大西瀧治郎中将 |
東條の独裁が進む時勢の中、「閣議を宮中で行いたい。」と述べたとき、昭和天皇は東條の内奏を最後まで聞かず、「原内閣の時代から現在の形になった。その理由を調査してから検討するよう。」と言われたという。これまでは内奏を最後まで聞くのが昭和天皇の内奏を受ける際のスタイルであった。さらに、東條は首相、陸相、軍需相を兼務し、参謀総長も兼務したいと言い出す。この時、しばらく黙った後、退出させている。木戸内大臣に「この兼務が統帥の独立に影響しないか」と聞いている。…だが、結局全体の意見に流されていった。昭和天皇は、自らの私的な意見を言ってはならない、と強く自戒されていた。この内奏を止めた件や黙って退出させた行為から、輔弼する人間は君主の意を汲み取らねばなないわけだ。絶対的権力を憲法で保証されていながら、使わない。この奇妙なスタンスが、明治以降の国体の実相である。
敗色が濃厚になった頃、侍従武官長が召された。昭和天皇が「昨今(海軍トップの)軍令部総長、(陸軍トップの)参謀総長の順に拝謁があり、常に(天皇は軍令部総長に合わせて)海軍様式の軍装にて参謀総長に拝謁しているが、これはさしつかえないか。」と聞かれたという。天皇が海軍の軍装ゆえに、参謀総長も海軍の軍装を着なければならないことを気にされているわけだ。その扱いに不公平があってはならないと心配されていたわけだ。国家存亡の危機にあるのに、天皇が細かい話で、「小心」な話だと侍従武官長は感じたとある。…私の見方は少し違う。昭和天皇の立場は、、常に完全に公平でなければならないという孤独な立場であったと思うのだ。たとえ、どんな場合でも、公平でなくてはならないというのは、どれだけのストレスなのか、想像すらできない。
後に神風と呼ばれる作戦が初めて行われたのはレイテ沖の空母を狙ったものだった。軍令部総長からその報告を聞き、昭和天皇は鎮痛の面持ちで「そのようにまでせねばならなかったのか…。」口を噤まれた後に、やっとのことで声にした。「しかし、よくやった。」
この天皇の言葉は各地の前線基地に打電された。この特攻を発案した海軍きっての豪傑といわれた大西瀧治郎中将は、悄然とする。「陛下はお怒りなのだ。指揮官としての俺を叱っておられる。なんという愚かな醜い戦法を採用したのだと。」そして心身を全てを震わせるように恐縮して「激しいお怒りを受けたのだ、陛下の赤子に、何という非常の行為を強いたのだ、と。」…この大西中将の恐縮は、当時の軍指導部の輔弼能力のなさを窺い知る好材料である、と思う。
…昭和天皇は、本土決戦の準備を進める陸軍の装備(どんな武器で戦うのか)を何度も確認しようとされた。それは、軍備もないのにいたずらに国民を死に追いやるのかというメッセージである。こういうことが分からない人間が国を動かしていたのだ。昭和天皇の孤独と苦衷は、想像を絶するものであったに違いない。
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