ちくま文庫の「明治国家のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)を読んでいる。先日エントリーした幕末編(8月30日付ブログ参照)の続編である。司馬史観=日露戦争以後の日本は誤てり。の話が何度も出てくる。これは予想通り。(笑)司馬史観批判の本も何冊か読んでいるので、冷静に読み進めた次第。それを差し引いても、面白い話が満載である。今日は、その中から坂の上の雲の主人公の一人である正岡子規についての話をエントリーしておきたい。以下、第三部の「松山の子規、東京の漱石」の趣旨をまとめてみた。
司馬遼は、俳人としての子規より、漱石とともに散文というものをつくってくれた子規を愛している。散文は誰でも参加できる言葉で書かれる。漱石のそれはやや難しかったが、子規のそれは同世代人にとって一番やさしい、わかりやすい文章を作り上げた天才であるという。そして、子規の最大の功績は、「写生」を主張したことだという。
「写生とは、物をありのままに見ることである。我々は物をありのままに見ることが、極めて少ない民族だ。だから日本はダメなんだ。」身を震わすような革命の精神で思った言葉が、(子規の)写生である。ありのままに物を見れば、必ず具合の悪いことも起きる。怖いことである。だから観念の方が先に行く。子規の写生の精神は、(決して)俳句や文章における写生ではない。
尊皇攘夷というイデオロギーで作られた(架空の一点としての)天皇。その観念主義の癖が日本を覆った。日本のマルキシズムも、水戸学の裏返しのようなものだ、と司馬遼は言う。日本にはロシアのような農奴制や中国の大地主という階級闘争的なものはなかった。武士と農民の関係は、かなり異なる構造をもつ。多くの左翼運動家は、(ロシアや中国と同一視して、マルクスの階級闘争という観念を信じ)大雑把にしか日本史を捉えなかった。つまり、子規の言う写生の精神がなかったのだ。観念であいまいにしていた、というわけである。
子規は、写生の精神さえあれば日本の文化は立派なものになると思い続けていた。
子規は自分自身を客観視できる人だった。これが大事。自分は見えにくい。我に囚われているし、自分が可愛い。自分には点数をつけたくないものである。しかし、子規には見えた。自分の胃袋、心臓の動き、頭脳や性質、自分とは何かが実によく見えた。
子規はいじめられっ子で泣き虫だった。一方、薬のない当時、健康のために灸(やいと)を子供も毎月した。どこの子も、ガキ大将も、毎月わんわん泣く。ところが、子規は泣かなかった。自分は弱虫でどうしようもないけれど、そういう痛さや熱さは我慢できる性質だったらしい。
人間はどこに勇気があるのか、どこが弱点でどこが人より強いのか、その組み合わせは人によって違うものだが、子規は自分の組み合わせをよく知っていた。
…坂の上の雲の主人公の一人に子規が入っているのには、少しばかり違和感があったのだが、この司馬遼の子規への熱い想いがあっての話だったのだと思う。子規の自分を写生し、その組み合わせを知っていた話に特に感銘を受けるのである。
2015年9月24日木曜日
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