2010年5月8日土曜日

真正面から回答すると…


 昨日のブログに対して読者の哲平さんからコメントをいただいた。全文紹介すると、「私は高校時代に学んだことと大学時代に学ぶことは本当に天と地の差があると考えています。例えば、大学の友人に私がロックやホッブズの勉強をしていると言うと、「あぁ啓蒙主義ね。」という返事がかえってきました。彼らを啓蒙主義とかいう言葉でまとめてしまうのは彼らの思想の1%も理解しているとは思えません。私は彼らがどう語られるかよりも、何を語っているかの方が大事だと思うのです。どんな科目にも言えることですが、高校の授業は省略されすぎて余計にとっつきにくく、わからなくなっている気がします。高校時代にこそ原典を読んで欲しいですね。教科書を覚える暇があればページをめくるだけでも『国家』を読んだらいいのに。」素晴らしいコメントである。嬉しい。このコメントに対して真正面からお答えしたいと思う。

 まず第一に、『高校の授業は省略されすぎて余計にとっつきにくく、わからなくなっている気がします。』という点に対して。これはまさに同感である。まあ、現場としては、受験制度とその対応という視点から批判できるが、『倫理』という教科のスタンスから私の考えを述べたい。私は、およそ、西洋思想を理解するためには、2つの軸が必要だと思っている。その1つは、4月13日付のブログで書いた「3つのコンフリクト」である。これはその哲学者が何について語っているかを分類するカテゴリーである。超極論すれば空間的把握である。2つ目は、哲学というのは、過去の哲学者の言に批判をしながら発展してきたという特性があることから、その歴史的な繋がりを系統的に理解することである。私は、生徒には「西洋哲学の木」に譬えていつも今日語る位置を示すようにしている。(東洋哲学の木、またそのでかい枝としての日本思想の枝もある)主に時間的把握である。このように系統立てるのは、高校の倫理と言う教科の学習内容は、大学に行ってから様々な学問を深く学ぶための手助けにすぎないと私が考えているからである。

 「省略」ということに関して言えば、西洋哲学では、カントの純粋理性批判における先天的認識形式を高校の教科書で「省略」していることは大きな問題だと思っている。西洋哲学の木の根元には、ヘレニズム(ギリシア哲学)とヘブライズム(ユダヤ教とキリスト教)がある。それぞれのに系譜的なつながりがあり、私はこの2つには特に時間を使う。この2つをルネサンスが結び付ける。人間と神の関係性に大きな変化が起こり、人間の理性というものへの回帰が始まる。ここで、ベーコン・ロック・ヒュームのイギリス経験論と、デカルト・スピノザ・ライプニッツの大陸合理論の2大潮流が起こる。教科書では、デカルトは「我思う故に我あり」という方法的懐疑で終わっているが、この第1証明の後、神の存在証明(第2証明)、物体の存在証明(第3証明)までやることにしている。でないと、近代科学の土台がわからないからである。これを結び付けるのがカントである。カントは、教科書では善意思とか道徳法則とか、いわゆる「倫理」的な部分のみが強調されているが、これらもイギリス経験論と大陸合理論をカントが批判しつつ合体させた先天的認識形式の生んだものだと生徒に理解させることにしている。すなわち、人間は、「認識」という問題に於いて、まず感性で仮説を立てる。これは、直感であり大陸合理論的である。さらに悟性によって経験によって得たカテゴリーの中にあてはめる。これは経験論的である。この結論(先天的認識形式)によってカントは偉大な功績を積んだわけだが、彼の教えていた形而上学を土台から破壊したことになる。形而上学は実証できない学問であり、先天的認識形式の経験しえない(カテゴリーにない)ことは認識不可能であるという結論と矛盾するのである。そこで、カントは、認識(人はいかにして知るか)という問題では形而上学は破壊されたが、人はいかにして善を行うかという問題を立て分け、道徳という問題においては、絶対的な善を追求するための形而上学を打ち立てるのである。カントは、道徳の問題をイギリス経験論のライン上にあるベンサムやJSミルの功利主義=経験主義的な道徳(幸福=善)を批判したからである。これが、実践理性批判である。要するにカントは自分の教えていた学問を復興するわけである。このカントの「感性・悟性・実践理性」という人間の理性の構成に、フィヒテは絶対的自我を加味し、シェリングは絶対者をさらに加味する。この辺のドイツ観念論も教科書ではぶっとびである。このシェリングの絶対者の概念の矛盾をさらに発展させたものが、ヘーゲルの絶対精神となるのである。近代哲学は、このヘーゲルで一応の完成をみる。現代哲学は、このヘーゲルへの様々な批判という形で、枝を作っていく。1つが、マルクス主義である。弁証法を唯物史観に変え、絶対精神の存在を否定する。さらに生の哲学で、ショーペンハウエルやニーチェが、人間の理性崇拝を覆し、盲目的な生への意思や権力への意思という形でヘーゲルを批判する。さらに、実存主義が、哲学の目的を、長く議論されなかった「自己自身へのコンフリクト」、それも個々の生き方へと転換させていく。この三本の大きな枝の上に構造主義・ポスト構造主義やウィトゲンシュタインの分析哲学、さらにフランクフルト学派やプラグマティズムが乗っている。(この辺はかなり複雑であるが…)これらは、そのまでの西洋哲学の木自体の否定に向かっている面がある。ロゴスの否定。言葉の否定。ギリシャ神話から、明確な言葉として始まった西洋哲学は、その基盤を否定されて行くのである。

