2022年9月11日日曜日

「知」の読書術 佐藤優 2

「知の読書術」では、ホブズボームに続いて、ドイツの神学者トレルチが紹介される。トレルチは近代の抱える問題とは何かについて思索するのだが、その始まりを30年戦争後のウェストファリア条約に求めている。このウェストファリア条約によって、「教会に拘束せられたものを一切追放した」からだ、としている。領主、神聖ローマ皇帝、ローマ教皇という重層的な権力構造で拘束されていた中世から、この条約で近代国家は「平等で独立した主権」であることを認め合うことになった。…たしかに宗教改革後の新旧両教徒による最後の宗教戦争の後、領域国民国家が誕生するのだが、こういう発想は私にはなかった。新たな学びである。

トレルチは、「近代精神の本質」の中で、この近代国家の特徴は、「此岸性」(=現世的)と「合理主義」(理性を絶対視する態度)であるとした。国家は、宗教・教会のように「彼岸」の領域には踏み込まない、しかし「此岸」である現世において、宗教に代わって共同的な目的を供給する。また、合理主義とは、近代科学の精神を基礎にした社会契約説(地域性や歴史性を剥ぎ取った自由で平等な個人に分解した)によって機械の部品のような個人が相互に契約を交わすことで人工的な国家が設立されたというわけである。

こうした合理主義的な国家像は不可避的に”不合理な力”を生み出してしまうと主張する。市民革命は「近代の人類の感情・思考全体の途方もない個人化を意味する」という指摘である。個人の内面は、決して理性だけで割り切れるものではなく、合理的かつ全能であろうとする国家に対して、内面の自由を守ろうという欲求が非合理的個人主義を生み出すというわけである。佐藤優は、国家そのものにも非合理的な暴力や自己保存の欲望が潜んでいると考えていて、トレルチは啓蒙思想にひきずられすぎだと考えているようだ。とはいえ、この指摘は重要だと考えている。

この非合理な力は資本主義において顕著に現れる。トルレチによれば、資本主義は「経済的素質を合理的に発展させれば、人間はどんな目標も実現できる」という信仰を生み出すが、一方で「非人格化の作用」(=人間性が失われてしまう)をおよぼす。資本主義は個々人をただの企業家または労働力としか見ず、これらを資本という抽象的な仮借なき論理に従わせると説く。

この後、田辺元、ルカーチなどの話が出てくるが、佐藤優の第二章の結論としては、この近代国家によって失われた人間性の空洞を埋めているのは民族主義やナショナリズムであるとしている。理性で割り切れない情念、しかも大衆化が進み、経済的・政治的に余裕のない大衆が、この近代の宗教に帰依しているという仮説にも大きく頷いてしまう私であった。

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