2010年2月8日月曜日

佐藤優の神学論を読む


 一週間ほど前のこと。愚息が「この本読んだから…」と佐藤優の新書を置いて行った。愚息は、ブティストでありながら同志社大学神学部の院生である。専門はアラビア語とイスラームだったが、最近はヘブライ語とユダヤ教に移りつつあるらしい。すなわち、神学部とはいっても一神教センターの学生なのである。とはいえ、その間にあるキリスト教的素養は無視できない。佐藤優は、先輩にもあたるわけで一応読んでいるようだ。この本で4冊目のオサガリである。(それまでの3冊とは、私のマルクス、甦る怪物、神学部入門である)佐藤優の著作は「国家の罠」以来たくさん読んでいるが、この新書『はじめての宗教論・右巻』も見事な論理立てで面白かった。
 この本の結論は241Pにある。「目に見える世界の比重が異常なほど高まった近代以降では、実体的でないものや目にみえないもの、あるいは数値化不能でカネへの換算のできないものが理解しにくくなってしまい、愛情とか慈しみ、思いやりなど目に見えないものがわからなくなっってしまう。キリスト教の考え方では、身に見えないものが受肉されていないと意味がないことになる。友情ならば、具体的な友人との間の友情、愛情ならば、自分のパートナーへの愛情、子供への愛情という具体的な形をとる。具体性のない友情や愛情は全く意味はない。だからこそ類比という考えが重要になる。類比とは人間と周囲の関係性の問題であり、世俗化した時代に人間に要請される倫理の問題である。」こう書くと全然面白くないのだが、この結論を導くために様々な神学の基礎概念や聖書の話が出てくる。ポール・コリアーと同様、あの話がこの結論のこの部分を肉付けしているのだと最終的にわかる。佐藤優は、やはり一流なのだ。旨い。読ませる。こんな文章を書けるようになりたいと思うのである。
 神学は、高校の倫理ではほとんど出てこない。専門すぎるのである。しかし、佐藤優の影響でスラブ圏も含めた欧米の異文化理解のためには、大いに勉強しなければならないと最近考えている。

 追記:ケニア・タンザニア方面に長期間行っていた阪大スワヒリ語学科のOGが「無事帰国しました。」とメールをくれた。いつになるかはわからないけど、「教え子はアフリカをめざすⅡ」乞うご期待!

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