マレーシアにいるD大のL君から、「我々は真理を断念することができるか?」というテーマの期末試験の小論が送られてきた。テクストがあり、もうすでに提出したものらしいので、テクストを知る由もない私としては、このテーマでちょっとばかり考えてみようと思う。
このテーマは真理の有無を問題にしているのではなく、断念することの是非を問うている。当然ながら、自然科学の世界の話ではない。真理を追究する事を断念することは自然科学の存在の全否定を意味するからだ。あくまで、哲学の世界で、という前提で論議を進めてみよう。
このテーマで私の脳裏に浮かんだのは、ヴィトゲンシュタインである。「語りえぬものについては、人は沈黙に任せるほかない。」ここでいう語りえぬものとは形而上学的な真理と読み取れる。真理を断念することを宣言したわけだ。
次に浮かんだのはデリダである。デリダもロゴス中心主義で形而上学を完全否定している。誤解を恐れずに言えば、コトバで構築されたそれまでの哲学を否定して見せた。
彼らが否定している真理は、相対主義批判とは違う。もっと本質的な哲学が言語によらざないと成立しえないという観点から否定している。新約聖書のヨハネの福音書の冒頭にある「初めにコトバ(ロゴス)ありき」を完全否定しているわけだ。
たとえば、カントが、相対主義(ヒューム)からの批判を受けて、それまでの形而上学を先天的認識形式で否定し、次に現象界における道徳形而上学を構築したように、真理の断念するのは哲学の世界では難しい。哲学の存在自体が、真理追及そのものだからだ。カントが苦労して物自体の世界=経験を超えた世界と形而上学を復活させたのも、相対主義=真理の断念は否であるという確信からであったといえる。
だが、ヴィトゲンシュタインやデリダにかかっては、一網打尽である。コギトの否定のみならず、ロゴスの否定は哲学の世界においての全ての真理追及の道を断ってしまうからである。よって、私は真理を断念する事は可能だと思う。
ところで、L君の結論は面白かった。なかなか味のあるいい小論だったと思う。かなり成長したなあ、文系の日本語を駆使しているところは流石である。ところで私の感想の返信によると、テクストはギリシア哲学の内容だったようだ。PBTで哲学史を講義しておいて良かったと思う次第。
2020年7月29日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