2024年8月7日水曜日

姓名判断の話

関根勤氏のYouTubeチャンネルを見ていて、娘の麻里さんが、後々いじめられないようにと姓名判断の本を7冊も買って研究したという話が面白かった。関根勤氏は、姓名判断を全く信じていないのたが、危機管理としてのスタンスだったという。たしかに高校時代、姓名判断をもとにクラスメート間の話題が盛り上がったことがあった。友人Yなどは、奇人変人運だと言われていた。(たしかに当たっていたように思うが…。)昭和の時代、そういうことがたしかにあったのである。結局、麻里さん本人は姓名判断でいじられるような機会もなく無駄骨だったというオチがついたのだが…。

私の名前は、父親が姓名判断で、総画数で「頭領運」をもつようにと命名をしたと聞いている。たしかに、頭領運はあるように思うが、比較的小規模組織の頭領運(小隊を束ねる軍曹くらい)の頭領運だと、後に読んだ姓名判断の本に書かれてあった。天下を取るような頭領運ではなかった。だから、クラスの担任や学年主任はともかく、校長などの管理職には結局向いていなかったし、目指す気もなかった。(笑)基本的に姓名判断は当たる、と私は思っている。

息子の命名については、姓名判断で命名した。特に重要なのは、総画数で、”金に困らない金銭運”にした。たしかに息子は、学生時代の一時期を除き、何かと金に困らないようになっている。(笑)反対に、妻はそもそも息子と同じ総画数だったのだが、結婚してその金銭運を失ってしまったようだ。(笑)

2024年8月6日火曜日

M・ウェーバー『プロ倫』確認

今夏の教材研究もかなり進んだ。世界価値観調査をもとに授業を進めるにあたって、キリスト教世界の相違を語らねばならない。ここで、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(大学の教育現場では『プロ倫』と略されるそうだ。)の内容を確認しておこうと思う。ここで言われる”プロテスタンティズム”は、カルヴァンの神学である。ルター派や聖公会(ハイ・チャーチ)は含まれない。

オランダ、イギリス、アメリカといったカルヴァン派の影響が強い地域(オランダのカルヴァン派は、ゴイセン。イギリスでは、産業革命の震源地スコットランドのプレスビテリアン。フランスのユグノーもイギリスに多く移民した。イングランドではピューリタン。アメリカは、最初は聖公会(ハイ・チャーチ)の貴族が主だったが、ピューリタンやプレスビテリアン、ゴイセンらが多く移民して発展したわけで、聖公会(のロー・チャーチ)から生まれた分派も数多い。)では、”非合理性をもった合理主義”によって、近代資本主義が成立したが、スペインやイタリアなどのカトリック圏やドイツ(大まかに北部はルター派/南部はカトリック)では発達が遅れた、というカルヴァン派の信仰と近代資本主義の因果関係を論じたのが、『プロ倫』の骨子である。

ここで言われる”非合理性をもった合理主義”とは、予定説の逆因果である。神に救われることが決められている人間ならば(因)、神の御心にかなうことを行う(果)という論理を意味する。(普通の因果なら、善い行いをしたので、神に座れ天国に行けるという因果論となる。)そこで、彼らは、一切の欲望や贅沢・浪費を禁じ、エネルギーを信仰と労働(神が定めた職業)に捧げたというもの。

…神の絶対主義をとるカルヴァン派は、これまでの今夏の学びの中で、キリスト教綱要・第一篇で、救いを選ぶか選ばないかが意思の自由に残されているのみ、と理解するし、キリスト教綱要・第三篇で、悔い改めとは、”全人的な方向転換”、”生まれ変わり”、すなわち「再生」であるとしている。かなり強烈な教義である。

この禁欲的な姿勢は、利潤の肯定と利潤の追求の正当化を生んだと、ウェーバーは結論づける。最も禁欲的で金儲けに否定的なカルヴァン派だが、神の御心にそって勤勉に働き、安価な製品やサービスを隣人愛として提供、その結果として利潤を得ることが、結局救済の証と捉えられたのである。まさに”非合理性をもった合理主義”といえよう。しかも蓄えられた金は浪費されることなく蓄積され(=資本蓄積)、さらなる利潤獲得のため投資されていくことになった。

…私などは、カルヴァン派の布教・拡大が個人単位によるものであったことも重要だと思っている。カトリックや正教会はもちろん、伝統的な教会によって維持されており、ルター派も反カトリック(というよりは反ハプスブルグ家)の諸侯の改宗により支配下の住民も改宗することになったし、聖公会も王の意思で改宗させられたといってよい。個人として自ら改宗を受け入れたのはカルヴァン派系のみである。この個人に立脚したスタンスは、資本主義や民主主義の基盤になるものであると思っている。このことは、同時に、教理や教会運営の捉え方から、様々な分派を生む要素にもなっている。特に、教会運営の面では、長老派と会衆派、教理面では、聖公会を源とするメソジスト、バプティストなど、数多くの分派が生まれているわけだ。

