2025年5月31日土曜日

イスラエルを理解する教材

引き続き、土曜になのでボチボチ教材研究をしている。昨日の続きで、律法の理解も重要だが、イスラエルという国の複雑さも教えておきたいと思い、さらにパワーポイントを追加した。イスラエルのユダヤ人の14%は超正統派、41%が正統派、45%が世俗派ということで、なかなかステレオタイプに判断できないのだが、およそ整理してみた。

超正統派は、バリバリの選民思想をもっている。男性はすべて宗教学者といってよく、職業を持たない。政府から生活保護を受けながら、子供を増やしている。今のところ兵役も免除されている。(かなり批判が強いので以後どうなるかはわからない。)意外なことに、彼らはシオニズムに対しては批判的な立場をとっている人が多い。

正統派も、職業を持ちながら律法を守り、(特に中東欧出身のアシュケナジは)シオニズム推進派である。危険を恐れず、ヨルダン川西岸やゴラン高原に入植するのは、正統派が多い。

律法厳守に熱心でない世俗派は、経済を支え、兵役につき、イスラエルを支えているがシオニズムに反対する(=和平派)も多い。私の印象では、フツーのアメリカ人、という雰囲気を持っている。民主主義国なので、言論も自由だ。

ユダヤ人以外にも、アラブ人(ムスリムだけでなくキリスト教徒も多い。)やその他のドゥルーズ教徒の人々もいるわけで、この多様性もイスラエル理解には欠かせないと思う。

2025年5月30日金曜日

ユダヤ教の律法を語る教材

https://illustimage.com/?id
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曇天の朝。学院は校内球技大会なのだが、雨で中止の様相を呈していた。ところが朝礼前には青空になり、結局降水確率が高かった天気予報を覆して実施されたのであった。生徒たちは「てるてるボウズ(日本以外の読者のために右画像参照:晴天になるように祈るグッズ。)」をだいぶつくったらしい。(笑)

授業がなくなったので、帰宅してから教材を作っていた。一神教の話の中で、表面的ではなく、経験に裏打ちされたユダヤ教の律法の教材として、イスラエルに行った際、息子の下宿の大家さんに、安息日のディナーに呼ばれたことをパワーポイントで示してみた。この時のメンバーは、大家さん(正統派のユダヤ人で、超正統派ではないが一般人として信仰がかなり厚い方である。)、大家さんの奥さん、息子夫婦と私達夫婦、それに、大家さんの奥さんのご両親であった。YouTubeでよく使われるフリー素材の顔のイラストを使ってみた。(笑)

この時の言語状況は非常に複雑である。大家さんはヘブライ語と英語。奥さんはヘブライ語とグルジア(現ジョージア)語。つまりグルジア出身なのである。息子が最も多言語が話せる。ヘブライ語もアラビア語も(ドイツのユダヤ人の言語である)イディッシュ語、それに英語が堪能で、息子の奥さんは英語が堪能。私たち夫婦は日本語+ちょっと英語。奥さんのご両親はグルジア語のみであった。

よって、私が奥さんのご両親と会話するには、日本語で息子に伝え、ヘブライ語に通訳してもらい、奥さんがグルジア語で伝え、それが同じルートで帰ってくるという状況だった。

さて、安息日のディナーであるから、律法に決められた祈りを大家さんが行い、手の洗い方も複雑で、結局食事が始まるまで1時間弱かかった。(笑)奥さんのお母さんは、しびれを切らして途中退場してしまった。奥さんのご両親はグルジアからイスラエルに移住してきたユダヤ人であるが、そんなに熱心ではなく、血筋がユダヤ、というだけで、律法もヘブライ語もご存じないわけである。大家さんは、お構いなしに律法に沿ったお祈り・儀式を続けた。さすが正統派である。

この時に、大家さんの奥さんが高校の音楽教師であり、国内の高校生は、修学旅行でポーランドのアウシュビッツに行くこと。卒業してもすぐ兵役につくので、3年生は勉強に身が入らないと言うことも教えてくれた。お父さんが、グルジアで公務員をしていたことも教えてくれた。寡黙なお父さんだったが、最後に私はロシア語で、「ありがとうございました(スパシーボ)」。「さようなら(ダスピダーニア)。」と申し上げると、笑顔になってくれたのを思い出す。さすが、旧ソ連グルジアの公務員さん、ロシア語は解するのだった。

2025年5月29日木曜日

「サコ学長、日本を語る」Ⅲ

https://sunrise-okayama.com/archives/11978
元京都精華大学学長のサコ氏の「サコ学長、日本を語る」書評、第3回目である。前回に引き続き、少年期の話から。グレンと呼ばれる少年から青年になる時の割礼の通過儀礼で同世代の男の子は同時に割礼を受けるのだが、1ヶ月くらい前から集団生活をして、儀式と伝統について教えられ、そのグループ(10~15人くらい)は一緒に成長し、絆を深めるらしい。現在では、割礼は行われていないようであるが、この文化は現代でも残っているとのこと。

