2024年6月8日土曜日

交野市長の正論

https://murata35.chicappa.jp/hosinomati/katanosi9901.htm
先日エントリーしたのだけれど、学園のサッカー部が決勝に進んだ。昨日は、授業の合間にサンTVの中継(YouTube)を見ていた。7番の昨年教えた子が見事にシュートを決め、均衡を破った。ワクワクしながら授業に行って帰って来てもういちど中継を見たら、3対1で試合が終わっていた。録画が見れたので、後半を見たら1点返され同点に。しかしその後2点を取って突き放したのだった。やったね。学園サッカー部。決勝も応援するぞぉ。

さてさて、今日はちょっと政治的な話になるかもしれないが、大阪万博に府内の公立学校の生徒を無料招待するという、一瞬聞けば良く聞こえる話に、すぐ隣の交野市長がノーを突きつけている。まず、安全面。万博会場はゴミ捨て場の人工島の上で行われる。先日ゴミから出たメタンガスの爆発があって、安全面が万全であるとは言い難い。特に小学校の生徒を引率する先生方の心労は耐えない。しかも、交通費は別なので、交野から、JRを使うにしても京阪を使うにしても、かなり経路は複雑でこれまた小学校の生徒を引率する先生方の心労は耐えない。観光バスをチャーターするのが一番だが、まず費用面でかなりの保護者負担が生じる。1人5000円という試算もある。しかも観光バスの駐車場からはかなり遠く、それだけでも大変である。市の財政で交通費を負担せよと言われても、すごい金額になり交野市にはとても負担できないと、市長は言い切った。

まさに正論である。無理をして万博を誘致し、人気がないからと、甘い話を持ちかけるも、全く現場を無視したポピュリズム。Iという政党がよくやる思いつき政策である。高校入試の際に大阪の公教育は終わったという感想を述べたが、高校だけでなく、今度は義務教(=小中学校の意)の世界にも無理難題を押し付けていく。こんなことを繰り返していくと、ますます教員志望者や管理職志望者は減少=質の低下が起こる。そういうシミレーションなど一切できない輩なのである。

能登半島の復興を差し置いて、万博に建設業者を集中させているとの情報もある。馬鹿げた話である。万博批判を並べればきりがないが、中止するのが最も良い方策だろう。なにもIという政党の面子をたてる必要などない。このような愚行を犯した政治家は退場すべきであると私は思う。

2024年6月7日金曜日

追憶 芸術鑑賞

https://www.wind-company.jp/unit/big-wind-jazz
学院では、今日の午後、学院の大ホールで芸術鑑賞が行われる予定である。芸術鑑賞についてもいろいろな思い出がある。

商業高校では、N市民会館で落語を聞く機会があったのだが、全30クラス。うるさくて、落語家さんが、最後にしかりつけたこともある。工業高校では、最初からそういう人間相手の芸術鑑賞は行わず、映画鑑賞、それも難しいものではなく、アルマゲドンなどストーリーが単純明快なものを見ることが多かった。これは大正解。(笑)

国際的かつ日本の古典芸能を尊ぶM高校では、国立文楽劇場で文楽を鑑賞した。これは眠かった。(笑)H高校では、D市民会館で、ジャズのスウィングを聞いたことが印象に残っている。(画像参照:こんな感じだった。)有名な曲が中心で、意外に生徒にウケが良かったし、十分楽しめたのを覚えている。

まあ、各校それぞれであるのだが、最後に、自分自身の高校時代の芸術鑑賞の話。クラシックの演奏(大フィルの交響楽だったように思う。)で、忸怩たる思いをした。楽章終了ごとに拍手をする同窓。実に恥ずかしい思いをしたのだった。何度も「拍手するな、最後まで待て。」と叫びたい衝動にかられたのだった。当時は、フォーク、ロック全盛で、クラシックはかなりマイナーだったし、そういう礼儀を知らなかったのも無理はないのだが…。

