2022年4月30日土曜日

京都でL君と邂逅す。

2年間もコロナ禍のために来日ができなかったL君と、今日やっと会えた。どう歓迎してあげようかと考えたのだが、結局息子夫婦のカフェに連れていくことにしたのだった。

幸い息子夫婦のカフェ(京都市北区)に車で行こうとすると、自宅のすぐそばを走る第2京阪の側道で一本道なのである。市内に入ると堀川通りに繋がっている。聞くとL君のアパートは上京区で堀川通りのすぐそばで、ひろっていくのに都合がいい。晴明神社の近くの駐車場で正午に待ち合わせた。

北大路通りのモール近くの駐車場で車を停め、妻と3人で食事を取り、そこから10分ほど歩いてカフェに向かった。今日は、息子は某国へ日本語学校開設のため不在なのだが、奥さんが切り盛りしている。GWの臨時ボードゲームイベントをやっていた。常連さんがボードゲーム好きで、たくさんのボードゲームを持って来てくれていた。16時のウズベク語の勉強会まで、ゲームや会話を共に楽しんだ。息子のカフェはこういうディープな常連さんによって成立しているらしく、面白き人間関係が築かれていることを改めて確認した次第。

L君がその中に入ることになるかもしれないし、なにか問題が発生した際、私の身内が近くにいてくれれば頼りになるはずだ。早速、息子の奥さんから月1回(2~3日)のアルバイトの話が出てきた。なかなか面白そうなバイトで、L君も喜んでいた。ちょうどバイト探しを開始しようと考えていた矢先だったのである。

ちなみに、楽しんだボードゲームは2種類だが、最初にやった麻雀風のゲームが特に面白かった。手牌は5つのパイのみで、字牌が中と発と索子だけ。説明するとややこしいので省くが、楽しく遊べた。L君によるとマレーシアの中国人社会では年配の方が麻雀をやっているそうだが、若者はあまりしないとのこと。日本で麻雀(のようなゲーム)をすることになるとは、と笑っていた。もう一つのゲームも面白かったのだが、ウズベク語講座の時間が迫り、時間切れとなってしまい、ちょっと残念だった。

とにもかくにも、ついにL君と再会できた。明日夜にF40の私のクラスの以東のメンバーが大阪に来てL君の来日・再会を祝すらしい。私も参加したいが、ずっと休みの大学生と違い、月曜日は授業が4コマある。朝早い長距離通勤者としては無理を避けたほうがいいと判断した。でも、合いたいなあ。次の機会を楽しみにしようと思う。

2022年4月29日金曜日

菊地寛 大衆明治史を読む4

https://www.google.com/search?q=
菊地寛の大衆明治史の書評を続ける。日清戦争の時期についての記述で意外な発見がった。東学党の乱の時の駐韓公使は、あの袁世凱であったことだ。「属国の難を救う」として清は出兵してきた。ただし天津条約の取り決めどおり日本にもその旨を通告してきた。

この頃の日本の政情は伊藤が2度も議会を解散し、予算も不成立、なめられて当然の状況であった。しかし、朝鮮半島の独立は日本の生存について重要だと考えていた日本は、敵愾心が燃え盛り一戦辞さずという世論となる。高知の練武館員800名が義勇兵を志願、旧水戸藩士280名が抜刀隊を組織従軍願を陸軍に提出するとともに、福沢や徳富蘇峰が言論で盛り上げた。

菊池寛は、明治日本の外交界において、副島種臣、大隈重信、伊藤博文、陸奥宗光、小村寿太郎の5人が逸材だと書き、中でも陸奥宗光が機略、権道では一番だとし、外務省に銅像が建てられているのも頷けるとしている。

とはいえ、元海軍操練所(勝海舟は小才子、嘘つき小次郎と呼ばれていたと氷川清話で述べている)、海援隊(龍馬はその才気を見込みながらも、陸奥は他日必ず天晴れの利器になるであろうが、ただあまりに才弁を弄して浪士たちに憎まれているとしてその身を越前の国家老に託した。)を経て、25歳から外国事務局御用掛(同僚は、伊藤博文、井上馨、寺島宗則、五代才助など壮観なメンバーであった。)となるが、紀州出身の陸奥の昇進は不遇で立志社の政府覆滅運動に関係して入獄する。伊藤博文が、この陸奥が出獄すると外遊させ他日を期待した。当時の駐墺公使西園寺公望は陸奥がこの地でよく学んでいると伊藤に書簡を送っている。陸奥は再び出仕して、駐米特命全権大使、農商務相、枢密顧問官、そして25年、伊藤内閣のもとで外相となる。

