2024年5月31日金曜日

生憎の天候の中、球技大会

https://www.ac-illust.com/main/
search_result.php?search_word
曇り時々雨という生憎の天候だったが、学院の校内球技大会が開かれた。途中で雨で中断した場合に備えて私も登校していたのだが、結局無事に開催できたのだった。

3年生は全員教えているので、会場で会うたび、「見に来てくれたんですか。」と喜んでもらえた。こういうイベントでは授業とはまた違う顔を生徒諸君は見せてくれる。それがまた嬉しい。バレーボールやバスケットボールと行った球技大会でもメジャーな競技もあったけれど、特に女子のキックベースボールが面白かった。三角ベースでピッチャーが転がすボールを蹴り飛ばすのだが、ソフトボール部の子が、見事なキックを見せて外野へ大飛球。見事ランニングホールランを見せてくれた。ヤンヤやんやの大喝采である。

元女子校である学院では、まだまだ少数派の男子は、ドッジボールで本気で戦っていた。黄色い声援があったりして、テンションがかなり上がるのだろう。(笑)2度ほど見ていた私に当たりそうになったが、最初はキックで、二度目は見事にかわした。(笑)なかなかのスピードとパワーである。後で、生徒が謝りに来たのだけれど、故意ではないし、そういう場所で見ていた私もリスク覚悟で見ているので、全くノープロブレムである。いやあ、楽しかった。

2024年5月30日木曜日

地理と政経のバッティング

缶コーヒーの画像はなかったので…。https://www.makuake.com/project/kaffa-coffee/
地理総合の総合進学コースでは、系統地理の農業をやっている。昨日、非常に珍しいことが起こった。あるクラスで、農業はビジネスであるという話で、100円のコーヒー缶のうち、コーヒー豆を生産している農家の取り分の話をしていたら、変に無茶苦茶盛り上がったのだ。そんな面白い話ではないのだが…。聞くと、ちょうど政経の授業で、全く同じ話が出てきたのだという。

1次産業より、2次産業、さらに3次産業のほうがはるかに儲かるという例なのだが、極めて同時のタイミング、もっというとバッティングしてしまったのである。(笑)政経の担当者の先生の見識は大したものだと思う。この1次・2次・3次産業の構造は、途上国と先進国、あるいは地方と都市の経済的格差の根本であり、社会科学的に極めて重要だからである。二度聞いた生徒は幸せだといえるだろう。(笑)

2024年5月29日水曜日

フーコーを読む。

学院の図書館で昨日借りた本の1冊は、「シリーズ・哲学のエッセンス フーコー」(神埼繁/NHK出版)である。昨日エントリーしたアフリカ哲学への招待の中でも、フーコーとの関わりが出てきた。フーコーは様々な側面を持ったポスト構造主義の哲学者である。今日から読み出したので、まだまだ読み進んでいないのだが、この本は、フーコーの死の場面から始まっている。

1984年、『狂気の歴史』で度々論及した病院で死去したフーコーが運び出された時、多くの知人・友人の見送りを受けた。これが実質のパリでの葬儀となった。とはいえ正式なものではないので祈祷は行われず、最後の著作『快楽の用法』から、その一部が朗読された。朗読者はドゥルーズであった。

「哲学の本領が、自分のすでに知っていることを正当化するかわりに、他のように考えることが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何であろうか。哲学的な言説には、自らに疎遠な知に関して修練を積むことで、それ自身の思考のうちで何が変わりうるのかを開拓する固有の権能がある。この試み―自分自身の変容のための試練という意味であって、他者を単純化して自己に同化するという意味に解されてはならないーこそ、哲学の生きた身体であり、少なくとも、哲学がかつてあったように依然として今もあるとすれば、思考における、いわば修練、自己自身の鍛錬である…。」

この本の副題は、「他のように考え、そして生きるために」である。難解な文章であるが、実に魅力的なコトバである。じっくりと読んで、そのエッセンスをまたエントリーしていきたいと思っっている。