2024年6月6日木曜日

フーコーとマネの絵画

http://blog.meiga.shop-pro.jp/?eid=273
「シリーズ・哲学のエッセンス フーコー」(神埼繁/NHK出版)の第2章「タブローとしての世界ー主体と対象(客体)の逆転」で、もうひとつ絵画の話が出てくる。マネの「フォリー・ベルジュール劇場のバー」である。フーコーは、15世紀以来の二次元のタブローから鑑賞者の目を逸らせ、三次元の表象空間に置き換えようとしてきた。この絵は見るものと見られるものとの間に自由な距離が置かれていると言う。この絵には、前述のベラスケス同様に鏡が描かれているが、こっちは画面全面を覆っており、不在の王はまさに不在。それどころか鑑賞者が占めるべき位置を指定する画面内の中心点も不在である。

しかも彼女を見つめるシルクハットの男性も彼女自身の後姿もありえない角度に歪んでいる。男性を見ていると思われる彼女の眼差しも視点が定まっていない。見るものの視点で、この彼女の眼差しは、焦らしているとも、誘っているとも、恥じらっているとも、あるいは放心しているともとれる。見る者と見られる者の視線の戯れ=駆け引きの空間をマネは現出させている。

この絵画を、高校倫理的に説明すると、自己(主体)と表象(客体)は、弓道のような動かない的ではなく、動き回る対象に対して、自ら距離をおきながら、間合いを取って相対するテニス、あるいは刻々と局面の変わる囲碁や将棋などのゲームのように、一方的に相手を対象として見るのではなく、相互に役割を交換しながら、その間の距離を見る、というものである。

デカルトのような表象を理性が認識するというのではなく、またハイデガーの世界内存在でもなく、メルロ=ポンティの可逆的身体とも異なる、フーコーの表象の見方であるといえる。だからこそ、狂気や監獄といったそれまでとは全く違う見方が現出してきたのだといえるだろう。

2024年6月5日水曜日

学園のサッカー部 頑張れ

https://cocorocom.com/school/article/267
3月末までお世話になっていた学園のサッカー部が、兵庫の県総体でベスト4まで勝ち上がっている。これまでの実力からいって当然であるが、7日に準決勝が行われるようだ。サンテレビで生配信もあるようだ。(11:00~)

教えていた生徒たちが、いよいよ実力を発揮する時が訪れたという感じである。今年の3年のサッカー部の生徒はおそらく短時間でも集中でき、効果的な勉強ができるのだろうと思う。頭脳明晰であることは、サッカーだけでなくあらゆるスポーツで有利である。ましてサッカーは、状況判断が極めて重要である。

大昔に、商業高校でサッカー部の顧問をしていた時、夏合宿で夜にバスケットをやった。すると意外にうまくフォーメーションが組めるのだ。サッカーはグランドが広く、運動量も多いので、そのバスケット的フォーメーションをいかにサッカーに応用できるかだと、主顧問が言われていたことを思い出す。

学園サッカー部、新たな伝統を今年も作ってほしい。がんばれー。

2024年6月3日月曜日

ポートランドの姉妹都市は?

https://www.city.sapporo.jp/kokusai/sistercity/portland65th_logo.html
K外大の留学生が2人、今日から学院でインターンシップをするとのことで、職員朝礼で紹介され、放送による朝礼でも自己紹介をしてくれた。1人はオージーでシドニー出身だそうである。もう一人は英語で自己紹介していた。耳をすまして聞いていたら、ポートランド出身らしい。

せっかくなので、地理総合の授業で、ポートランドについて紹介した。といってもあまり有名ではないので、地図を描いて場所を示した。西海岸・オレゴン州の州都である。ふと日本の姉妹都市の話をしようかと思った。大阪の姉妹都市はシカゴ。天下の台所と言われた大阪と穀物取引所があるシカゴは穀物取引つながりである、などと講じた。京都は古都。アメリカの歴史は浅いが、古都といえばボストンとなる。では、ポートランドの姉妹都市は?実は緯度つながりで札幌である。御本人に確認したら、もちろんご存知だった。

