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イスラム教の聖典には、キリスト教の新約聖書のような不一致や矛盾が含まれていない。法の面でも整合性が高く、前述のようにシャリーアの体系というシステマチックな規定がある。ウェーバーは、近代化とは、様々な分野における合理化の過程と見た。事実、中世まではイスラム教の方がはるかにリードしていた。しかし、キリスト教は、律法がないゆえに、自由に法律をつくれることが大きかったと2人の論議は進むのだ。カトリックは、力が弱かったゆえに、世俗法(ローマ法とかゲルマン慣習法)を守るようにしか言えなかった。これらが時代遅れになった時、立法機関として議会制民主主義が起こったわけだ。
キリスト教社会には自由な立法が可能だった。銀行をつくり、利子をとり、小切手・当座預金口座…。資本主義成立へ、様々な複雑な法的環境が整備されていく。ユダヤ社会もイスラム社会も、まず聖典と比べて正しいか?ということが重要(利子については、大きな規定がある。)になる。キリスト教徒は、まず法をつくる目的があり、聖書に禁止されていないことは、神が許すと考える。
さらに、宗教改革で、伝統社会の慣習やカトリック教会の慣行も聖書に根拠をもたないものは全て無意味という結論を導いた。聖書に書かれていない、また公会議の正統な解釈にない聖人崇拝や煉獄、免罪符、告解などをプロテスタントは認めない。解釈が違えば分派するしかない。だからプロテスタントは多くの宗派に分かれたわけだ。カトリックは神との間に教会が絶対必要とするが、プロテスタントは教会は重要ではない。投資家にとって利潤を生めばよいわけで、投資先は二義的。いわば、プロテスタントの教会・宗派は、企業や投資ファンドのようなもの、重要なのは神と個人の関係だというわけだ。
プロテスタントの中でも、その徹底性でいえばカルヴァン派が重要である。橋爪は、ウェーバーの理論に対して、次のような補足・批判を加える。予定調和説は、聖書にある神の後悔(たとえば、ノアの箱舟の話のように、終末の決断を変えノア一家を残すような)を認めない。神の決めたまま、救われる者は救われ、救われない者は救われない、とした。では、なぜこのようなカルヴァン派から勤勉が生まれたのか?
橋爪はゲーム理論で論じる。プレイヤーは神と人間の2人。神は、救済する/救済しない、人間は勤勉に働く/自堕落に暮らすという選択肢をもつ。予定調和なので、神が先に、救済する/しないを選択し、あとから人間が、勤勉/自堕落を選択する。人間は神の選択を知ることはできない、というのがゲームの設定である。すると、神がどちらを選択しても、人間は自堕落に暮らすが支配戦略となる。(救われるのなら働くだけ無駄。救われないのなら働くだけしんどい。)だが、予定調和を信じる社会では、自分はこのゲームからはみ出していることを証明したいという者が出てくる。地上で自分の利益だけを考えると、自堕落が支配戦略だが、その状況下で、もし勤勉に働く者がいたら、それは神の恩寵によってそうなっている、勤勉に働くことが神の命じた隣人愛の実践である。自分が神の恩寵を受けていると確信したければ毎日勤勉にならざるをえなくなる。神の恩寵はゲーム理論の戦略的思考を超えていて、逆説的に勤勉な者が増えるのである、と。
…自由な立法の可能性。カルヴァン派の勤勉の謎をゲーム理論で説く。なかなか面白い説だと思う。
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