展覧会も大入り満員だった。よく見えない。妻も不満なのかと見ていたら、チャッチャカ、チャッチャカと進んでいく。彼女も人混みが嫌いなのだった。(笑)さすがに、円盤投げのところではゆっくりと見ていたが…。「壺が多いよねえ。」と妻。そりゃそうだろう。ギリシアといえば、彫刻もいいが、私は壺だと思うのだ。
近くのカフェで、コーヒーを飲みながら、そんな話になった。「ギリシアの壺は、世界で最も美しいのだ。」と私が言うと、妻は不思議そうな顔をした。「どこで見たん?」「ボストン美術館。空いてて、近くの美大生がスケッチをしていたりして…。」「ふーん。」私は、その時あまりの美しさに感激し泣けたのである。
だが、今日はとても泣けなかった。混んでいたからだろうか?違う。さきほどブログで書いた『旅する力』にあるように、歳をとったのだ。好奇心や感動する心根がすでに摩耗しているのかもしれない。もうギリシアの壺で感動できない。35才という齢で、あのボストンという非日常的空間で、ギリシアの壺を見たからこそ感動できたに違いない。そんなことを考えていたのだった。
その後久しぶりに南京町に寄った。別に用もないのだが、ブラブラするのもいい。「加油、東日本」という文字に”今”を感じたのだった。
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