力量不足を恥じ、児戯のような「政局ごっこ」からきっぱり手を引くべきだ。』

なかなか小気味の良い署名記事だと私は思った次第。私としては、一刻も早く別の人物を見いだして欲しいところ。復興に向けて、日本の士気を鼓舞できる人物が、今必要だ。

2011年5月2日月曜日

セネガルでの外相発言に想う

昨日せっかく太陽の塔も撮ったので…
ODAは、トータルでは削減されるようだが、アフリカ支援は減らさないと松本外相が、セネガルで表明したそうだ。以下産経のWEBニュースからの引用である。
松本剛明外相は1日、セネガルの首都ダカールで記者団に対し、東日本大震災の復旧に向けた補正予算審議と日程が重なった外国訪問について「国際社会と歩んでいく中に私たちの復興がある」と述べ、必要性を強調した。また外相は、アフリカは天然資源や将来のマーケットの観点から日本経済に重要とした上で、震災対策として、政府開発援助(ODA)が削減される中、今後もアフリカ支援を継続する方針を表明。第5回アフリカ開発会議(TICAD)が開かれる予定の2013年以降も、アフリカ向けODAの予算枠を確保していくことの重要性も示した。(共同)
アフリカとの関係性を重要視する私としては、一応評価したいのだが、あえて、アフリカとの経済的なパートナーシップを強調したりして、ちょっと釈然としないところもある。
そもそも、この松本外相はどういう人物なのかよく知らない。で、調べてみた。a.wikipedia.org/wiki/松本剛明

意外なことに伊藤博文を高祖父にもつ、なかなかの門閥出身なのだ。しかも案外気骨がありそうである。前原外相辞任で降って湧いた外相就任なのだが、意外に頑張っているヒトかも知れない。以前書いたように、日本の美学として、国際貢献はゆずってはいけない一線であると私は考えている。この松本外相、本当に頑張れるヒトならば他のODA全体も削減しないようにして欲しいものだ。