こういう脱線も地理の授業らしくていいかなと思う。今日の画像は、両市の姉妹都市提携65周年のロゴである。

2024年6月2日日曜日

キリスト教と関係が深い家畜

https://meiga-louvre.amebaownd.com/posts/7906470/
学院は、カトリックの学校であるから様々な宗教的教育が施されている。宗教科があるのもその1つで、生徒たちは一般の高校生に比べてそれなりの知識を持っている。先日の地理総合の授業の際、(ユダヤ教も含めて)キリスト教と最も関係の深い家畜は何か?という問いを発した。BS(ステップ気候)やCs(地中海性気候)の農牧業に関わる重要な問いでもある。

正解は「羊」である。正解を出したクラスもあったし、出なかったクラスもあった。学院の西門・小学校のところに、白い彫像のマリア像を礼拝する子どもたちの彫像があって、その傍らには子羊の彫像が置かれているのが何よりの証拠(生徒全員、納得。笑)だし、ヨハネ黙示録には、イエスは最後の最後に子羊として登場するのは有名な話(画像参照)である。(ヨハネの黙示録は授業でやっていないようだった。)もちろんアブラハムも本来は遊牧民(羊飼い)だし、ヨブもそうである。カインとアベルの逸話もある。

羊は、ラクダについで乾燥に強い家畜である。ユダヤ教・キリスト教の発祥の地であるBSやCsで家畜といえばまず羊なのである。地理の側面からいうと、こういう家畜の特徴は重要なのだ。

ところで、創世記の天地創造では、神は、「野に這う獣」と「家畜」を別々に創造している。イスラム教も含めた一神教はまさに遊牧民の宗教という特徴を持っているわけだ。これと関連して、昔、中田考氏がある作家の質問に答えていた記事を思い出した。「もし宇宙人が来たとして、イスラム法学・神学の立場では、まずどう考えますか?」「その宇宙人(=動物)を食べてもよいかどうかを調べる。」(笑)中田考氏は日本最強のイスラム法学者なので正しいのだろう。前述の創世記の記述の影響下にあるイスラム教のシャリーアをもとに、動物は、食べて良いものとたべてはいけないものに分かれるゆえに、宇宙人を見た場合、動物として思考的に処理するわけだ。まあ、ここまでは話していないけれど…。

2024年6月1日土曜日

フーコーとベラスケスの絵画

https://www.artpedia.asia/las-meninas/
「シリーズ・哲学のエッセンス フーコー」(神埼繁/NHK出版)の第2章「タブローとしての世界ー主体と対象(客体)の逆転」を読んでいて、この内容を理解するのに、デカルトの第一証明・第二証明・第三証明を知っていないと無理、カントの認識論(アプリオリな認識形式)を理解していないと無理という感想を持った。

フーコーは、ハイデガーをかなり読み込んだようだ。そこで「表象」という語が出てくるのだが、その説明に使われているのがデカルトの立場である。私は、これまでずっと、デカルトの3つの証明を高校倫理で教えてきた。第一証明はあまりにも有名で、教科書には書かれているが、第二証明(神の存在証明)と第三証明(物体の存在証明)は書かれていない。カントの認識論も同様で、最近の教科書には登場しているが、昔は実践理性批判(道徳形而上学)の内容が中心だった。高校生にも(ちょっと難解ではあるが)十分理解できる内容である。大学の教養課程で哲学を取ったら、こういった哲学書を読む機会があるだろうから、やはり必要な学習だと思う。

この章の最初に、『言葉と物』の冒頭に登場するベラスケスの『ラス・メニナス(従者たち)』という有名な絵画が紹介されている。(画像参照/拡大可能)この絵には、不在のままに全体を支える王の姿(王女の後ろの鏡にフィリップ4世夫妻がおぼろげに映っている。)が描かれている。フーコーは、この絵に重ね合わせて、ハイデガーが想定した、17世紀のデカルトと18世紀のカントの間に起こった主客の逆転を近世哲学史上の大きな転換点として肯定している。

高校倫理的な説明で言うと、デカルトは方法的懐疑でコギトを確立したが、その前に現れる表象=物体を神の被造物として証明した。(第二・第三証明)ちょうど”不在のままに全体を支える王の姿”は神である。しかし、カントの認識論には、もはや神の存在は要請されていない、という内容である。

この本、なかなか面白い。…つづく。