司馬遼の「胡蝶の夢」の第二巻をマレーシア行の中で読了した。第二巻では、勝海舟が教頭的な立場にあった長崎海軍伝習所に付属する主人公松本良純が中心となっていた医学伝習所に物語が移っている。今回も印象に残った話を記しておきたい。
咸臨丸で、小倉、下関、鹿児島に練習航海に出た際の描写である。「艦は、右舷に九州の山々を見つつ、周防灘を南下した。次いで、左舷に四国の西端が細長くのびている佐田岬を見、豊予海峡を通過した。」
…この一文は、大阪にいても何も感じなかったに違いない。今三崎にいるからこそ、「そうか、海舟の咸臨丸が佐田岬を通過したのか。」と感慨にふけることができる。まさに属性がなせる業である。
この航海で小倉藩主は咸臨丸を無視した。長州藩はまだ松下村塾以前で下関では大群衆がオランダ人を見に来ていた。しかし、薩摩は違う。島津斉彬が乗船してきた。斉彬について、松平春嶽は「予は多年、友として交りしも、曽て一たびも其の怒れる顔色を見たことなし」といっているし、宇和島藩伊達宗城も「予は七十歳の今日に至る迄、貴賤上下を問わず、幾多の人々に接したるが、まだ曽て島津薩摩守の如く、常に春風駘蕩たる風丰の人あるを見ない」といっている。
…司馬亮の幕末本では、島津斉彬こそ最高の人物として描かれているが、ここでも同様である。長く藩主になれなかったという苦難がこういう人物をつくりだしたように思う。井伊直弼も藩主になることはないとの諦めの中で教養を磨いた。人間、苦労しないと大成しない。こういう人間学も司馬遼の魅力だ。
オランダ人医ポンぺが解剖の際、日本人がそれぞれスケッチしていることについて、「日本人は、絵図で勉強するのにきわめて適した性質を持っているが、これは、日本人の特性ともいうべきものである。」と記している事について、司馬亮は、このポンぺの眼力は「凡庸ではない」と表現している。さらに『このことは、大きく言えば日本文化の成立の機微に関わることで、日本が中国の文化を受け入れるについては、わずかな期間、留学生を送った他は、圧倒的に書物による世界史的にいっても類のない需要の仕方をとった。漢文という外国語によって、見たこともない中国世界をの文明現象を全て受容するというのは、よほどの想像力が必要で、その想像力の種は、わずかに渡来する絵画であった。自然、略図に至るまで外国文化受容には絵画が必要だという文化的習性のようなものができていたのではないか。(趣意)』と記している。
…こういう文化的な洞察が最も面白い。なるほどと膝を打つわけだ。
2020年1月27日月曜日
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