割礼は、ユダヤ教では生後8日目に行われるが、イスラム教は少年期、ここでもイスラム教的な話であると私は感じる。しかも現在は行われていないというのは、中東やマレーシアでは考えにくい。アフリカ北部のイスラム教は少し他の地域と違うのかもしれない。

このグレンという集団は、秘密を共有し、ある意味人間性を育む場所、恋人と付き合う時も結婚の時もグレンの仲間に相談し、大人になっても続く帰属意識の強い組織である。見捨てるという習慣はなく、親以上に親身になり説教もするし、喧嘩もあるとのこと。だが、喧嘩しても尾を引かないそうだ。

私は、このサコ氏の話から、薩摩藩の郷中制度就中、二才のことを思わず想起した。かなり内容は異なるけれども、青年期の同世代の若者が切磋琢磨していくという点では共通点がある。

ちなみに、マリのグレンでは、迷惑をかけるのは当たり前である。日本の迷惑をかけない文化に対しては、サコ氏は、本音を言わない、真の誠実さにかけると感じているようで、大好きな日本であるが、これだけは譲りたくないと語っている。

2025年5月28日水曜日

「サコ学長、日本を語る」Ⅱ

https://note.com/kyotoseika/n/nefc5cec3394d
元京都精華大学(画像参照)学長のサコ氏の「サコ学長、日本を語る」書評の続きである。昨日、妙にマリの宗教事情について記したのには理由がある。少年期の話の中で、サコ氏の父親が国家公務員であり、それなりに裕福であったようだが、多くの親戚や知人、そのまた知人などが居候していた話が出てくる。これをどう捉えるべきか?

一つの仮説は、最近「イスラームからお金を考える」で長らく記したが、イスラム教徒故の喜捨意識である。貧しいもの、困っている者への援助は、神の望む姿であり、天国に行く道であるからだ。

もう一つの仮説は、アフリカに存在する「情の経済」故である。富める者は貧しい者を助ける習慣があり、血縁・地縁が有効である。特に農村から都市へ出てきた者に冷遇はできないし、第三者から見るとタカられることが多い。それがフツーである。

私は、この2つの仮説の1つ、もしくは両方であると思ったのである。ただ、不思議なことに、サコ氏の父親は、カトリックの私立学校への入学を認めている。熱心なイスラム教徒ならありえないことではある。ただ、政権に近いエリートである国家公務員としては、息子を将来エリートとして育てるためには、フランス語の習得が必須である故に送ったとも取れる。

私は、マリの南部に位置するブルキナファソで、不思議な光景を目にした。それは、キリスト教徒の十字架が掲げられた墓地とイスラム教徒が埋葬されている墓地が共存している姿だった。中東やマレーシアでは考えられないと思う。意外に旧フランスの地域では、そんなに対立していないのかもしれない。ちなみに、イスラム復古主義者がキリスト教徒にテロなどを起こしているのは、旧イギリス領(ナイジェリア、エジプトなど)に多いといえる。

書評といいながら、仮説で終始してしまったが、実に興味深いところ。サコ氏は明確にイスラム教徒であるという記述はない。また彼の発想や意見には、あまりイスラム色も見られないと感じている。その内容については、次の機会に、と思う。

2025年5月27日火曜日

「サコ学長、日本を語る」

学院の図書館で、「サコ学長、日本を語る」(ウスビ・サコ著/朝日新聞出版)を借りて通勤時に読んでいる。サコ学長とは元京都精華大学の学長(2018~2022年)で、マリ出身である。

京都精華大学には、M高校時代とPBT時代に教え子を送り出しているし、教員にブルキナファソでお世話になった荒熊さんがおられる関わりの深い大学である。

内容は、まずサコ氏のマリでの伝記的な話から始まる。これが実に衝撃的である。書評の詳細はは後日に譲りたいと思っているのだが、マリの基本情報を先に記しておきたい。

マリは、かなり複雑な多民族国家である。サコ氏は首都バマコ出身なので、バンバラ人であると思われる。マリというと砂漠を連想するが、バマコは外来河川・ニジェール川に沿ったサバナ気候区に属する。宗教的には、少なくとも実家は、イスラム教スンニー派のマーリク法学派であると考えられる。メディナ時代のスンナを重視する点で他の法学派と異なるという特徴があるようだ。サコ氏の少年時代は、一党独裁の時代でブルキナファソと紛争を抱えていたようだし、現在も北部でトゥアレグの独立紛争など政治的・治安的に脆弱な状況が続いている。

マリといえば、世界遺産のトンプクトゥーを思い浮かべるとともに、NYCの国連本部を案内してくれた女性職員が、フランス語圏なのにキレイな英語を話すマリの人だったことを思い出す。…つづく。

2025年5月26日月曜日

イスラームからお金を考えるⅧ

https://ja.sekaiproperty.com/article/3770/stay-malaysia-islam
「イスラームからお金を考える」の書評、最終回。著者の言われている現代の金融資本主義を是正する手段としてイスラムの「無利子銀行」を始めとした、利子なき助け合いの経済は有効か?という問題についての考察である。

