2024年6月14日金曜日

ネット時代の社会科教師の憂鬱

https://tdtaizen.com/laugh/2186
社会科は、いかに興味を持たせるかということが重要であると私は思う。どうしても暗記が主体になるので、面白いと思ったら、(好きになった歌の歌詞を覚えるように)学習内容も覚えれるというものだ。学院で臨席の先生とそんな雑談を先日していたのだが、最近の高校生は、TVも見ない、ネットで自分の興味のあることしか見ないので、いろいろな興味のアンテナが狭まっているのではないかという話題になった。

たしかに、ネット社会になって、情報の過多と同時にその矮小化が進んでいるように思う。隣席の日本史の先生は、時代劇なんかもやらないので、旧国名を全く知らないとなげいていた。たしかにそうである。地理の国名も同様である。昔は小学校から詰め込みで、こういう社会科の基礎知識を無理やり教え込まれたが、そのおかげで、TVや漫画などでも個人的にゼネラルに属性が広がったといえる。

今はそういう共通の話題が実に少なくなった気がする。これは、社会科の学習にとっては実に困ったことなのである。時事問題に興味がない生徒は、永遠に興味がないかもしれない。反対に、なにか興味が湧くことについては、実に詳しくなる。もうすこしゼネラルであっていいのではないかと思う。

最も困るのは、ゲームにはまって、それがなんら学習に関与しない場合もある。これがプログラミングなどの方面に派生してくれれば、それも意味があるのだろうが、とにかく、やりにくい時代になった、というのが、雑談の結論だった。高校生に訴えたい。自らの属性を拡大せよ。

2024年6月13日木曜日

外圧に弱すぎる日本政府

https://news.goo.ne.jp/article/dailyshincho/nation/dailyshincho-1119927.html
OECDが、日本にもっと移民を受け入れるよう要請したのは先日のことである。EU諸国があれだけ難民の受け入れで迷走し、スウェーデンの治安の悪化をはじめ、各国でナショナリズムの右派政党が躍進している現状を差し置いて、日本を叩いていることは実にいただけない。先進国クラブの中で、極めて特異な単一民族国家であり、世界の言語の中でも学ぶのが難解な日本語がネックになる国に対して、短絡的な要請であると私は思う。欧米のこのような欧米中心主義のスタンスは、とうの昔にレヴィー=ストロースによって楔を打たれているのに、なんという無教養な話かと思う。

日本には、世界に誇るべき共通善がある。私の見立てでは、日本古来の八百万の神的かつ大乗仏教的な宗教的寛容と、集団主義的で、さらに朱子学的な自己鍛錬と義を重んじる文化、それを可能にしてきた教育が日本の骨格である。そう簡単に移民が馴染める国ではない。日本に移民するならば、日本語の習得に励み、そういう共通善を理解して来日すべきであえる。マレーシアで教えた教え子たちは、イスラム教徒であれ、仏教徒であれ、道教徒であれ、日本の文化を深く理解していた。2年間まさに日本語漬けでようやく得られた知識と技能で、自然と日本人と日本文化を理解してくれた。長年日本に住む在日の人々は、日本で教育を受けており、全く問題ないと私は思っている。しかし、反日教育を受けて、そのような姿勢が全く無い移民の受け入れには大反対である。日本の誇るべき文化を破壊しようとする輩は配して然るべきであろう。まして犯罪を犯すような移民は、ペルソナ・ノン・グラータである。

国際理解教育の徒である私は、移民が増加することそのものに反対しているのでは決してない。日本の共通善を共有できる移民でなければ、日本の良さが失われ、そして滅亡へと導かれるという危惧があると思っているのである。

現政権などは、外圧に抵抗する気など一欠片もないようだ。欧米、特にアメリカに言われたことに尻尾をふるポチそのものでもある。日本国民の血税で、共通善を理解しようともしない移民を無制限に受け入れ、生活保護や医療を負担しようとしている。政治家は、日本の持続可能な発展を少しでも考えているのだろうか。あまりに無教養である。

今日もニュースで、アメリカのミサイル生産を日本企業(三菱重工業やIHI)が担当すると報道されていた。武器輸出三原則もクソもない。はっきりとアメリカの要望なので、生産します。ワン!ということだ。日本国憲法を守れとドグマチックに叫ぶつもりはないが、あまりのポチぶりには呆れる。

移民の件もアメリカのミサイル生産も、結局のところ利権さえ手に入れればそれでいい、国民不在・国民無視の政治家が多すぎると私などは憤っているのだが…。

2024年6月12日水曜日

またやってくれたJR西日本

JR京都線・茨木駅で信号の不具合があったらしく、いつも私が乗る普通電車の前に出る区間快速が運休になった。普段なら絶対座れるのだが、すでにホームは区間快速に乗る予定だった人も多く、座るのを諦めた。普通なのにかなりの満員電車となった。まあ、昨年まで通っていた学園に通っていたら、死活問題だが、今の学院は30分程度で着くのでなんとか我慢できる。とはいえ、老体には朝からしんどいスタートとなった。

