2013年10月14日月曜日

「悪魔」という言葉の力

明日から中間考査である。世界史Bは2単位ということもあって、ヨーロッパ中世だけが今回の範囲である。十字軍の話も出てくる。この十字軍、極めて残忍な虐殺を行っている。昨日、日本人の「空気」について、一神教からの批判の書である山本七平の本の話をエントリーした。一神教世界では、神のことは絶対的だが、他は日本のような「空気」は醸成されず相対的であるというのが結論である。

反対に言えば、「神のことについては絶対的」という部分は、日本以上に強烈な「空気」を醸成するわけだ。それが、十字軍の虐殺に現われている。以前、キリスト者と話していてびっくりしたことがある。キリスト者は敵対する者に対して普通に「悪魔」というコトバを使うのだ。以前読んだ「日本人に贈る聖書ものがたり」でも、「悪魔」というコトバが幾度となく出てきて、アブラハムやその一族との戦いを描いている。つまり、一神教世界では、神と言う完全な善に対して、「悪魔」という完全な悪の設定があるわけだ。この言葉の力は極めて強い。

十字軍の話だけでなく、イスラム原理主義の動きを見ても、イスラエルの生存のための戦いを見ても、全く容赦がない。敵対するものを「悪魔」であると規定しているとしか思えない。一神教世界が生き残りを常に宿命づけられた遊牧民の風土の上に立脚しているとはいえ、我々多神教の農耕民から見ると、やはり「悪魔」という完全な悪の存在は理解しがたい部分がある。

ところで、昨日NHKの番組で、中国の人々がキリスト教(カトリックもプロテスタントも)や儒教によって道徳心を取り戻そうとしているドキュメンタリーを見た。中国の途方もない人口圧の中、小皇帝(一人っ子政策)と拝金主義と利己主義が渦巻く世界で、中国の人々は病んでいる。私などは中国を旅するだけで、疲れる。中国に住む人々も慣れているとはいえ疲れるに違いない。凄いストレス社会なのだと思う。経済成長にともなう、なんらか心の安らぎや道徳の確立が中国にとって必要だと私も思う。

だが、この人民の宗教組織化は中国政府が最も恐れていることでもある。儒教はともかく、キリスト教は、これまでの中国史でもいくどか反乱の主体となってきた。キリスト教には「悪魔」という敵対するものへの概念をもつ。弾圧すれば、政府は「悪魔」化しかねない。

昨日の番組を見ていて、ふとそんな不安を覚えたのだった。

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