2024年5月28日火曜日

アフリカ哲学への招待

https://webgenron.com/articles/article20240527_01
中間考査の採点がひとまず落ち着いたので、学院の図書館で哲学の本を2冊借りてきた。この書評はまた後日にするとして、帰宅後たまたまネットで、「アフリカの哲学への招待ー他者の哲学から関係の哲学へ」(中村隆之/前・後編)という記事を読んだ。ものすごく端的にまとめてしまうと、前編では、欧州の人間による他者からみた人類学的な民族哲学の紹介から始まったアフリカ哲学とその批判の系譜が語られ、後編は、奴隷貿易によるカリブ海や北米にディアスポラしたアフリカ系の人々の関係性を問いかける哲学の新たな構築について語られている。

アフリカを愛してやまない倫理の教師である私としては、実に興味深い記事だった。ここに登場する邦訳された書籍も是非読みたいと思っている。幸い、今回借りてきた哲学とは関係が深いようだ。まずは、そこから、というつもりである。

…アフリカの哲学というと、私がまず浮かぶのは、利己的な個人主義ではない、どちらかというと集団主義的な社会思想かなと思う。ケニアのハランべ―(助け合い)もそうだし、情の経済もそうだ。血縁や地縁のギブ アンド テイクの親密な関係が極めて濃い。土地についても、個人ではなく村の所有であって、村長は管理者。たとえば未亡人が出来したら、村として土地を分け与えて、生業を助けるのが当然といった感じである。この裏には利己的なスタンスに対しては、呪術的な報復への恐れのようなものも存在する。意外に日本人には理解しやすい。また以前、京大の公開講座では、在来知という概念を教えてもらった。アフリカから学ぶことは多いと私はずっと考えている。こういうジャンルがあることを知って、新たな知への探求を進めたいと思った次第。

2024年5月27日月曜日

Googleのクラスルーム

https://www.meisei.ac.jp/es/information/2020/0521.html
教師になって44年。初めて、考査直後の授業で答案を返さなかった。パソコンでの採点結果は、再確認した後に午後に入ってから、M先生の指導のもと、Googleのクラスルーム(画像参照こんな感じの画面:学園では教科として地理総合のクラスルームを作成している。昨年までの学園では各クラスごとだった。)というアプリに連動して送信した。PDFで各人の答案もデータとしてPCに保存したが、なんか変な感じである。

3コマの授業と、考査のPC処理で疲れ切った1日だった。やはり新しいことに挑戦するのは骨が折れる。(笑)だが、自らを変えていかないと成長もない。昨年までの学園では、優秀な生徒に対応するため、教科指導で様々な新しい取り組みをしたが、ICTシステムには全く手が出なかった。(笑)学院では、まずこういったICTシステムに挑戦することが重要だと覚悟を決めたのだった。

マレーシアや四国にいっているうちに、学校現場は大きく変化していた。時代の速さとICTの変化を実感した中間考査だった。次回の期末考査は、できるだけM先生に迷惑をかけないようにがんばろうと思う次第。

2024年5月26日日曜日

採点を終えて、教材研究。

http://blog.livedoor.jp/saiyutravel-africa/archives/3254510.html
採点を終えて、今日は、次の授業の用意をしていた。総合・看護コースの5クラスは、気候区分の学習から農業に入る。国公立の特進コースは、教科書に従って大地形から小地形。全く別の流れでやっているの2教科教えている感じである。

地理は、三崎高校の非常勤をさせてもらって、まず、たった2人の理系組を2年連続で、5人の理系組を1年間教えて以来である。やはり、理系には地理が向いている。国名や地名は当然覚えなければならないが、これは化学の元素記号と同じ。ゆとり教育もいいし、思考能力の重視もいいが、小中学校でその辺の地名の基礎はおさえてもらわないと、高校の現場はどこも大変である。(笑)

さて、罷業は3つのテーゼを用意した。阪大の佐藤教授の「地理総合」にあった「乾燥と戦う農業」と「雑草と戦う農業」、それと私のオリジナルである「農業はビジネスである」。乾燥と戦う農業は、BW・BSといった乾燥帯とCs(地中海気候)、それに冷帯のDf・Dwまでが含まれる。北西ヨーロッパのCfb(西岸海洋性気候)は中間なのだが、どちらかといえば乾燥と戦う罷業に入る。なかなかおもしろい視点だ。