帰路、住道駅で珍しくスマホで写真を取った。85分の延着の区間快速に乗った。(画像参照:拡大出来ます)横の時計は12時を超えているのに、10時40分発とは、悪い冗談としか言いようがない。

JRの経営陣は、本来必要な点検要員の削減で、お詫びさえ車掌に言わせれば良い、という乗客の迷惑を顧みない姿勢をいつまで続けるのだろう。日本政府や大阪府・市と変わらない。まったく、ええかげんにしてほしい。

ウィトゲンシュタインの補助線

学院の図書館で、フーコーと同じシリーズの「ウィトゲンシュタインー私は消去できるか」(入不二基義著:NHK出版)を借りて読んだ。ウィトゲンシュタインは、分析哲学の祖とされる哲学者で「語り得ぬことには沈黙せよ」というアフォリズムが有名である。久しぶりの書評なのだが、その内容をブログで紹介するには難解過ぎると思われる。高校生の倫理で教えるとすると、せいぜい次の記述で紹介するのが関の山かもしれない。

前期の「論理哲学論考」には、一般的な独我論(本当の意味で存在するのは、私だけであり、それ以外は全て、私のこころに浮かぶ表象にすぎない、という説)を「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」というテーゼで論破し、先程のアフォリズムに到達するという構成になっている。後期の「言語ゲーム」(たとえば、スミマセンという言語には、”どいてください”や”ありがとう”などの”お詫び”以外の意味が、ソシュールの言葉を借りれば、その場その場でのパロールが存在する)は、「無主体論」から導かれた私的言語論からきている。

この本が味読に値するのは、むしろ序章の維摩経をウィトゲンシュタイン補助線として紹介しているところにあると私は思う。「”私”は全てであるからこそ、”私”は無に等しいのである。」という著者の(前期ウィトゲンシュタイン哲学のエッセンスといえる)視点は、まず、三角形や四角形の角の数を増やし、何千角形。何万角形にしていくと円に近づいていくという話から始まる。角が無限に多くなることは角がなくなることに等しくなるように、極端に反対であることは実は一致していることがある。「正反対の一致」である。”私”というあり方は無限に強力で特異であるからこそ、全く目立たなくなり消えてしまう、そういう「正反対の一致」を、著者は維摩経の入不二法門品から紹介している。

在家信者の維摩が、「不二の法門に入る」(=悟りの境地に入る)とはいかなることかについて問い、文殊を中心に、31人の菩薩がそれぞれ自説を述べ議論する内容である。「生じることと滅することが二である。生じることがなければ滅することはない。法は無生であることの確信を得ることが不二である。」「幸福と不幸が二である。知識が極めて清浄なためにあらゆる数値を離れており、知恵が虚空と等しく遮られることが不二に入ることである。」「これが世間的的なもの、これが超世間的なものというのが二である。世間の本性が空である場合、そこにはなんらそこから超世間的へ出ることもなく、そこへ入ることも行くことも行かないこともない、これが不二である。」などと菩薩たちが述べる。最後に、文殊が「あなたがたが説いたところは、それもすべて二である。なんらの言葉も説かず、無語、無言、無説、無表示であり、説かないということも言わない、これが不二に入ることである。」と言う。

文殊は、それまでの菩薩の言説を「ことば」という点で一括りにして、どれも二であると退けている。「ことば」の本質的な働きとは「分ける」ことであり、たとえば、Aという名前をつけることは、AとA以外を分けることである。よって、「ことば」は二なのである。そこで、無語、無言、無説、無表示…こそが「不二」(=分割の未遂行)となるわけだ。

文殊は維摩に、(あなたが出した問なので)「不二の法門について何か語って欲しい。」というのだが、維摩は口をつぐみ何も言わない。「維摩の沈黙、雷のごとし」と言われ、維摩経のクライマックスとされる。この沈黙については、様々な視点があるが、維摩の沈黙は「ことば」の到達不可能な外に位置するとともに、この不二をめぐる「ことば」の中に巻き込まれて(そもそも問を発した故)「内」にもあるといえる。もしかしたら、この「ことば」のゲームに巻き込まれず、ただボーッとしていただけかもしれない。”悟り”と”おおぼけ”は紙一重かもしれない。

この維摩経・入不二法門品は、「正反対の一致」「語ることと沈黙」「言語の内と外」「言語ゲーム」などウィトゲンシュタインの哲学のポイントと繋がっている。なにより、著者の名字はこの入不二法門品に由来するとのこと。実に面白いではないか。

2024年6月11日火曜日

農業はビジネスである。

地理総合では、ケッペンの気候区分の学習を土台に農業についてやっている。第一・第二命題として、自然的な視点である、「乾燥と戦う農業」、「雑草と戦う農業」といった水収支を基本に据えた区分、第三の命題として、社会的な要素として「農業はビジネスである」という視点も扱っている。