…たしかに、陸奥は龍馬暗殺後の復讐を海援隊が誓った時、結局嘘つき小次郎よろしく、口だけで仲間から非難轟々であった。しかし、この日清戦争では見事な軍部との連携をとる。

戦後、下関条約で李鴻章と伊藤が談判している中、陸奥は剃刀のような目を光らせ黙していたらしい。さすがの李鴻章も気を呑まれていたらしい。…この頃には小才子ではなく天晴れの利器になっていたわけだ。

しかし三国干渉が起こる。その黒幕はロシアのウイッテ蔵相だということだ。大津事件の記憶もあり、大熱弁を振るう蔵相にゴーサインを出した。しかしロシアは単独での干渉には自信がなかったようで、イギリスはは、講和条件が自国の利権に損害が被ることはないとロシアの提案をはねのけたが、ドイツはビスマルク以来の方針(ロシアには東進させるのが賢明)を受けて提案を受けた。フランスはロシアと同盟国であったことと、普仏戦争に破れ維新を回復するために植民地経営に力を入れていたからで、清に恩を売り後でいくばくかの報酬を得ようと考えていたようである。これが三国干渉の実相のようだ。

結局、陸奥外交は最後の最後で三国干渉にしてやられた。菊池寛は、日本は、遼東半島還附の際に、なぜ三国に将来その地を合併または租借せざることを約束させなかったのか、日本は返したのだから他国も手をつけるべからずという言質をとらなかったのかと批判する。

また大隈が、講和談判中に、「日本は遼東半島を要求し、一旦日本の手に収めたら、直ちに清に還附するのが正しい。これを収めるのは戦勝国の権利だが、これを還附するのは、上後一人(天皇)の聖徳を顕彰する所以である。」と新聞記者に言っている。こういう懸念も当時一部にあったらしい。

清と相提携して白人の侵略に当たる、というのは、大久保、岩倉以来の新政府の基調であり、伊藤はその後継者と自他ともに認めていたはずだと菊池寛は三国干渉の末路について結んでいる。

…最後の白人云々の菊地寛の記述などは、さすがGHQ発禁本だと思わせるものである。(上巻終わり)

2022年4月28日木曜日

菊地寛 大衆明治史を読む3

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82
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大日本国帝国憲法の隠れた功労者は、ドイツ人公法学者のヘルマン・ロエスレルという法律顧問であるらしい。参考案としてロエスレルが起草した憲法案があって、憲法と酷似しているという。ロエスレルに対し、井上毅が質問をし、それを頭本元貞が英文にしてロエスレルに示し、これをまた翻訳して井上に戻すというパターンが続き、伊藤博文は双方を対比して法理的に研究していくといった作業が続いたらしい。 

さて、憲法は新たに設けられた枢密院にて、国家の元勲および練達の士を集め明治天皇出席のもとで、各条ごとに、21年5月8日から12月17日まで、毎週1回また隔週1回のスピードで審議された。ちなみに、大隈(当時外相)はこの審議に最初だけ出席、あとは欠席した。憲法においては伊藤博文に勝てないので、一家言ある大隈のこと、面目にかかわる故だろうと菊池寛は論じている。

ところで、明治天皇は、この枢密院の憲法審議に一度も欠席されることはなかった。欽定憲法というのは名目上のように感じるが、この謹厳実直さが明治天皇の明治天皇たるところである。しかも少しでも疑問があれば伊藤を召されて、細部まで検討されていたという。11月12日の会議の際、侍従が慌ただしく入ってきて、伊藤に耳打ちした。伊藤は明治天皇の御前に進み何事か言上した。そして会議を続行、その審議が終わると、伊藤の奏上を受け入御された。実は、第九子(第四皇子)の昭宮(一歳)が逝去されたのであった。明治天皇は審議を止めさせなかったわけである。
…公に撤する明治天皇の姿勢をA宮家の人々に学んで欲しいものだ。