ちなみに、この信仰が薄れ(=世俗化)、宗教としてではなく、利潤追求が自己目的化していったことを、ウェーバーは、危機的状況だとして批判している。

…ちょっと蛇足。何の本だったか記憶が薄れているのだが、(イギリスなどに比べ)アメリカは信仰心の強い国である。だが、世代ごとに地位や財産が上昇するに連れ改宗する人々もいるらしい。すなわち祖父母の代はバプティスト、父母の代はメソジスト、自分の代は聖公会(教会が豪華で見栄え重視)という風にである。これもまたアメリカの宗教の実相であると思う。

2024年8月5日月曜日

パリ五輪の”無課金おじさん”

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post/edit/910575509843965239/
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トルコの射撃選手が、他国の選手が重装備(というか様々なアイテムを装備している)なのに対し、耳栓のみ、Tシャツで普通のメガネ、左手をポケットに入れたまま正確な射撃を披露し、団体(女子選手との混合)で銀メダルを取った。これがネットで話題となり、日本の様々な人がイラスト化して世界中で話題になっている。私などは”無課金”というネーミングを最初に考えた人が凄いと思う。流行語大賞ものである。

御本人は、最もリラックスできるので、ああいうスタイルのようで、資金不足で重装備ができなかったわけではないようで、”無課金”という語彙には少し不満もあるようだ。だが、日本的な感覚では、無課金という語彙は、無駄を排除した”侘び寂び”に通じるものである。シンプル・イズ・ベストが、日本の美学のひとつである。(だから、日光東照宮などは人気がない。笑)よって、日本人の美意識の琴線に触れたのだと思う。”無課金”というネーミングは、悪意ではなく、リスペクトである。誰か、それを御本人に伝えて欲しいな。

2024年8月4日日曜日

キリスト教綱要 第三篇

「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」(渡辺信夫/新教出版社)の書評、第三篇。できる限り、高校の倫理の授業で語れるような内容で記していきたいと思う。第三篇は本書では、「キリストとの交わり」となっているが、「聖霊論」と見る向きもある。著者によれば、聖書に聖霊について述べられている箇所は少ないので、カルヴァンも控えめにしていると考えている。

聖霊の働きのうち、啓示する働きは基本的に終了している。旧約のもとでは聖霊が(各預言者に)託宣を語らせているが、それは基本的に終わり、キリストが預言の終わりとなった。それ以後は、ヨハネの福音書(14-26)にあるように、聖書のキリストによって語られた言葉を「想い起こさせる」という働きとなった。神の恵みは、その体をなすキリストの業と言葉に宿っており、それを現実化するのが聖霊の働きである、というのがカルヴァンの聖霊論である。

…カルヴァンの聖霊は、カトリックのように、神からもキリストからも発せられると判断するのが良いのか、正教会のように神のみと判断すればよいのか?私は正教会の方に軍配を挙げたいのだが…。

信仰について、「悔い改め」は、イエスの教の中心にあったが、カトリックでは”サクラメントとしての悔悛”と”良き行い=教会への代価”にすり替わってしまい(教会法で規定)、ルター派も95か条の提題で、教会絵の代価を批判したものの、悔い改めに関しての理解は、同様のところに立っていた。カルヴァンは、これらの安易な悔い改めではなく、”全人的な方向転換”、”生まれ変わり”、すなわち「再生」であるとしている。

…ここで、私は橋本大三郎の「アメリカの教会」に出てきた「回心」(23年5月14日付ブログ参照)を想起せざるを得ない。万人司祭制のカルヴァン派は普通、長老派(牧師と信仰経験豊かな長老が教会を運営する故)と呼ばれるが、マサチューセッツ植民地のカルヴァン派は会衆派(長老制ではなく、信徒で教会を運営する)となり、「回心」の重要度が増していく話である。

キリスト者のあるべき姿について、聖化から義認(キリストを己の内に受け入れ、キリストの義が己を覆い、キリストの義が己のものとなること)へと信仰を通して進んでいくこととされる。

かのカルヴァン派の特色といわれる予定説について。これは彼のオリジナルではなく、当時の真面目な伸学者は重要事項だと考えており、これを聖書に教えられている内容を論じ詰め、救いの確かさのために、人間の決定と努力が徹底的に低められて、神の意志の絶対性を確立したのがカルヴァンだったといえると著者は述べている。

