http://jp.reuters.com/article/2015/09/02/eu-ger-idJPKCN0R20EU20150902 |
ドイツは、EUに押し寄せる難民のおよそ半数を引き受けている。もちろん、右派の反対も強く、ある村では暖かく難民を受け入れているが、その場所を知られて右派に暴力を振るわれるのを恐れていた。ドイツの「貢献」も、流動的である。とはいえ、ドイツの姿勢は、大きく評価できる。ナチによるWWⅡ、ユダヤ民やポーランド人などへの贖罪を、あくまで”個人”として引き受けている。ナチの行った暴虐をきちっと自己批判して、反省し、ドイツ国民として、一人ひとりが世界に貢献すべきだという姿勢。
日本では、内田樹先生の言われる(8月25日付ブログ参照)ように、公式なWWⅡにおける責任について公式な自己批判はされなかった。この理由は、浅学の私でも容易に推測できる。それは、どうしても昭和天皇の戦争責任論に関わってくるからである。私は、昭和天皇をあくまで「国家維持装置」的存在だったと思っているので、責任は限りなくゼロに近いと考えている。とはいえ、論争すれば無傷ではすまなかっただろうし、東京裁判がたとえ戦勝国のパフォーマンスで不完全なものであったとしても、マッカーサーとの合意のもと、日本国憲法第一条とバーターして、天皇の訴追を回避したことも理解できる。
よって、日本はWWⅡの責任は、「一億総懺悔」という「物語」となった、といえる。日本では個人主義はなかなか馴染まない。自由に責任が付与される個人主義が馴染まない。日本の本格的な民主主義はGHQによってもたらされたもので、自ら勝ち取ったものではない。だからこそ、曖昧な玉虫色をしているわけだ。ドイツ人のように、個人になりきれない日本人…。
しかも、この世界的な難民の問題に、日本は極めて冷淡だ。極東という地政学的なものもあるだろうし、日本語という世界でも類を見ないフクザツな言語を使用しているということもあるだろうし、島国的な閉鎖性、日本的集団主義などといった、様々なスタンスがあることもよく理解している。難民受け入れに対し、ハードルは、たしかに高いのは事実だ。
だが、いつまでもそれでいいのだろうか。異文化理解は実は、歴史的に見れば日本人の得意とするところである。日本の文化は、固有の文化の上に、中国やインド、朝鮮、欧米などの様々な文化が多層的に積み上げられたものである。グローバル化された現在、意外に、日本でも多文化共生への柔軟性は、すでにあるのではないだろうか。
先日TVで過疎の村への移住を促進する行政の苦労話を見た。今話題の国立競技場の建設も労働力不足から、どうしてもコスト高になるという。生産業の海外拠点も賃金上昇で撤退しリターンする企業も話題になっている。
ここは、様々なデメリットが予測されようとも、個人として自立している日本人や、集団主義であっても、ムラとして、あるいは企業として自立している日本の集団に期待して、難民受け入れの枠組みを再検討するチャンスなのではないか、などと理想論を振りかざしてみたくなるのだった。知性的なまともな政治家も、多少は永田町にいるはずだ。
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