天国に行くための義務としてのイスラームの喜捨は、やはり神への絶対的な服従がなせる技であると思われる。人間には欲望(仏教的に言えば煩悩)がある。経済的な欲望を抑えることは至難である。故に神の設計図がない(=ユダヤ教やイスラームのような律法やシャリーアが存在せず、自然法的なスタンスを取らざるを得ない)キリスト教では、利子を結局のところ認めざるを得なかったといえる。多神教世界では、天国という概念が希薄だし、イスラームの喜捨という概念も理解できたとしても、実践に移すことは容易ではない。まして中国のような人口圧にまみれた世界では、欲望が他者のことなど考えない利己主義に昇華しているといえる。日本国内における米の買い占めやマクドの子供のための景品を買い占めに走る中国人の行動は嫌悪を頂くし、全く理解不能である。https://www.youtube.com/watch?v=2-8Ls958d2o

私はこれは深く人生観に関わる問題であると思う。カントは、判断力批判の中で、真善美という価値の追求を説いたが、ムスリムにとっては、それは神の領域であり、無意味なことである。ただただ神に従い義務を果たすというスタンスがあるからこそ、公平を実現できていると思われる。これは、善悪や正邪の問題でもない。マレーシアで3年半過ごした私は、ムスリムの生き方を否定しない。リスペクトべきであるとも思っている。だが現在の金融資本主義をイスラム金融や喜捨の精神が凌駕できるか、と問われれば、否と答えるしかない。

それは、神(ここではアッラー)への信仰がなにより必要だからである。その前提なしには、同じ神を信仰するユダヤ教徒やキリスト教徒では、義務的に欲望を制御できないし、多神教世界、就中、中国のような利己主義が価値として蔓延する人々には到底無理だと思うからだ。意外に、日本の文化には、他者への思いやりが根付いており、喜捨については理解が十分可能であると思われるが、日常的な実践についてはやはり無理が生じるのが現実であろう。ある意味で、残念な見解になってしまったが、この問題、これからも考えていこうと思う。

2025年5月25日日曜日

イスラームからお金を考えるⅦ

https://blog.goo.ne.jp/munehemmi/e/e011ec045657fa6733b168c1bdef4b86
「イスラームからお金を考える」の書評、今回は「無利子」について、他の一神教との比較をしながら、これまでの私の見識の中で考察してみたい。

利子の禁止は、一神教の基盤となっている旧約聖書の出エジプト記22章26節「あなたが共にいるわたしの民の貧しいものに金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはいけない。これから利子をとってはならない。」また申命記23章20節「同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も食物の利子もその他利子が付くいかなるものの利子もつけてはならない。」に記されている。

ユダヤ教の律法では文字通り同胞(=選民たるユダヤ人)への無利子を説いているので、異教徒で同胞と認めないキリスト教徒対象の金貸しの生業が発達した。キリスト教徒が利子を禁止していた時代にあって、農業を禁じられた故に幸いしたといっても良い。しかしながら、さらにカトリックも13世紀頃から実質的に認めだし、16世紀にカルヴァンが公式に5%までの利子、ヘンリー8世が10%までの利子を認めた後、19世紀にはカトリックも公式に利子を認めていく。(正教会は教会の慈善活動等以外は原則的に認めていない。ルター派は慈善目的など利子そのものではなく目的に応じて認める姿勢、英国国教会も、経済成長や社会貢献に関する限り禁止していない。)こうしてみると、利子に関しては、その伝統重視の姿勢は、ユダヤ教はさておき、イスラム>正教会>カトリック>ルター派>英国国教会>カルヴァン派という比較ができよう。カトリックの柔軟性と正教会の保守的なスタンスは、この利子という問題でも明らかである。とはいえ、現実の世界では、イスラムも経済活動のため正当化できるギリギリ一杯まで利子的なモノを存在させているわけで、他の一神教でもイケイケというわけではなくとも、事実上認めているわけだ。多神教の世界から見ると、ご苦労なことであるというのが実感ではないだろうか。

次に、イスラム教のスンニー派の大多数・穏健派における隣人観は国家や民族を超えている。(ただし、復古主義の過激派や、教義的対立関係にあるシーア派や政教分離観の強いトルコのクルドとの抗争を除く。)キリスト教圏においての隣人愛(画像参照)はかなり限定的で、国家や民族をイスラム教ほど超えているとは言い難い。ユダヤ教に至っては選民思想があり、他の国家・民族への隣人観は最も希薄だといえる。前述した欧米の既存銀行の「無利子銀行」サービスも、やはり預金者獲得(=利潤目的)の為と受け取っても良いのではないかと私は思っている。

著者は、現在の金融資本主義への批判を長く記しておられ、これからは、イスラムの知恵が有効ではないかと考えておられる。前述したように、比較的長い間書評を止めていたのは、このことに対する私の考察がまとまらなかったからである。