ここ数日、ネットでは武漢のコロナウイルスのパンデミックの話題で持ちきりである。武漢市当局や中国政府さらにはWHOの対応のまずさ、日本政府の性善説的対応などにきびしい批判が集中している。また生物兵器ではないかという話もあって、春節で日本に旅行者急増と言う最悪の状況下、今後どうなるのか、まったく予断を許さない。私も気楽な話のエントリーばかりをしているわけにもいかなくなったので、今考えていることを記しておきたい。
私は、よく世界史の講義で、ヨーロッパの社会類型を基にして語ってきた。PBTの教え子諸君の脳裏に焼き付いているはずの「自由な個人と不自由な共同体」である。中国は、まさにその反対で、社会の上部が共同体、下部が個人になっている。(2018年3月3日付ブログ参照)改めて、「武器としての社会類型論(加藤隆著/講談社現代新書2164)」を読み直してみた。
マレーシアの中華系の人々と接していると、ほとんどと言ってよいほど感じないのだが、大陸の中国の人々には私の経験から「下部に属する個人の自由さ」を強く感じる。
この本の著者・加藤隆千葉大学教授は、中国の社会学者・費孝通の言として「これは個人主義ではなく自我主義である。」と記している。
著者は、この費孝通の言に続いて。『「上共同体下個人」タイプの社会は、外観を見ると二重構造である。しかし基本は「下層」(民の領域)にある。「下層」のメンバーは「自己」「拡大できる個人」である。拡大しないままで「小さな自己」に留まる者もいる。しかしこの「自己」は拡大できる。「拡大する」とは「上層に移る」ことであり、易しく言うならば、社会的・政治的な勢力の拡大である。人間の優れた能力が、社会的・政治的側面においてだけ発揮できるような仕組みになっている。「個人」という語をあえて用いるならば、この「上共同体下個人」タイプの社会は、その全体が、極めて特異な「個人主義の社会」だと言うことができる。』と書き、科挙によって下から上への移動が可能な社会を極めて善意的に見ていると私は思う。科挙のない今の中国で言えば中国共産党内での実務力による激しい競争による栄達がそれにあたるといえよう。(実際、習氏も行政家としての実力を内外に示してきた。だからこそ今の地位がある。)
一方、費孝通氏の言には、自虐的な思いが内在しているのではないかと考えている。昔、大の中国通のK先生が「儒教は、必要だから生まれたんです。ほっといたら中国は無茶苦茶になるんですよ。」と言われていたが、この”儒教=廊下を走るなという張り紙論”は、十分説得力を持っている。大陸の人々は、そういう自我主義が極めて強いと私も思う。
自己の栄達のために情報を隠匿した(もしかしたら政府にさせられたのかもしれない)”市長”と、武漢が閉鎖される前に抜け出ることが可能だった富める”民”と。この社会類型論から容易に理解できる。
中国のこういう社会類型を念頭においておけば、空港で自己申告するような者はいないことなど予想できる。また日本で指定感染症となった事をこれ幸いと、無料の”日式治療”を期待して中国本土の各地から患者が押しかけてくる可能性を危惧する声もWEB上で上がっている。なにせ、団体旅行以外なら現時点で日本入国が可能なのだから…。
私も中国本土の人々の「自我主義」に危惧を抱いている次第。
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