私はアフリカに3回行ったが、この点に関して実に多くのことを学んだ。ケニアでは、国道で余剰の農産物を売るおばさんを何人も見た。ピーターが普通の農家にも連れて行ってくれて、キャッサバやトウモロコシ、あるいはパパイアなどが雑然と植えられているのを見た。日本人の目から見ると、粗放的で遅れているように見えるのだが、実はエコでこのような栽培方法があまり豊かではない土力を保持するらしい。彼らは自給的に農業をしているが、余剰は現金に変える。すでに自給的な農業などというものは、世界ではレアになっている。ロシアのダーチャと日本の趣味的な家庭農園くらいかもしれない。今日の画像は、ブルキナファソのゴロンゴロンという町で撮ったキャッサバを臼と杵で、粉末化している婦人の様子。町中でも飼えるヤギが周りをうろついているのが面白い。(笑)

とはいえ、ビジネスと遠い農業も存在する。農耕が不可能な乾燥限界や寒冷限界を超えた地、あるいはギリギリの地における遊牧が代表的だろう。京大のアフリカ研の公開講座で遊牧民の話を沢山聞いた。やはり面白いのは、メス重視のスタンスだ。オスは1頭いればいいわけで、その選に漏れた牛は、睾丸を木の棒で叩き、オスの部分をなくしてしまうと教えてもらった。すごい話だが、それが遊牧に限らず牧畜の生き残り戦略なのだ。メス化したオスは、肉牛として育てられ売られる。こんな話は授業で大いにウケる。(笑)

雑穀という語彙も、私はブルキナファソでソルガムやミレットを食べたので、経験的に話せる。うまくはないし、腹もふくれない。ほんと、鳥の餌という感じだった。サヘル地域の土地は、乾燥しているので、耕すと行っても日本のような鍬は使えず、スコップのような形をしており、表面を削るといった具合。これはガイドのオマーンに教えてもらったし、羊とヤギの見分け方は、耳がたれていると羊、立っているとヤギだと、NGOの職員さんに教えてもらった。アフリカのウガリやサザなどの主食についても語ったのだった。これはあまりふれていないけれど、ブルキナファソは当時台湾と国交を結んでいて、その技術支援で陸稲(畑で栽培する稲)を実験的に栽培していた。ケニアでも日本の技術支援で水田が開発されていた。耕運機などはメンテナンスがされず破棄されていたけれど…。

一方で、アメリカやオーストラリアを旅したことも、企業的穀物農業を語るうえで役立っている、アメリカの大陸横断上の機内から、オガナラ帯水層の上につくられた灌漑施設・センターピボットの円形の畑を見て感激したし、コットンベルトのアイオワ州では一面のトウモロコシ畑をシカゴに向けてバスで駆け抜けた。オーストラリアでは、パースの近郊で、これまた360度見渡す限りの小麦畑を見た。超強大なコンバインも見ることが出来た。面白いのは、この辺の小麦は、日本に輸出されるものが多く、それも香川県の坂出港に運ばれる。讃岐うどんになるのだった。

これまで、いろんな旅をしてきたが、授業のネタとして経験できたことは大きい。特に、アフリカでの体験は大きい。牛は財産、羊やヤギは財布というアフリカの牧畜民の常識を、ジンバブエの公園で(買婚ともいわれる)「ロボラ」の話をカップルに質問した話なども含めて、社会科教師としての財産だと思っている。もう海外に行くこともないかもしれないが、特に地理のネタは十分すぎるほど集めた気がする。我が人生に悔いなし、といったところか。

2024年6月10日月曜日

大阪万博の裏事情

https://mainichi.jp/articles/20231204/k00/00m/040/131000c
大阪万博はぜひとも中止して欲しいと私等は思っている。先日交野市長の正論についてエントリーしたが、どうも夢洲に誘致したのは、Iという政党のカジノ(IR:万博会場に隣接している。画像参照)誘致ありき、ということがわかってきた。カジノへの反対は多く、インフラ整備のために表向き万博を利用しようとしたのだが、カジノの完成より前に万博が開催されることになったらしい。Iという政党の金儲け(利権)のための万博なのだ。

そもそも夢洲には、コンテナの積出港があって、常に大型トラックが行き交っている。橋とトンネルの2個所しか夢洲をつなぐルートがなく、万博開催後には、このトラックと乗用車による大停滞が予想されている。しかも橋は強風で通行止めの可能性があり、トンネルは先日の大雨で浸水し通行止めとなった。港湾関係者から、何度もインフラ整備の要請がなされていたのに、先送りしてとんでもないことになりそうだ。児童・生徒を無料招待したら、さらに停滞は加速するだろう。推測では阪神高速の中央線はすごいことになりそうだという。

全く何もいいことはない。おそらくこの不人気で、赤字が膨大な額に達し、府民や市民に負担が押し付けられる。こんな利権政党に府政が牛耳られていることが情けない。

2024年6月9日日曜日

学園のサッカー部 準優勝

学園のサッカー部が、結局強豪・K高校に3-0で敗退し、準優勝となった。前半までは0-0だったのだが、後半に3失点。うーん残念。

思えば、今学園の文武両道、質実剛健を最も体現するのがサッカー部である。たとえ準優勝であったとしても堂々とした成績である。胸を張って明石海峡を渡って帰校してくれたと思う。学園では、毎週月曜日は部活が休み。ゆっくり休んで欲しいと思う。さらなる奮起を願って…。