22年の紀元節(現・建国記念の日)の日に大日本帝国憲法が発布されたが、一般国民の代表として、各県会議長も参列した。ちなみに森有礼文相が式典に参加しようとして暗殺された。(式典終了まで秘密にされたそうだ。)

2022年4月27日水曜日

菊地寛 大衆明治史を読む2

http://blog.livedoor.jp/ayabeda/archives/51774212.html
自由党は板垣の政党である。自由党の強みは、地方団体の勢力家で錚々たる人材が集まっていた。中江兆民によるルソーの民約論が一世風靡した。自由民権論が全国で興隆したのは、当時の藩閥政府の官僚が封建大名以上に威張り散らしていたからであるらしい。それに対し、板垣や後藤象二郎は参議までつとめた人物でありながら一般民衆と膝を交えて政治を論じていたのであるから人気が高かった。

「藩閥有司攻撃には虎の如き民軍の兵士言一たび皇室に及べば猫の如く柔順なり」とは議会開始後の政治史にある記述である。自由党の敵は藩閥政治であったのは明確だ。

さて、板垣といえば、岐阜で暴漢に襲われた。「板垣死すとも自由は死せず。」とは有名だが、飛報が東京に届き、後藤象二郎は「余は板垣の屍体を壇上に構えて、弔演説をなさん。」と言ったという。やることなすこと、みな芝居じみているし、しかもこれらが大真面目だと菊地寛は苦笑している。

ところで、この時板垣の傷を診察した青年医師は、当時愛知県病院長だった後藤新平であるそうな。後に日清戦争後の防疫に活躍し、児玉源太郎と台湾に行った明治期第2世代の逸材である。

明治十四年の政変で、下野した大隈重信の立憲民主党は、知識人を結集した。官僚の前島密、犬養毅、尾崎行雄ら慶應出身者、さらには帝大出身者などである。今となっては意外だが、早稲田創立者の大隈を慶應創立者の福沢が応援していたわけだ。

…ちなみに今日の画像は、国会議事堂の中央広間。板垣・大隈・伊藤博文の3銅像が四隅に立っている。憲政の理想を叶えたときにその4人目の銅像が立つとか立たないとか…。昔々見学に行った時、そんな話を聞いた記憶がある。

2022年4月26日火曜日

菊地寛 大衆明治史を読む1

GHQが発禁にしたという、菊池寛の大衆明治史(昭和18年版)の復刻版を読んだ。これがなかなか面白い。文藝春秋を興した作家・菊池寛のノンフィクション+エッセイという感じの本である。印象に残った部分についてエントリーしておこうと思う。

長い通勤時間なのでどんどん読める。気になった箇所を上げて見ようと思う。

明治5年のマリア・ルーズ号事件の話は初耳であった。ペルーの商船で、中国人苦力を運ぶ奴隷船。治外法権下で、副島外務卿が自主外交を貫いた話である。菊池寛がなぜこの事件を記しているのか、下巻の最後まで読むとよく分かる。明治初期、日本は不平等条約で常に列強の干渉の中で右往左往していたのである。その中で、同じ東洋人である苦力を救った事実が象徴的である。

西南戦争で、西郷が私学校の生徒たちの暴走に結局付き合うことになるのだが、この背景には政府から刺客が送られたということになったことが大きいという。西郷も幕末を生き抜いた志士の一人である。暗殺は日常的なことであったからだ。この菊池寛の考察は正しいと思われる。

板垣退助について。戊辰戦争の会津戦争で松平容保が妙国寺に退隠したある日、一人の百姓が芋を藩公に献じてその不幸を諌めようとした。護衛の任にあたっていた土佐の士が美談として板垣に語ったところ、板垣は戦争の時、農民の多くは逃げ出した。これを今後の日本に当てはめた場合由々しき大事である。士族のもつ愛国心を国民一般のものとしなければならない。士族の特権を国民一般のものとして広く享受しなければならないと語ったという。

https://saigoutakamori.sakura.ne.jp/bakumatsu13.htm
実は、板垣は一徹の武人で、鳥羽伏見の戦いでぐずぐずしていた土佐を強引に参加させたのも彼だし、日光に転戦した際、敵将大鳥圭介に一書を呈して「日光廟を兵燹(へいせん)より救うため、山を下って雌雄を決すべし。」とやった。大鳥圭介は、この情ある武士の計らいに感激し、戦わずに裏道から会津に逃れた。(日光に板垣の銅像があるのはそのためらしい。)坂本龍馬以来土佐に息づく自由民権の思想は、燃え上る会津鶴ヶ城を眺める板垣の胸中に湧き上がったと、菊池寛は文学的に書いている。