…予定説がカルヴァン・オリジナルでなかったことは、実に意外である。さて、第四篇は教会(運営)のことで占められている。私の研鑽としての「キリスト教綱要」はこのあたりで、筆を(キ―ボードを)置こうかと思う次第。正直、かなり難解であった。今思うのは、早く学院の図書館で、カトリックのカテキズムを見てみたいと思っている。

2024年8月3日土曜日

キリスト教綱要 第二篇

「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」(渡辺信夫/新教出版社)の書評、第二篇である。神学生向けで、かなり難解であるので、またまた高校生に倫理の授業として教える感覚で記していこうと思う。

著者は、最初律法のもとに父祖たち(アブラハムやモーセ等)に現され、ついで福音において私たちに現された認識(すなわち三位一体の「神」)がキリスト教本来の神の認識であることを強調していると書いている。キリスト(=救世主)認識は、受肉(人間となって歴史に登場したナザレのイエス)に限定してはならない、キリストについての考察は、「律法において約束された」ところから始まり、約束の成就(=律法の成就)としての来臨、さらに終末における第二の来臨まで及ぶものではならないと語っている。前述したように、第一篇の福音の話から、第二篇は律法、という順序になっている。

カルヴァンの言う律法は、「全ての信仰の父」と呼ぶアブラハムとの契約に始まり、モーセを介して400年後に律法ができたが、これは契約更新のためであるとする。(アダムやノアはほんの火花のようなものであるとする。)ただ律法は実物に対する影、本体に対する印(しるし)であり、救いの確信の根拠とするには程遠いと言う。また”キリストは律法においてどのように現されたか?”が問題となるが、仲保者なしでは神は恵みある神として示されないが、律法の祭祀規定が和解者としての神を示しており、仲保者の必要性がはっきりと示されている。受肉して現れたキリストについての予告は、律法と予言書に言葉として確固としてあり、約束を成就したキリストについての認識は、使徒の証言により確立しうる、と語られていく。つまり、律法は、主として受肉したイエスの出現のためのものであるわけだ。

原罪について、カルヴァンはルター派の「人間は罪の塊である」という一刀両断的な認識も、カトリックの自力救済のかすかな可能性も取らない。前述の”人間の創造”(昨日のブログ参照)のとおりである。

またルター派に比べて、カルヴァンは律法を高く評価している。キリスト(=救世主)の存在は律法のもとで予め知らされ、福音において現れた。ヨハネの福音書(8-56)に「アブラハムは私のこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ。」とある。旧約がキリストに大きく関わっている。ヨハネの福音書の冒頭「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にあった。」は、旧約の原型で、ユダヤ教の知恵は言葉であるという解釈はキリスト教に引き継がれている。ルター派は、律法を幼児を教育する「養育係」とするが、律法の一端である、原罪に向かう場合もあるからで、カルヴァンの言う律法の本質は著者マタイ福音書の山上の説教でモーセの十戒を正しく解き明かしたこと、であるとしている。

このように、ルター派の律法理解は、律法と福音を対立させる傾向があると著者は批判する。律法と福音は同一の神からのものであるし、本質的に同じであるし、キリストを示す同一目的による共通性、連続性がある。キリストが律法の終わりとなったことについて、マタイの福音書(5-17)に「律法を廃止するために来たのではない。」という啓示は、律法の役目(目的・目標としての務め)は終わったという意味で、罪に定める機能は終わったということだと記されている。

ここから先の律法の三用益、カルゲドン・キリスト論、キリストの預言職・王の機能・祭司職、昇天・再臨の項は、何度も読みかえしたが、神学生向けでさらに難解であるので割愛したい。ブティストの私にはさすがに理解しがたいところにあった…。

2024年8月2日金曜日

キリスト教綱要 第一篇

「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」(渡辺信夫/新教出版社)の書評も、いよいよ「キリスト教綱要」第一篇である。カテキズムの導入部で、教理ではないがカルヴァンの思想が結晶していると著者は言う。導入部は人を惹きつけて探求の軌道に乗せ、関心をもって読ませるものであるから、普遍性をもった哲学思想を用いることになる。

カルヴァンは、「汝自身を知れ」というソクラテス=プラトンの系列でこれを書いていると著者は述べ、神認識と自己認識については、ローマ時代のキケロの「神々の性質について」を材料として、”自然的に持っている宗教心を肯定的に評価すべきか?不十分ながら、真理をめざしているものとして諸宗教を位置づけるべきか?”との問に「否」としている。自然的宗教心が必ず偶像宗教に向いてしまう点を指摘しているのである。さらに、カルヴァンは、①全ての人には生来、神認識が刻み込まれている、したがって神を認めないことについては言い逃れができない。②神認識において決定的なものは、キリストにおいて神を知るということだ、という二点を主張している。その後、聖書の正典・外典の内容に移るが割愛。…私が興味深かったのは次の”神存在”である。

