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2024年4月30日火曜日
ケニアの洪水被害
2024年4月29日月曜日
GWが始まったが…。
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また学院では、YouMarkという採点のアプリを使うことになったので、かなり不安でもある。明日明後日は授業だが、2日は遠足で休みになる。すでに少しずつ作成しているのだが、5月2日から6日までが試験作成本番という感じである。
そもそも我が家は、GWにお出かけすることはほとんどない。夫婦共々人手が苦手だからだが、これ幸いと試験づくりに励もうと思う次第。
2024年4月28日日曜日
「はじめてのバルト」を読む
学院の図書館に先日行ってみた。図書館は5階まであって、20万冊の蔵書があるそうだ。当然ながら、カトリックを始めとしたキリスト教の蔵書も多い。関連して哲学や宗教学の棚もかなり充実している。で、とりあえず最初の1冊を借りた。「はじめてのバルト」(J.R.フランク著/教文館)である。昔からバルト神学には興味があったのだが、なかなか勉強する機会がなかった。カウンターで、司書の方と話していると、「この本を借りた方は今までいなかったのではないかなあ。」とのこと。褒められているような、そうでもないような…。そりゃそうだ。バルトといえば20世紀を代表するプロテスタント(カルヴァン派)神学者である。カトリックの立場からしたら、あまり好きな人物ではないはずである。とはいえ、キリスト教関連の書籍としておいてあったのだろう。私からすれば、これ幸いである。
実は、すでに半分以上読んでいる。中田考氏の新書と併読していたので、少し混乱したきらいもないではないが、意外な共通点もあるような気がするのである。少し頭の中で熟成してから、書評を書こうかと思っている。
2024年4月27日土曜日
イスラムと西洋哲学 まとめ
法の宗教であるイスラムやユダヤ教と違い、天啓法を持たない西洋キリスト教世界の学問では、神学であれ哲学であれ法学であれ、善悪を分析のために最も基礎的な概念とみなす。しかしその枠組はイスラムには通用せず、むしろミスリーディングである。イスラームは最も基礎的なカテゴリーは、神への服従と不服従であって、善悪ではない。人間にとって有害か無害かで定義されるような善悪は二義的でしかない。(この内容は、中田考氏の修士論文の結論であるそうだ。)
さて、「おわりに」で、中田考氏は、(西洋哲学が重視する)善悪というカテゴリー自体が客観的に存在しない、アリストテレス自然学との決別によって成立した近代西洋哲学は、宇宙から目的因を追放し、西洋科学は宇宙の中に善も悪も発見しなかった。善も悪も宇宙のスケールから考えれば、空間的にも時間的にも無に等しい人間たちのただの主観的な思い込みに過ぎない。多数派の主観であれ、権力者の主観であれ、あたかも普遍的な真理であるかのように他人に押し付けようと論じる立てるのは、それによってニヒル(虚無)から目をそらし、自分が永遠の普遍と繋がっていると錯覚することで安心感を得るためでしかない。ニヒルから目をそらすのではなく、ニヒルを直視することによってしか、真の希望はない。イスラムの最初の教えは、「ラー・イラーフ」すなわち「崇拝すべきもの、価値があるものは存在しない。」である。見に見えるすべてのものは価値も意味もない、救いも存在しないという冷徹な事実を認めた者にのみ、ニヒルの彼岸から「ただしアッラーは別である」という暗闇を切り裂く雷鳴のような絶対他者の声が耳に届くのである。中田考氏は、イスラムこそ、ニヒルの時代の最後の希望だと結んでいる。
…私はブディストであるから、この考えに賛同するつもりはない。ただ、深い見識と洞察によって、さらに深い信仰によって、たどり着かれたのであろうことを強く感じるのである。実に勉強させてもらった1冊であった。
2024年4月26日金曜日
イスラムとErich Fromm
フロムは、フランクフルト学派の中でも、一番宗教的で、鈴木大拙とも対談していて、『禅と精神分析』という共著もある。フロムは、人間には「有る」と「持つ」という2つの生活様式がある、と言う。有る生活様式とは、生成変化の過程として現在を生きることであり、持つ生活様式とは、なにかを固定して永久に保持しようとすることである。フロムは言語分析を行う中で、セム語のアラビア語・ヘブライ語には英語の「持つ(have)」がない、フロムによると、「持つ」の多用は資本主義の特徴で、haveに名詞をつける表現がどんどん増えている。生きているものは不断に生成変化する。所有できるものは死んだもので所有するということは対象を殺すことになる。
その例として、ここで突如漫画『ドランゴん桜』で、発達障害の昆虫好きの少年の話が登場する。先生たちは、昆虫の標本を与えるが、彼は全く興味を示さない。少年は生きた昆虫とともに生きることが好きなのに、資本主義の健常者である先生たちは、昆虫を殺し、その死体を標本にし、所有して飾っておくことが昆虫好きだと信じているわけで、まさにフロムの持つ生活様式、資本主義的生活様式であるが、障害者扱いされている少年は有る生活様式で、それにドラゴン桜木が気づくという話である。…見事な説明である。
