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755年安史の乱が起こる。安史とは安禄山と史思明の意である。安禄山は、北京の北方の節度使の長官で、中期以後、羈縻政策がうまくいかなくなった故の辺境防備の軍団(全部で10設置:兵は傭兵)で、民政も司っていた。安碌山の父はイラン系のソグド人、母は突厥人。6ヶ国語に堪能で通訳から出世し、楊貴妃とつながりを持っていた。しかし、楊貴妃の一族の宰相、楊国忠と非常に仲が悪かったので、彼に讒言されることを恐れていた。三地域の節度使を兼任していた安禄山はその軍事力を使い失脚から免れるために反乱を起こした。15万の反乱軍は進軍を続け、洛陽、756年長安を占領。玄宗は、長安を逃れ四川方面に向け落ち延びたが、親衛隊が玄宗に楊貴妃を殺すように迫り側近に絞殺させることになる。玄宗は責任をとって退位し、息子の肅宗(しゅくそう)が即位し、ウィグル人に援助を要請した。一方安禄山は新政府を立て皇帝になったものの、政治能力もなく大混乱になる。失明し、全身皮膚病となり自暴自棄になったので息子に殺される。その息子も史思明に殺される。史思明も安禄山同様の男でその息子に殺される。その息子には反乱軍をまとめる力量もなく、763年、ウィグル軍に滅ぼされた。
この9年間の戦乱で、華北の農民は逃げ出し、均田制が崩壊、均田農民は没落して小作農(=佃戸:でんこ)化する。佃戸は貴族とは関係のない新興地主階級のもとにあり、租庸調制も崩れた。そこで、唐朝は、楊炎(ようえん)の検索で、両税法(夏と秋に銭納)を実施、また塩の専売制を強化し、財政を補った。府兵制も募兵制に変え、節度使を各地に配置した。節度使が反乱を起こしたら他の節度使が鎮圧するシステムだが、投稿してきた元反乱軍の武将が節度使になったので、等への忠誠心は乏しく自立化(命令の無視や納税の無視)していく。ただ江南地方は大運河を使って唐に納税していたので生命線となった。
安史の乱で税制や兵制を改革して延命した唐だが、最後の打撃を与えたのは、黄巣の乱(こうそう:874年-884年)である。黄巣は、塩の密売人で、専売制の強化で軍が投入され追い詰められ反乱を起こしたのが始まり。都市を攻撃しながら移動を続け、流賊と呼ばれた。江南もその被害を受け、流民を吸収し数十万の勢力となり、長安を占領、黄巣は皇帝に即位し、南北朝以来の貴族をことごとく黄河に投げ入れて虐殺し、貴族の家系は絶えたと言われている。唐朝は、軍事力がなかったので黄巣軍の武将に帰順を呼びかけ官位官職を与えることにした。これが功を奏し唐に有力武将が寝返り形勢が逆転、黄巣は自殺して反乱は終わった。
しかし、中国全土の節度使は軍閥化し、唐朝は形骸化、907年開封の節度使・朱全忠(黄巣軍の元武将)が唐を滅ぼし、後梁を建国した。開封は大運河と黄河の合流地点であるが、中国全土を支配する力などなく、黄河流域をかろうじて勢力範囲としただけで、各地域の節度使が次々に建国、五代十国と呼ばれる分裂時代に入る。
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