佐藤優と中村うさぎの対談「聖書を読む」(文春文庫/本年2月10日発行)を読んでいる。読んでいて、中村うさぎというヒトが本質的によくわからないのだが、佐藤優の一神教の蘊蓄をピックアップして楽しんでいる感じだ。ちなみに中村うさぎも同志社大学出身である。
創世記の天地創造の初日、「夕べがあり、朝があった。」というコトバで終わる。だから、シャバット(安息日)は、金曜日の日没から翌日の日没までとなっている。佐藤優によると、その間は火を動かしてはいけない。新たな着火、火量を変えることはいけない。とろ火でスープを煮込み続けるのは構わないが、消してはいけない。これが火を動かさない意味。車は火を使うので運転は不可。エレベーターなどモーターを使うのも不可ということになる。…なるほど。
同じく天地創造には、「神は彼らを祝福してこう言われた」というコトバもてくる。この祝福は、永遠の生命を与えたということ。神は人を造った時点では、永遠の生命を取り上げる予定はなかった。ロシア正教やオーソドックスのミサ「聖体礼儀」では、この辺をよく表現している。至聖所という場所の手前にイコンを貼った壁があり、その入口にカーテンがかかっていて、それが開きお香の煙がワーッと出てくる。これは聖霊の象徴。いきなりカーテンが閉まりお香が出てこなくなる。これが、罪と楽園追放のシンボルである。祝福には、切れ目のない生命という意味が含まれているが、永遠という時間とかの概念はギリシア的で、キリスト教はそういうギリシア的フィルターを通して解釈されている。ヘブライ語で解釈するユダヤ教とは若干ニュアンスが異なるのだが、この永遠の生命を与えたというのは両者とも大前提となっている。…なるほど。
このあと、創世記の蛇の話や原罪のハナシから、善と悪の存在をめぐって、中村うさぎがぐちゃぐちゃ噛み付いてくる。これを佐藤優は、ウィトゲンシュタインの「ウサギアヒルの絵」をつかって、旧約聖書がわからないというのは分節化の違いであると述べている。どこで切ってどう組み立てるかという、文法構成や論理構成の違いのハナシである。旧約聖書の論理は日本人の論理とは違う。たとえば、ホストの世界にはホストの文法があるように、どれが上でどれが下だとかではなく、それぞれが内在論理を持っている。いろんな問題の原型が、天地創造の物語に盛り込まれていて、難しい。だからこそテキストとして長生きする。
重要なのは、ユダヤ教やキリスト教の話には、根源的なところになると因果関係も理屈もない。聖書というものは、目に見えない事柄を可視的に、耳に聞こえない事柄を聞こえるようにコトバで表さないといけない。それが聖書全体のテーマ。だから、ここに書かれていることは全て人間による作業であって、人間によって作り出されたことである。そこのところをテキストの論理で正確に読んでいくとなると、ファンダメンタリズム、原理主義になる。これは、キリスト教原理主義でもイスラム原理主義でも同じ。…なるほど。因果の存在抜きにブティストの私などは、様々なハナシは理解不可能である。案外、こういう根本的な事実は見逃しがちである。
ユダヤ人たち、旧約聖書を信じる人たちは、基本的にこうなっているんだと言われたら「あっ、そうですか。」となる。論理的に説明がつくと思っていても、説明のつかない残余の部分が必ずあるもの。その部分を上手く表現することができたのがユダヤ教。だからこそ、ユダヤ思想家の流れからフロイドの精神分析学とか、ユングの無意識の領域という発想が出てきた。…なるほど。納得である。
今日は、国公立を目指していた2人の卒業生のうち、1人の桜が早咲きしてくれた。「超」嬉しい。もう1人は、もう少しかかるみたいだ。だが必ず桜は咲く。諦めの悪い者が勝ち桜を咲かせる。受験の世界というのはそういう内在論理が貫かれている。
2016年3月8日火曜日
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