またフロムは、領域国民国家システムそれ自体、またその中で生きる人間の病理についても述べている。「人間の歴史の中で、様々な偶像が崇拝されてきたが、今日、それは名誉、国旗、国家、母、家族、名声、消費といったいろんな名で呼ばれる。けれど正式の礼拝は神であるというたてまえからいって、今日の偶像が人間の崇拝の本当の対象となっていることはなかなか見破られない。かつて、神に捧げられる人柱があったが、戦争におけるナショナリズムや国家という偶像に捧げられる現代の人柱の間には、我々が考えるほどのひらきが実際にあるのだろうか。」(ユダヤ教の人間観)
…これまで、古代哲学以来、批判的な論述が多かったのだが、領域国民国家システムを批判し、カリフ制論を展開しているイスラム哲学者でもある中田考氏が、このフロムの影響を受けていると言う。実によくわかる気がする。
2024年4月25日木曜日
イスラムと Lévi-Strauss
さて、このレヴィー=ストロース、イスラムが非常に嫌いだったらしい。ただし、非常に屈折した言い方をしていて、仏教、キリスト教、イスラム教を並べて、仏教を一番高く評価し、歴史的にキリスト教、イスラム教は劣化した、それもイスラムが立ちふさがったことでキリスト教が仏教に戻る可能性が断ち切られ、キリスト教がイスラム化したという言い方で批判している。これは、人類学者的な民族的視点であって、聖書学者や仏教学者もとんでもない理論だとしているそうだ。
ブッダは、ギリシアの哲学者たちと同類のアーリア系だが、(ローマ軍人との私生児説から見ると)イエスは、セム人(ユダヤ人:マリア)とアーリア人の混血、ムハンマドはセム人、アーリア的な仏教に回帰したほうが女性的で平和な世界、多文化を許容する世界ができたはずなのに、セム的なイスラムがヨーロッパとアジアの間に生まれたために現代社会は殺伐たるものになったと、レヴィー=ストロースは、アーリア民族主義者的な視点を「悲しき熱帯Ⅱ」の中で述べている。そもそも、レヴィー=ストロースはユダヤ系の人なのだが、かなり複雑な思いがあったのではないかと、中田考氏は述べている。もちろん、とんでもない理論として反論もなされていない。
2024年4月24日水曜日
イスラムと Wittgenstein
ヴィトゲンシュタインの「神秘的なもの」の一つは、自己であると中田考氏は言う。自己は世界の中にはなく、世界の外との境界にある。世界の中にはいかなる価値もなく、しかし世界の外には、「語り得ないもの」すなわち神がいる。自己は、接点、接面といった比喩でしか語れないものであり、しかも実際には人間は4次元の世界で生きているので、時間にも厚みがあるはずで、それが哲学の一番の問題であるとと考えているとも。自己は存在しないという命題は哲学化されたイスラム神秘主義の中では、これが通説で、人間は存在せず、自己も存在せず、神だけが存在すると言われてきた。シーア派のイルファーン哲学では、これを理論化しようと試みているが、中田考氏は成功しているとは思っておらず、それに対して、スンニー派は理論化せず、沈黙し、言葉で語るのではなく実践の中で示そうとしてきた。よって、スンニー派は、ヴィトゲンシュタイン的と言えなくもないとのこと。
後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」については、言葉は生活様式の一部で単語にあらかじめ決まった意味もなければ決められた使用法もない、逆にそのような先入観を捨て虚心に実際の言語の使用法を観察することが哲学の仕事だ、とヴィトゲンシュタインは主張するが、イスラムは、全くの逆で言葉には正しい意味と正しい使用法がある、それがクルアーンの言葉であり、ムハンマドが弟子たちに語った使用法の中に示されている、と全く逆の立場を取っている。このため、イスラムでは、クルアーンの意味論的意味を確定するために、イスラム以前のアラビア語の語彙を収集し、数十巻にも及ぶレキシコンを編集すると同時に、預言者の言葉だけでなく。彼と弟子たちの言動を記録し、彼らが生きた生活様式をできる限り変えずにそのまま維持することに努めてきた。(…まるで荻生徂徠の古文辞学の如くである。)ここで、イブン・ターミヤが登場する。法学的に、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論と同様な理路(虚心で意味を探る)で、預言者とその弟子たちの生活様式を守ることでがクルアーンの意味を正しく理解できると考えた。イブン・ターミヤは、復古主義を唱え、神学的にこの宇宙を超えたこと、語り得ないことに関しては、この世界の外からきた言葉、クルアーンに自ら語らせ、その具体的な内容については自分の言葉を付け加えないとすることで、「語り得ないことについては沈黙する。」という同じ立場をとったといえると、中田考氏は語っている。
…なかなか興味深い内容だと思う。しかし、中田考氏の見識は感動的なほど深すぎる、と私などは思う次第。