2022年4月24日日曜日

なぜか、「今」、上海

https://yosui.jp/discography/%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%81%8B%E4%B8%8A%E6%B5%B7/

井上陽水の曲に「なぜか上海」という難解な歌詞の曲がある。陽水の詩の世界は、独特な難解さがあるものが多い。この曲を聞きながら今日エントリーするのは、今の上海の悲惨な話である。

私が上海を訪れたのは、かなり以前のことになる。どちらかというと無錫や南京に行く玄関口的な場所というイメージで、まだ摩天楼のようなビル群はなく、旧租界の外灘から黄浦江を眺めたくらいしか覚えていない。ただただ、高杉晋作が訪れた上海であり、四人組が文革を始めた地である上海、といった内面的な意義だけを噛み締めていたような気がする。

その上海がロックダウンで大変なことになっている。以前からYou Tubeなどで、恐ろしい情報が流れていたのだが、最近やっと日本のマスコミも報道しているようだ。初めて、その情報が入った時、恐れおののいたが、全く信じられない話だった。

マレーシアでも一時期KLなどでロックダウンが行われたが、当然食料や医薬品などを購入できるようなシステムになっていた。ところが、中国共産党のロックダウンは、そういった生存に関わるような配慮が全くない。それを悲観しての行動が相次いでいるようだ。これは中世の話ではない。2022年今現在の話である。

このようなことが行われていていいのだろうか。ウクライナの戦争報道で目立たないが、私は少し海を隔てた上海で起こっているこの事実を日本人はもっと知るべきであると思う。以前書いたが、特に親中派の政治家は、この事実をどう捉えるのか、知りたい。このような非人間的な政策をうてる中国共産党という存在をどう捉えているのか聴きたい。

♪海を超えたら上海 どんな未来も楽しんでおくれ 海の向こうは上海

♪長い汽笛がとぎれないうちに 海を超えたら上海 君の明日が終わらないうちに

2022年4月23日土曜日

世代的価値観の相違

https://www.youtube.com/watch?v=toyO889oQQA
私が仕事をしている横で、妻がYou Tubeを見ていた。誰のチャンネルかは知らないが、妙に耳に残った。

昭和30年代・40年代生まれの人間と今の若者の価値観の相違の話である。昔、とんねるずが「きたなシュラン」という企画をやっていたが、汚い店の方が美味い、という価値観である。うーん、たしかにそれは言えると私はその世代だから思える。

昔、工業高校の近くに、どえらい汚い中華料理屋があって、たしかにここの焼き飯は美味かった。要するに店がまえや清潔さより、その中身を重視することが善であり正義である、という価値観だ。You Tubeでは、当時の青春ドラマ「俺たちの旅」を例にとって、登場人物たちは今からすれば不潔であり、その外観よりも人間性を重視するという視点で作られていた、とする。

たしかに、我々はそういう時代に生きてきた。巨人の星では、星一徹は日雇い人夫で飛雄馬は長屋に住んでいた。あしたのジョーはさらにドヤ街の不良少年であり、丹下ジムは橋の下にあった。だが、彼らの志は高く、夢に向かってパラノに鍛錬する。先日他界された水島新司の野球漫画の主人公も、大方貧しい暮らしをしていたし、そういう状況が描かれていた。

今は、こういうのは流行らないらしい。店もきれいになったし、そもそも若い人々はそういう価値観がない。店の綺麗さと美味さは、イコールあるいは比例すると考えているらしい。

それだけ社会が豊かになったとも言えるし、円熟したともいえるし、スマートになったとも言えるし…だが、これは価値観の変化だと捉えるのがいいのだろう。だから、何なんだと言われても困るのだが…。