2022年6月9日木曜日

佐久間象山その3

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佐久間象山の凄さの1つは、江戸でも有数の朱子学の素養の上に、蘭学を貪欲に学び、実際に科学技術の実験やものづくりを通じて、莫大な見識と技術力を身につけていたことであろう。

特に砲学では当時日本最高の設計者・製作者であった。これは、象山が数学に長けていたことが大きそうだ。蘭書を読んだだけで、簡単にものづくりができるわけがない。倫理の授業では、ヨーロッパの科学技術の土台となるのは、ベーコン以来のイギリス経験論とデカルト以来の大陸合理論であると教えているが、要するに理科的な実験・観察と数学的な冷静な推論が必要なのである。幕末という時期に象山という類まれな人物が存在していたことが面白い。おそらく彼から見れば、ほとんどの他者は阿呆に見えていただろうと思う。

アヘン戦争による清への侵略を知った象山の危機感は、極めて大きい。幕臣もまたその事実を知っており危機感を抱いたことは間違いがないが、そこには「合理性」で差がある。象山は、蒸気船の性能や洋式の大砲の威力を十分認知していた。その差の大きさと、やがて日本にも列強がやってきて、アヘン戦争の二の舞いになるだろうという論理的な予知は、”知らない”他者との溝が広がるだけだったといえる。いやあ、こういう立場って、苦しいだろうなあと思う。

ところで、先のエントリーで、この本ではパトリオットという語彙が多用されているということを記したが、同じくネイションという語彙も同様に使われている。幕藩体制の中で、国家という語をあえてネイションとする意味は、国家というと近代国民国家をイメージしてしまうからだろうと思う。この時点では、日本とか国家とかいう概念はなかったはずで、象山は、藩も幕府も乗り越えて、ネイションとしての日本をイメージできていたようだ。やがて勝海舟や龍馬もそれに続くわけだ。

上巻の最後から下巻にかけては、吉田松陰の下田での密航の話になる。結局松陰とその師である象山は蟄居になるのであるが、松陰の「江戸獄中作」にある漢詩が、この師弟の気持ちをうまく表現している。

俗吏暗時務 文法束縛人 国家多難際 失機果誰因

俗吏疎人情 発言忽人嗔 志士苦心事 茫然若不聞

俗吏たちは、象山師弟がいかに苦心して国家の多難にさいして尽力しているかを理解しようとせず、法を楯にとって、怒ってばかりいる。今何をすべきかということに思いが及んでいない。

象山は、結局のところ、ソクラテスの弁明よろしく、悪法も法なりと言う幕府の主張に折れざるを得なくなる。当時の日本の幕政システムは、いくら老中といえども独裁的に政事を動かせるわけもなく、彼らの志に理解は示しても、祖法は祖法、ご禁制をやぶった松蔭とそれを幇助した象山を許す度量はなかった。その後、幕府は留学生を送り出さざるを得なくなるのだが…。

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