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ここで、著者は日系米人のフランシス・フクヤマの「歴史の終わり?」と「歴史の終わりと最後の人間」を取り上げる。彼は冷戦崩壊前に「歴史の終わり?」で、自由と平等が実現すれば、もはや大規模戦争は起こらず、世界は、自由や平等、民主主義、人間の権利、公正な市場競争などを基準価値安定的秩序に向かうと主張した。この単純な楽観論が時代にマッチした。「歴史の終わりと最後の人間」も同様の主旨で様々に批判されたのだが、著者は、タイトルにニーチェの言葉である”最後の人間”という語を付け加えたかに着目している。この”最後の人間”の意味は、自由や平等、豊かさが手に入れば、家畜の如き存在になり、人間は人間ではなくなるという意味である。
フクヤマは、ヘーゲルの歴史観を下敷きにしている。「精神現象学」にある「意識の発展のある段階で、人間は社会性の意識を持つ。つまり他者とともに生きる。では社会的存在としての人間のもつ自己意識はどのようなっものであろうか。それは、自分自身を他者から認められたいという承認への欲求にこそある。承認欲求こそは人間の社会性の証である。」という一文が重要な意味を持つことになる。
この承認願望は、優越願望にしばしば転化される。優越願望によってもたらされる争いは、やがて対等願望に置き換えられる。それこそが、近代の自由・民主主義の制度にほかならず、それを実現したのがフランス革命である。ヘーゲルは、フランス革命の信奉者であった。フクヤマもまた、近代市民社会こそが歴史の着地点と考えた。
いわゆる典型的な近代主義・進歩主義の歴史の論理理解で最も重要な命題は自由であると著者は言う。その起原は古代ギリシアの、他者の支配を受けない、自らの意思で自らの決定を行うという尊厳ある気概(テューモス)である。福沢諭吉の言う「自由とは一身独立の気風」は、西洋思想の核心をついているわけだ。ところで、ヘーゲルは、「生命を賭けることによってのみ自由は得られる。」と述べている。ヘーゲルの言うように、たしかに西欧は自由をめぐる闘争が歴史を作り出してきたことは事実である。
さて、西洋思想には別の系譜がある。キリスト教的人道主義や自然法思想である。生命尊重こそ最も重要な自然権であるとしたホッブズであるが、彼は人間の持つ根本的な性格である「力への意欲」が、万人の万人に対する戦いをもたらすとした。ヘーゲル同様、「はじめの人間」には優越願望があるとするわけだ。しかし、ホッブズは、契約によって主権者に絶対的な権力を与え、自分たちの虚栄心や名誉欲を捨てさせることを説いた。ギリシア・ローマの市民の名誉を捨てさせ、生命や財産といった近代的権利へと変換したといってよい。ここにホッブズの近代性がある。
…ずいぶん長いエントリーになってしまった。第2章の内容はまだ続くので前半終了ということにしたい。西洋思想は、ヘレニズム(ギリシア哲学)とヘブライズム(ユダヤ教・キリスト教)が根っこにあると倫理の授業では教えるのだが、社会思想の分野においても、自由や生命尊厳といった視点で、同様であることに改めて気付かされた次第。…つづく。