カルヴァンは、中世の存在論的に証明される神を否定し、生ける神を概念化することに反対するとともに、聖書の神を視覚に訴えるやり方(前述のカトリックの十戒から偶像禁止を削除したこと。正教会のイコンも含めて)を強く批判した。この第二戒の回復にルター派はあまり熱心ではなかったがゆえに、またこれを言い出したヒューマニスト出身の改革者が少なかったゆえに、ある程度偶像的また視覚的要素が残ったわけだ。著者は、偶像廃止の意味は、画像を拝んだり直感したりするのではなく、言葉を聞くこと、言葉を守ること、また言葉をもって応答することであり、宗教改革以前は教会によって失われていたとしている。また中世末期の神秘主義は言葉を排除する」ので、非カルヴァン的であるとしている。(本日の画像は、世界最高峰の偶像中の偶像/ミケランジェロのピエタ。)

”三位一体論”については、独自の理論をカルヴァンは付け加えていない。最初のカテキズム「信仰の手引き」では、三位一体論に触れておらず、攻撃を受けた。聖書のみをキーワードにするカルヴァンにとっては、聖書にない三位一体という用語を使う必要はなかったのである。ただ、その語彙で表される事柄は聖書的であるというスタンスである。

”天使”については多くのページが割かれている。これはカトリックの仲保としての聖母マリアや、諸聖人、天使を大量生産したカトリックへの反駁で、天使の存在を完全否定はしていないが、人間の世界の上に天使を据える存在感を否定している。

”人間の創造”については、カルヴァンは認識の正しい順序を説いている。①神に創造されたこと。神のよしとされるものとして創造されたこと。②創造された地位から落ちたこと。”自由意志”については、救いを選ぶか選ばないかが意思の自由に残されていると理解するのがカルヴァンの自由意志論である。第一篇の最後に”摂理論”が丁寧に示されている。カルヴァンの摂理論は、一般論ではなく、個別的であること。これにに関心を喚起していることを理解するのがポイントだと著者は述べている。

…カルヴァンの思想は、私から見て、快刀乱麻という感じがする。聖書をもとにして、あやふやなところがほとんどない。

2024年8月1日木曜日

カルヴァンのカテキズム

「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」(渡辺信夫/新教出版社)の第3講、「キリスト教綱要の体系化」について本日は記そうと思う。タイトルの「カテキズム」とは、教理の要約を意味する語で、著者の言を借りれば、聖書という山を登るための地図、信ずべき教理の初歩を教える教材であるといえる。宗教改革にあたり改革者は、十戒、使徒信条、主の祈りという最重要要素と聖礼典を加え文章化した。『キリスト教綱要』は、カルヴァンにとって三冊目のカテキズムである。カテキズムは、信仰問答や教理問答と訳されることもあるのだが、問答形式のものが多い故である。カルヴァンも、最初に書いた「信仰の手引き」の後「ジュネーヴ教会信仰問答」という問答形式のものを書いている。ちなみに、昨日、ルター派の十戒がプロテスタント諸派で唯一カトリックと同じであることを記したが、これはルター派のカテキズムによるものである。

ちなみに、カテキズムは、中山訳以来「綱要」と訳されたが、本来は教理教育、その教程という意味であるらしく、もう変更しようがないと著者は不満げである。この初歩的教程の終わった者は、信仰告白者として、聖なる晩餐の共同体の中に受け入れられる、この基本的な確認が、カテキズム教育の意味である。宗教改革が始めたカテキズム教育の成果を受けて、カトリックでも「ドチリナキリシタン:公教要理」というカテキズムを作成し現在に至っている。(2学期が始まったら学院の図書館に探しに行こうと思う。)

ルター派のカテキズムとカルヴァンのカテキズムの対比が面白い。最重要要素の十戒(律法)から使徒信条(福音)へという順序のルター(の特質的なもの)と、初版では同じ順序である。カルヴァンはルターを尊敬していたことは確かだが、神学的に距離を感じていたし、文化地盤も異なる。第二のカテキズム(ジュネーヴ教会信仰問答)では、福音、律法の順序になっている。…ブディストの私から見ても、実に大きな違いのように感じる。

カルヴァンは、「キリスト教的自由」について初版から挿入している。このことは、カトリックの教会法が人々の良心をも拘束していたことと、急進的宗教改革の自由と秩序理解を批判する必要があったことが挙げられる。ところで、ルターも「アウグスブルグ信仰告白」や「キリスト者の自由」を書いて論じている。カルヴァンは、ルターが明晰さを欠き、自由を内面化しているのに対し、自由を論じるだけでなく、自由を奪う仕組みの元となる教会的伝統、政治的統治まで精緻に論じている。…このあたりの両者の相違も実に面白い。