2014年4月24日木曜日

高尾具成氏のリビア内戦・ルポ

http://mellakheer.ramez-enwesri.com/2013/11/30/
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私のアフリカ・ウォッチングの対象は、サブ=サハラ・アフリカである。ホワイト・アフリカ(エジプトからマグレブにいたる地中海沿いのアラブ世界)については、正直あまり興味がない。リビアの内戦についてもそんなに詳しくない。しかし、今やその後遺症として、マリやニジェールなどに大きな影響を与えていることは知っている。そんな中、高尾氏のリビア・ルポを読んだのだった。

カダフィ大佐の功罪については、いろいろ言われている。石油収入をかなりAUに注ぎ込んで、サブ=サハラ・アフリカ諸国を支えていたことは有名だ。だから、リビア内戦時、サブ=サハラ・アフリカの諸国は困惑を隠せなかったし、ブルキナファソは大佐の亡命先に名乗りをあげたくらいだ。ところが、国内では、かなり恨みをかっていた。それがこのルポではよくわかる。

ベンガジで、圧政・弾圧の象徴だった治安施設などの開放を求めて市民が行進する中、政府軍や外国人の雇兵が無差別に発砲し、数百人が犠牲になった。地元の大学で農業を学んでいたモハンメドさんは、前日に友人が射殺され「許せない。デモに行く。」と憤り、無差別発砲の犠牲になった。非暴力のデモだった。同じ大学に通うハディーヤさんは、当日のデモについて、「恐怖もあったが怒りはそれ以上だった。」と振り返る。

ベンガジから警察組織が撤退した。代わって交通整理などにあたっているのは市民の有志たちだった。子供たちの姿も多く見かけた。小学生のズウェイ君は「国中が大変な時だからこそ、人に役立つことをしよう」と高校生の兄とともに信号のない交差点に立ち、通行車両から「シュクラン(ありがとう)」と声がかかるたびに明るい笑顔を返していた。「(ずっと休校状態の学校に早く行きたいけど)自由で平和なリビアの未来を願って続けるよ。」

反カダフィ派の最前線には、多くの義勇兵が集まっていた。その多くが、上着にスカーフを巻いただけの普段着に近い格好だった。「武器を持つのは初めてだ。今朝使い方を覚えたばかりだが問題ないよ。」迷彩服風の上着にジーンズとスニーカー姿。ベンガジの大学で経済学を学ぶ学生だった。高尾氏に「腹は減っていないか」「喉が渇いていないか」と盛んに気を使ってくれたという。ナツメヤシを無理やり手のひらに押し込まれた。時折響く銃声にうろたえると、「おれたちがお前を守る。心配するな。リビアを平和な国にすることを約束する。」と笑顔が返ってきた。

3月11日。ベンガジの街のTV画面はリビア情勢と、東日本大震災のニュースで占められていた。津波の映像を見ながら市民が頭を抱えていた。銃を肩に背負った彼らが向かう数百キロ先は砲弾や銃弾が飛び交う最前線だった。そんな義勇兵から、高尾氏に「津波は気の毒だった。お見舞いを伝えたい。国が安定してから支援をしたい。」とジュースやナツメヤシなどを手渡された。ヒロシマ・ナガサキや敗戦から立ち上がった日本の戦後史を語り、「日本は必ず立ち上がる」と言った若者もいた。「お前はここにいるべきじゃない」と叱咤もされた。称賛されたのは、地震や津波の混乱時に、利己的にならず多くの人が示した規律や助け合いの姿だった。ある若者は「学ぶべき強い精神力を日本人に見た思いがした」と語ったという。

…リビアの若者が、正義のために立ち上がり、命がけで戦った様子が生き生きと描かれている。3.11に対する彼らの反応には、目頭が熱くなる。高尾氏もまた、3.11とリビア取材の中で心がアンバランスになったことを告白している。こんな純粋な命が内戦で失われていいものだろうか。一昨日のエントリーと重ねて、つくづく若者を戦争にやってはならないと思うのだ。

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