ちなみに、「農業はビジネスである」といいながらも、遊牧は、ビジネスから最も遠い農業である。京大公開講座でのアフリカの学びで、焼畑農業とともに私は詳しい。ケニアなんぞでも昔教科書で区分されていた自営的農業は今も存在するけれど、余剰分は現金にかえる(国道沿いにそういう屋台のお店をしょっちゅう見た。)し、遊牧でさえ、余剰の家畜は市に出されている。ただビジネス(商業的農業と言い換えても良い)から、最もこの2つは遠い。

地形の方は、農業ほどおもしろくはない。(笑)大地形では、プレートテクトニクスの話や安定陸塊なんかを語ることになるが、これも地名がわんさか出てくる。今回の中間考査でヨーロッパの国名はマスター出来たと思うので、ギャオのあるアイスランドくらいはわかると思う。(笑)

明日は、午後からパソコンによる採点業務の最終段階に入る。またドライアイになりそうだ。(笑)

2024年5月25日土曜日

カトリックと正教会の相違考

https://web-mu.jp/history/6268/
「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)のエントリーも、そろそろ大詰めである。今日は、比較的細かな相違の話。

有名どころでは、聖像の問題がある。カトリックでは三次元の聖像も二次元の聖画もOKだが、正教会ではイコンという二次元のみである。ちなみに、正教会ではこのイコンを聖像と呼んでいるのでややこしい。教会の十字架にイエス像がついている場合はレリーフなのでOKらしい。2.5次元の聖像というわけである。

もう一つの有名どころは、十字のきり方で、カトリックは胸の左から右に切るが、正教会は反対に右からきる。著者によると、聖書の記述などから右が重要視されているがゆえで、カトリックはどこかで間違ったのだろうとしている。ちなみに、正教会は十字をきる時の手で親指・人差し指・中指の3本をまとめるのは三位一体(=至聖三者)を、丸めた薬指と小指はイエスの神性と人性を表し、厳格に守っているとのこと。(さらに右の重視に関わって、カトリックでは結婚指輪を左にはめるが、正教会では右とのこと。徹底している感が強い。)

天国と地獄観も相違がある。カトリックでは煉獄がある。小さな罪の汚れのある者が天国に入る前に清められる場所であるが、正教会はその存在自体を否定している。天国に行くか地獄に落ちるかは神の意思であり、教会の免責の行き過ぎた拡大解釈の代表例が免罪符(贖宥状)である。正教会は罪のゆるしは、神の意志に委ねて祈るしかないとしている。

極めて細かい相違の話。聖職者の髪の毛で、正教会では長髪とヒゲを伸ばしている。旧約の士師記に登場するサムソンが神に誓願をかけた人間として登場するところから来ているらしい。私の正教会の神父のイメージは、著者に誠に申し訳ない気もするが、ラスプーチン(画像参照)である。(笑)カトリックでは、もう禁止されているらしいが、トンスラという剃髪のイメージである。この差は長い両者の対立・対抗意識が生んだものであるらしい。

意外に興味深い話だったのが、両者の破門について。異端の宗派については、前述したので、芸術家はどうか、という内容が面白かった。たとえば、神曲の中で当時の教皇やコンシタンティヌス帝などの悪口を書きまくったダンテは破門されていない。飲む打つ買うで借金漬けになったドストエフスキーは破門されていない。「沈黙」を書いた遠藤周作もセーフ。意外だが、正教会に破門されたのは、トルストイ。正教会を否定し、自ら信ずる信仰、神を被歴し自分の考えた聖書を他者に押し付けたらしい。作品とはかなり異なる傲慢な人物だった故か。さらに破門について少し調べてみたら、カトリックの場合、国王が無茶苦茶多い。ハインリヒ4世やヘンリー8世等は超有名だが、ナポレオン1世やジョン王などその他にもいっぱいいる。現代史では、キューバのカストロも破門されていた。宗教改革のヤン・フスやマルチン・ルターも当然含まれている。ちなみにジャンヌダルクは、異端審問にかかり火刑にされたが、後に列聖されている珍しい例。

…この「オーソドックスとカトリック」は、正教会側からの著作なので、カトリック批判がどうしても強くなる。そのデメリットを差し引いても、実に興味深い一冊であった。