 …とおよそ私が倫理で教える西洋哲学の流れを概略した(他に、社会契約思想や実証主義など細かい流れが描き切れていないが…)のだが、私自身がゆずれない部分は省略しないようにしているつもりである。時間的にかなりきびしい。去年は、3単位で、1学期にヘレニズムとヘブライズム、仏教。夏休み補習で中国思想と仏教のつづきと日本の思想の国学ぐらいまでを教え、2学期は、上記近代哲学からフランクフルト学派までをやりきった。さらに冬休みは、日本思想のつづき。西田幾多郎の純粋経験などは、仏教と2学期の西洋哲学史を終えないと絶対判らない。当然、何度も「木」の位置を示し、どの「コンフリクト」なのかも示しながら、もちろん5分に一度笑わせるというポリシーをもって熱演するわけである。
 省略できないところはやはり省略できないのである。ただ、時間的な制約の中、興味を持たせながら出来る限り系統的に、浅くとも将来役立つような授業となると、やっぱり省略してるかなとも思う。とはいえ、OB・OGに聞くと、私のプリントは長期保存版となっているらしく、時折大学の教養課程の哲学の試験やレポートで大いに役立ったという嬉しい話を聞く。まあ、理解度は系統的な位置づけがなされているので、25%くらいかなと思う次第。

 第二に、原典を読む話について。これは昨日の私のブログに書いた、<阿部次郎の「三太郎の日記」のヘルメノフの言葉の3にこんな一節がある。『自分にとって興味ある対話の題目はただ自己と自己に属するものである。しかしこの題目は他人にとって死ぬほど退屈なものであろう。』>のとおりで、おそらく100人に1人くらいの哲学的素養のある生徒にしか「属性が生まれない」と私は考えている。京大や阪大にいくような生徒ならOKかなと思う。弟分のU先生の長男は、府立某有名進学校の生徒だが、1年生の時、倫理は教員がチンプンカンプンな事を一人語り、莫大な範囲の試験をされてサンザンだったそうだ。同じ社会科教員なのにU先生は、倫理だけは私に教授して欲しかったと言ってくれていた。しかし優秀な生徒ならそれもありかもしれない。自学自習できるからである。うちの愚息も岩波文庫のいわゆる原典が本棚にアホほど並んでいる。が、私は、まず属性づくりから始めるべきだと思っている。この辺はプラグマティックである。
 長くなった。ギリシア思想やヘブライズムの系統性、東洋思想の木についても、書きたいのだが、これ以上詳しく書くと小論文になってしまう。このあたりで勘弁していただくとしませう。

2 件のコメント:

  1. 果物屋が激務ゆえに嬉しいエントリへのコメントが遅くなりました。

    「教科書を覚える暇があればページをめくるだけでも『国家』を読んだらいいのに。」というのは完全に過去の自分に向けた言葉です。例えば大学二回生の時に川上肇の『貧乏物語』を読みました。高校時代に歴史の教科書に出てきた本ですから、きっと読めるわけもないだろうと思っていましたが、意外となんとかなるものです。川上肇を読むことに比べれば、著者とタイトルを覚えるぐらいなんてことはありません。なのでカントの『純粋理性批判』が授業で覚えられないならば本屋に行って買いに行くべきです。なけなしの小遣いで買った本ならきっと忘れません。これが入試にでれば安い買い物です。しかも純粋理性については語れなくても本棚に飾っておけば、教科書の丸暗記を語れる人よりもカッコいいw

    ちなみに私は『善の研究』も『貧乏物語』も教科書の世界の本であり、きっと真っ黒けの原典が残っているだけだと思っていたぐらいアホな高校生でした。紀伊国屋に行けば手に入るなんて教科書には書いてないですからね。

    哲学は誰もが理解できるものではありません。なので授業に原典をコピーして配っても、難しい、わからない、漢字すら読めない、きっと書いた人は頭がおかしい、という具合だと思います。そして先生に質問が飛んできても、先生も難しい、わからない、恥ずかしい。結局一日わかないことだらけで授業が終わる。
    それでも生徒からすれば哲学を理解することに比べればセンター試験で9割取る方が簡単だということに気づけます。もちろん倫理嫌いになるかもしれませんが、わかったような気がしてもどうしようもない科目だとも思います。少なくとも「無知の知」を知識ではなく経験し、吸収することには成功するはずですw

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  2.  「少なくとも「無知の知」を知識ではなく経験し、吸収することには成功するはずです」…教師生活30年。今でも無知の知に戻ること多いですよ。いいコメントありがとうございます。

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