2014年4月19日土曜日

社会学からキリスト教 談義1

「ふしぎなキリスト教」(橋爪大三郎×大澤真幸/講談社現代新書2100・11年5月20日発行)を読み終えた。この新書も以前、前期入試の際、本校図書館でおもしろそうだと手に取ったものである。アマゾンで入手して、通勤時に線を引き引きしながら読み終えたのだった。極めて示唆に富む内容だった。
エントリーのために表紙画像を探していて初めて知ったのだが、12年度新書大賞受賞作だった。なるほどと、思う次第。

今まで、一神教にまつわる本は、かなり読んだが、この新書は全く視点が異なる。東工大の橋爪大三郎氏にも、元京大教授の大澤真幸にも毀誉褒貶があるようだが、比較宗教学・社会学の立場から一神教が語られていて、非常に新鮮であったことは間違いない。

この本の最大の論点は、一神教の構造についてである。この世界は神によって創造された主人であって、人間は奴隷に等しい。人間は安全保障のために神に従うという一神教の認識である。多神教世界の我々日本人にはなかなか理解しづらいところである。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を比較した場合、ユダヤ教とイスラム教は、神に与えられた律法とシャリーアが確固として存在する。それに対し、預言者を超えた神の子・イエスとその立場を贖罪・三位一体という概念でキリスト教化したパウロによって、ユダヤ教・イスラム教の、律法・シャリーアのような確固とした安全保障の契約があいまい化された。そこにキリスト教が世界で大きな力をもつ要因が生まれたというものだ。

この新書のタイトル、「ふしぎなキリスト教」というのは、奇異な感じのする商業主義的なタイトルで、私自身の嗜好とは合わないのだが、同じ一神教のユダヤ教・イスラム教比較すると、たしかに不思議な矛盾を多く抱えているといえる。新約聖書の四福音書の相互矛盾などを多くの事例がその根拠として語られる。だが、この律法・シャリーアに強烈に縛られていないというキリスト教の特徴こそが、逆に強みとなったというのがこの2人の社会学者の対談による結論だといえる。

イスラム教のイジュマー(イスラム教徒が、神に服従するために、神の意思を知るシャリーアの体系の中で、神の啓示であるコーラン、預言者ムハンマドの言行録ハディースに続いて参考にする大学者の会議で決まった事のこと)は、全会一致で決定するのに対し、キリスト教の公会議は多数決である。この事実は、キリスト教の特徴をよく示唆している。

さらに、キリスト教は、(人間が知ることなど到底出来ない)神の描いている設計図を理解する手がかりとして「理性」を、宗教的に再解釈した。社会契約論でいう「自然法」は、神のつくった世界のうち、人間が理性で発見できる「一部分」である。ユダヤ教やイスラム教では、神の法は聖典の中に書かれているゆえに、わざわざ聖典の外に求める必要がないわけだ。

…このような視点が必ずしも正解ではないかもしれない。だが、重要な示唆に富んでいると思われる。この新書も備忘録的にもう少し書評を書き続けておこうと思う。

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