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事実上の建国者で二代目皇帝となった李淵の次男・李世民(りせいみん:後の太宗)は中国史上三本指に入る名君とされている。その治世は貞観の治と呼ばれる。(多分に大運河による経済的恩恵も大きい)太宗は、随の均田制・租庸調制・府兵制を引き継ぎ、これに法的な整備を加えた。律令格式である。中央官制は、三省六部制で、三省は、中書省(ちゅうしょ)・門下省(もんか)・尚書省(しょうしょ)である。中書省は皇帝の意を受けて法令を文書化し、門下省は南北朝以来の名門貴族がそれを審査し拒否権をもっていた。(名門貴族が官僚機構に完全に取り込まれたとも見える)門下省の審査を受けた法令は尚書省に属する六部、吏部(りぶ:官僚の人事)、戸部(こぶ:財政)、礼部(れいぶ:教育と官僚登用試験)、兵部(へいぶ:軍事)、刑部(けいぶ:司法)、工部(こうぶ:土木建築)に送られた。
対外政策では、臣従してきた周辺諸民族の長に、地方官の役職を与え、都護府(とごふ)という役所に監督させるという実質的に自治を認める緩やかな支配(=羈縻政策:きび/馬や牛をつなぐ紐の意)を行った。
続いて、唐中期の武韋の禍について。第三代の高宗は高句麗を滅ぼしたが、優柔不断な皇帝だった。彼の皇后が、武后(もともとは父太宗の後宮にいた)で、百官の前で判断に困ると背後の簾の奥にいる武后の進言を聞いていたという。高宗の死後、実験を握ったのは武后で、息子の中宗(在位683ー684)を立てるが意に沿わなかったので退位させ、さらに睿宗(在位684-690)を立てる。しかし気に入らず、ついに自らが皇位につく。中国史上唯一の女帝武則天(在位690-705)の誕生である。国号も李から武に変わったので周に変えられた。一般に武則天は則天武后と呼ばれるのだが、これは彼女の帝位を認めたくない立場からの呼び名である。彼女の政治に対しては、北周ー随ー唐と続いてきた支配者集団は非協力的であった。鮮卑系の軍人でも南朝の貴族でもない故である。そこで、武則天は、中央だけで実施していた官僚試験を地方に拡大し、自分に従う新官僚集団を形成した。また1000人を超える貴族やその家族への粛清も実施、最晩年には中宗が再び即位した。しかし今度は中宗の后の韋が中宗を毒殺、末子の殤帝(しょうてい)を傀儡として、次に自ら即位して実権を握ろうとしたが、李隆基(後の玄宗:第9代皇帝)が政変を起こし、その父である睿宗(えいそう:高宗の八男・第5代・第8代皇帝)が再び即位した。
…久しぶりに武韋の禍を再研鑽した。教えた記憶はあるが、これを教えたのはいつだったか。思い出せないほど昔である。
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