昨日、リリ~君のブログを読んでいるとpeer educationについて書いていた。 私も英語で言われるとちょっと汗ばむけれど、要するに学校現場などで、リーダーの生徒を育成し、彼らに自分の指導を他の生徒に言ってもらうように導く指導法だと私は解釈した。国際協力師として、途上国へ出向く彼にとっても、パートナーの育成等に絡んで、非常に重要な問題なので、ちょっとコメントは入れたのだけれど、改めて本ブログでこの問題について書きたいと思ったのである。
この方法論は基本的に間違っていない。生徒には様々なタイプがあり、特にリーダーシップという点から、向いている生徒と、(今は)向いていない生徒がいる。(ここでいうリーダーシップとは、統率力とでも訳した方がいいかもしれない。責任感があり、動じず自分の意見が言える。その発言に影響力といったパワーを意識する語彙である。)若いころ、商業高校で私は一生懸命クラスでリーダーを育成した。幸い、そういう才能のある生徒が多くいて、生徒会活動や文化祭などで、懸命に人育てに励んだものだ。当時の商業高校では、進学する生徒など皆無で、実社会が求める人材は、私の育てようとする人材とほぼ同義語であったし、彼らリーダー群と私の関係は、おたがいオジサン・オバサンになった今も続いている。
ところで、そのリーダーを養成できたのは、なにがしらのロジックがあり、そのマニュアル通りに指導したから養成できたわけではない。私は、学生時代にいい先輩方に巡り合って、その先輩のようになりたいと強く願い、”付ききった”からなのである。この”付ききった”という語彙がなんとも説明しがたい。その先輩が何を考えているのか、考え抜いて、そのようにを実行する。と言ったらあまりに辞書的な言い方かもしれない。私が”付ききった”先輩方というのは、大体私を見切ってくれた。何を考えているのか即座に指摘されてしまうのである。私の欠点をずばり指摘してしまう、そんな恐ろしい先輩であった。しかも、人情の機微に敏感ときている。私は、先輩方につききり、自分もそうなれるように心がけたつもりである。この時、先輩ならどう動くだろうか…常に自問自答しながら教師をやってきた。
付ききったという「因」が、付ききってもらえるという「果」を生む。当然の理である。昔々、私が勤めていた商業高校で、リーダース・キャンプという生徒会の行事が大阪市立の伊賀キャンプ場で行われた。そのキャンプファイヤーを担当していた時の事である。夜に備えて、薪を組み、近くの木から矢を落として点火できるように生徒たちと仕掛けをした。他の生徒たちは飯盒炊爨でカレーを作っていた。「さて、大体OKだし、食事をとろか。」と解散宣言をした。私もカレーを食べていた。すると、ポツ。ポツ。雨粒が落ちてきた。私はとっさにファイヤーにブルーシートをかける必要を感じ、カレーを食べるスピードを速めた。「ありがと、おいしかったで。」と食器を渡し、立ちあがろうとすると、他の班で食べていた生徒が私の動きをじっと見ていたらしい。走ってきて、こう言ったのである。「ブルーシートですねっ!」2人でファイヤー場につくと、さらに他のメンバーが「ブルーシートはどこですかあ。」とダッシュしてきた。
ちょっと偉そうに聞こえるかもしれないが、人を動かす、人を育てるというのは、そういうことのような気がする。ロジックでも、マニュアルでもない。自分の”付ききる人”を見つけること。その人の発想や動きを自分のものとすること。見抜かれたから、見抜ける。付ききったから付ききってくれる、という単純な因果の中に、大事なことがあるような気がするのである。
そう言えば、最近は好々爺になってしまって、生徒を見ぬけても、ズバッと斬るようなことはしなくなった。出来すぎの生徒に囲まれてしまっているかなと思う。まあ、斬らなくとも、優しいコトバで十分見抜かれていることは判ってくれているようである。私は幸せな教師であると思う。
様々なリーダー像についても、いずれ改めて述べることにしたい。長くなった。今日はここまで。
追記:ブルキナファソの首都ワガドゥグで洪水が発生したようです。(荒熊氏のブログより)昨年9月よりはマシだったようですが、Iさん、荒熊氏、そしてJICAはじめ、お世話になった皆さん、そして親愛なるブルキナべのみんな、頑張ってください。特に保健的な問題が心配です。
追記:ブルキナファソの首都ワガドゥグで洪水が発生したようです。(荒熊氏のブログより)昨年9月よりはマシだったようですが、Iさん、荒熊氏、そしてJICAはじめ、お世話になった皆さん、そして親愛なるブルキナべのみんな、頑張ってください。特に保健的な問題が心配です。
社会学者の宮台も『日本の難点』の中で、同じような現象を「スゴイ人」への感染と言っていました。私は責任のないポジションからの野次を得意としていますが、いい加減、付ききる人を見つけて付いていきたいと思います。
返信削除複数の専門学校で社会系非常勤講師を7年ほどやっています。2年ほど前までは、付ききる人をみつけられる生徒も何人かいたように思います。その頃は私も生徒をバッサリ切り捨てていました。また切り捨ててもわかってくれているという実感もありました。私が歳をとったのか…もうすぐ40歳そこまで歳をとったとも思いませんが(笑)この数年の変化に驚くばかりです。
返信削除哲平さん、非常勤講師さん、コメントありがとうございます。’土曜日の振替で今日は休みです。)人権を誤って解釈する輩が増えたからでしょうか。先日の抵抗権の続きになりますが、自由を履き違えた輩といいましょうか。人を育てると言うことは、優しさだけではダメなような気がします。世代というより、社会構造の変化なんだろうなあと思いますねえ。生徒は変わっていないと思いますが…。
返信削除先生のこの記事の意味を実感できるようになるには、まだまだ道は長そうです。私にはかなり難しく思えます。分かるときがちゃんと来るのか少し不安です・・・。
返信削除リリ~君へ。付ききるべき人との出会いの問題だから、焦る必要なない。どんな人に付ききるべきかは、今日のブログで書こうかな。
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