2010年10月12日火曜日

ジンバブエについて熱く語るⅢ

 今日は、午後から、若手のF先生と共に、枚方や交野市の中学校を回って広報活動を行ってきて、つい先ほど帰宅した。そういうわけで、若干早めのブログ更新である。ジンバブエの話・第三弾である。
 そもそも何故ジンバブエに私は来たのか?それは、授業でジンバブエの事を教え、生徒に質問を書いてもらい、それを私がインタービューするというフィールドワークだったからだ。ジンバブエの問題は複雑で、かなり時間をかけて教えた。だいたい以下の通りである。

 ジンバブエは、昔ローデシアという南ア同様白人支配の国だった。アパルトヘイト同様、黒人は抑圧されていたが、この間ゲリラ戦闘を続けていた黒人勢力は、イギリスの支援もあって、白人を追い出さないことを条件に政権を譲り受け、国名を「ローデシア」から「ジンバブエ」に変え、改めて黒人中心の国として独立した。この時の指導者の一人がムガベで、その後現在に至るまで、実質的に最高権力者の座を維持してきた。人口1200万人のジンバブエで、白人は1%以下の7万人しかいないが、農地の6割は当時、白人の農場で、黒人就労人口の1割を白人農園が雇用している。白人の農場を没収しなかったことで、独立後もタバコを中心とする農産物の輸出を順調に続けることができた。ジンバブエは、アフリカで黒人と白人が和合している数少ない国の一つで、隣の南アフリカがアパルトヘイトから脱却するためのモデルと考えられていた。

 ところがその後、ジンバブエでは、この特長が新たな対立の火種となった。かつて模範的な指導者といわれたムガベの政策が失敗し、経済は破綻した。それを批判する国民の目を他にそらすため、ムガベは、白人と黒人の対立をことさらに煽り、白人農園主が何人も殺されることになった。国家運営に失敗したら、民族対立や地域格差を煽って政治生命を維持するという、指導者の「定石」が展開されたのだ。

 ジンバブエは独立時の取り決めで、白人農園主から政府が土地を市場価格で買い取り、それを黒人の貧しい人々に再分配する計画だった。だが独立後、数年間の好景気時代が過ぎると、財政が悪化し、白人から土地を買う予算がなくなってしまった。1990年、ムガベは批判をかわすため、白人から黒人への農地の移転を加速すると表明し、イギリスやアメリカ、国際機関などから資金を借り、白人の農場を政府が購入して黒人に分配した。ちょうど冷戦が終わり、英米は世界的な「市場原理」の導入を画策しはじめたときで、タバコなど輸出作物を作る黒人の農園経営者を育成するというムガベの政策が、援助を得るうまい口上となった。 だが、土地の配分を受けた黒人農民の多くは、輸出できる水準の作物を作るにはどうしたらいいか、という営農技術を何も教えてもらえないまま、土地だけ与えられたため、土地利用の効率は下がった。農民自身が消費する作物を作るだけの土地が増え、農産物の輸出が減ることになった。 また優先的に土地の分配を受けた人の多くが、ムガベ大統領や政府高官の親族や関係者だったことが暴露された。これを機にイギリスなどは、ムガベ政権が白人の土地を買うための資金の融資を渋り出した。
 窮したムガベ大統領は「イギリスの植民地となり、黒人が先祖代々耕してきた農地を白人に奪われたとき、黒人は何の補償も受けられなかった。白人が独占する農地を没収して黒人に返しても、ジンバブエ政府は何も補償する義務はないという主張を始めた。独立後に白人が所有する農場を没収せず、市場価格で買い取るという合意に反する主張だったため、英米はジンバブエに対する支援を打ち切った。

1997年には、国際金融危機の影響でジンバブエの通貨も急落して外貨が底をつき、ムガベはIMFに支援を求めたが、土地問題での譲歩を拒否したため、断られた。外貨の裏付けがないままお札を刷り続けたのでインフレがひどくなり、失業率も7割に達した。国民の平均所得は、独立当時より3割も下がってしまった。99年後半、ムガベは憲法の改訂を提案した。「政府は白人の土地を没収できる」という条項を加えることが改訂の主眼だと宣伝されたが、本当の目的は別のところにあった。改憲には、大統領経験者が一生逮捕されない権利など、自らの権力を強化する項目が、いくつも盛り込まれていた。2000年2月の国民投票で、憲法改訂は55%の反対で拒否されてしまった。投票結果が判明した後、ムガベは敗北宣言をしたが、この後、黒人の農民たちが白人農場に押し掛けて占拠する事件が頻発したのである。全ての白人農場の25%にあたる約1000ヵ所の農場に、黒人農民が押し掛けたが、群集を率いていたのは、白人政権時代の1970年代にゲリラ戦に参加していた黒人たち、つまり独立戦争の英雄たちだった。白人の農場主の多くはムガベの陰謀を感じ取り、抵抗せずに黒人たちを農場内に入れたため、最初は衝突が回避された。だが、農場占拠は、4月になって各地で殺傷事件に発展し、十数人の白人が殺されるに至った。

 私が、ジンバブエを訪れた頃、白人農場は、ほとんどが黒人に占拠されていた。行きのバスで臨席になったマラウイ人が、道路沿いの農場を見ながらこう言ったことを私は鮮烈に覚えている。「White…get away」…つづく。

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