ノーベル賞の話題に関して、今日は少し書こうと思う。ノーベル文学賞では、ペルーの作家、マリオ・バルガスリョサ氏が受賞した。私は、文学には造詣が深いわけでもなく、受賞者の名前も作品も知らない。ただ、候補者として名の挙がったケニアの作家、グギ・ワ・ジオンゴ氏<左の画像参照>のことは少しだけ知っている。キクユ語で作品を書いた作家だ。なにかのアフリカ本で読んだ記憶がある。キクユ人は、ケニアのマジョリティのエスニックグループであり、ケニアの黒人の間では、経済的・政治的に最も立場が強いグループでもある。(「牧畜二重経済の人類学」という本で、サンブル族の家畜を購入し、都市に運ぶのはキクユ人に限られていた。)とはいえ、ケニアの公用語、英語で作品を書かず、民族の誇りをもって、文学で闘う作家であることに違いはない。来年こそは受賞してもらいたいものだ。来年の受賞までに、彼の作品を読んでみようかな、と思う。
一方、平和賞では、中国の人権活動家、劉暁波(リウ・シアオポー)氏が受賞した。<右の画像>朝日新聞のWEBニュース(2010年10月9日15時7分)から、ちょっと引用。
『一方、9日付の中国各紙は、受賞に反発する中国外務省の談話を伝える国営新華社通信の配信記事を一斉に報じた。中国当局が報道を規制する指示を出しているとみられ、NHKなどの海外テレビも関連ニュースの放映が中断される状況が続いている。』 さらに、『中国共産党機関紙の人民日報は2面で「平和賞の冒涜(ぼうとく)だ」との見出しで報じた。また、同紙系列の時事情報紙の環球時報は「ノーベル賞の選定者は中国の平和や団結を望まず、中国社会が無尽の紛争に陥り、ソ連式の分裂に向かうことを望んでいる」と社説で反発した。』とある。
中国政府の反発と報道規制は、多くの批判があるだろうし、『人権が「普遍」であること』が、グローバル・スタンダードであることに間違いないから、またまた中国批判が高まることは必定である。しかし、まてよ、と私は思う。テクノクラートの胡錦濤も温家宝も、、『人権が「普遍」であること』は百も承知だと思うのだ。上記の下線部は、まさに”直球”で返した中国政府の『本音』であろう。先日(9月25日&27日付)で私の考えを記したが、、「ノルウェイ人よ、お前たちは、13億のこの国を、飢えず、しかもじょじょに豊かにさせ、文句を言わせず、うまく動かしていけるのか。できるものならやってみろ!」という彼らの悲痛な叫びが、この社説から感じ取れるのである。
ノルウェイは、ヨーロッパのただの小国だという認識は間違っている。HDI(人間開発指数)では世界最高水準(2009年度は1位)である。つまり、1人あたりでは最も豊かで、教育もあり、幸せな状態にあるといえるだろう。だからこそ、様々な国際政治の局面でイニシチァブを取れる余裕があるのである。この状況は、中国やアフリカ諸国、さらにはイスラム諸国にとっては、ノルウェイが発案する様々な事(ノーベル賞も含めて)を、無条件に善意として受け止めれるものではないような気がする。人権が普遍であり、至上の命題であるのは、キリスト教圏(特にプロテスタント的な)の価値観であり、彼らが世界の覇権を握っているから、グローバルスタンダードとなっているにすぎない、と彼らが考えてもおかしくはない。また、そのスタンダードを破壊しようと考えるのも…。
ノルウェイの森から発信された”(ロゴスとしての)”コトバが、世界に様々な波紋を呼んでいる。私は日本人の書いたノルウェイの森(かなり以前に読んだが、好きになれなかった。)から発信される”言葉”とは、かなり次元が違うような気がする。
2010年10月9日土曜日
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劉暁波氏のノーベル平和賞受賞が、何が問題があるのか、
返信削除いまいち分からず、新聞を再読するも分からず・・・。
後で、再検索したいと思っていた所です。
中国の情報規制は、政府の圧力で人民を押さえつけているような感覚で、どうも賛成しかねます。
だけど、13億もの人口を束ねて行く為には仕方のないことなんでしょうか?
yukimi君へ。今はまだ、中国の1人あたりのGDPから見れば、豊かである、とは言えないような気がする。特に、経済格差が激しいので、もし、民主化すれば、まずは言論で富の偏りを是正する意見がでるだろうが、それは高い確率で武装闘争にならざるを得ないと思う。中国の歴史は、農民反乱の歴史でもある。王朝の変遷は、それらを糾合した盗賊団の歴史でもある。民主化の最後の姿は、中国の分裂と、テロの応酬になる可能性は高いと、私が思う。もう少し豊かになれば、「失うもの」があるので、武力闘争の芽は摘まれる。温家宝らは、その危険が去るまで、もう少し待て!と言っているのだと私は解釈している。
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