2020年7月21日火曜日

日本国憲法第一条の謎(1)

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中学生の時、日本国憲法の第一条が天皇であることを不思議に思った。てなことを塾のLINEのコラムに書いた。何故天皇なのか?教師になって政治経済を何度か教え、天皇に関する本、幕末史や近現代史の本などを何十冊と読むうちに、私なりの結論を得た。今日から何回かに分けて私論を展開しようと思う。マレーシアのPBTでも学生たちに語った内容でもある。(ほとんど試験には出ない話ばかりだが…。)

そもそも日本史は天皇を中心とした歴史である。平安期、平氏くらいから天皇は「権力」から「権威」すなわち「玉」(覇権者が天皇の権威を借りるというシステム)となったが故に、万世一系、今やエチオピアを抜いて世界一長い王朝となっているのである。武士もまた清和源氏、桓武平氏というように、天皇の一族出身である。

江戸期は、天皇受難の時代であった。しかしこの状況を破ったのは、御三家の一つ水戸藩であった。江戸初期の超有名な水戸黄門=徳川光圀は大日本史の編纂を始めたことで歴史に名を遺した。水戸藩は御三家でありながら貧乏な藩で、しかも尾張・紀州と違い、徳川将軍家の世継ぎになることは家康に止められた藩である。(水戸黄門が天下の副将軍だと言うのは間違っているのだが、世継ぎになれない、ということの表現と読み取れるので面白い。)しかも家康からは、天皇家を護持することを命じられている。不思議な御三家なのだ。やがて大日本史は完成し、そこで大きな疑問点を提起することになる。当時の最高権力者は、当然ながら将軍である。将軍=征夷大将軍は、天皇によって東北地方の平定を命じられた坂上田村麻呂が起源である。すなわち、天皇に任命されるわけで、天皇が上位にあるのは自明の理である。大日本史を読んだ水戸藩士は尊王主義者となる。彼らが江戸の道場(桃井道場や千葉道場など)で諸藩の若者にこのイデオロギーを伝播することになる。ところで、当時の水戸藩藩主は、裂公=徳川斉昭である。彼は攘夷を勇ましく唱えていた。尊王と攘夷というイデオロギーがやがて一体化する。尊王攘夷の志士たちをつくったのは、御三家の水戸藩なのである。

ところで、徳川斉昭は、藩の伝統にしたがい朝廷から正妻を迎えているが、とにかく多くの子供がおり、親藩に養子に出しまくっていた豪傑であった。中でも優秀だったのが慶喜である。水戸藩から徳川将軍家に世継ぎとしては出せないので、御三卿(御三家以外に世継ぎを出せる名家)のひとつ一橋家に養子に出した。その後、結局、慶喜は第15代将軍となる。彼は優秀な人物であった。それは間違いない。だが、岩倉具視と大久保利通の狡知に敗北する。鳥羽伏見の戦いで、錦の御旗が掲げられたからだ。これは偽モノだが、少なくとも、天皇家を守るという家康以来の水戸藩のDNAは、慶喜にとって朝敵になることをゆるさなかった。で、兵を置いて密かに江戸に逃げるのである。慶喜殺すにゃ刃物はいらぬ、錦の御旗で十分だというわけだ。アームストロング砲の威力をはるかに超えた薩長土の倒幕派の秘密兵器だったのだ。

幕末史を理解する上で、家康以来の天皇家を守る宿命と尊王の水戸学(=大日本史)・水戸藩は、実に重要なキーワードなのである。この流れがあってこそ、天皇が将軍を凌駕したわけだ。…つづく。

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