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質は、重さをはかる斤が2つ、貝の上に並んでおり、貝(当時のお金)の重さが等しいこと、名目に値するだけの中身を持ち合わせているという意味になる。つまり中身が充実していることだといえる。実は誠実の実を表している。よって、「質実」は、(中身が充実した本物なので)飾り気がなく、(同様に)真面目なことである。
「剛健」は、体が強くて丈夫であること、すなわち、たくましく、健やかであることを意味する。
…この「質実剛健」という言葉は、明治天皇の1908年の戊申詔書の中の「国民は充実に仕事に励み、勤勉に倹約をして生計を立て、自ら質実を重んじ、自らを励み勉め続けなければならない」から来ているらしい。当然ながら、これは明治天皇オリジナルではなく、日露戦争後の社会的混乱の中、当時の桂内閣の内大臣が閣議に提出したものらしく、外相・小村寿太郎、海相・斎藤実は反対したらしいが閣議を通り発布されたもの。日露戦戦争を勝利し、一気に近代国家の一員となった日本の国運の発展のための標準的な国民道徳といってよい。
…私の倫理の教師的感覚では、質実剛健という語には、朱子学的なるもの、陽明学的なるもの、武士道、さらには国学的な日本人の愛する古来の清らかさが含まれていると思われる。
…ところで、この戊申詔書を推進した内相の平田東助という人物、なかなか興味深い。彼は藩校で学んだ後、江戸の古賀講堂で学んでいる。ここの主・古賀謹一郎は、儒学者でありながら洋学志向で、河合継之助なども門人である。また勝海舟と洋学を学ぶ教育機関を作っている。ここに、後の寺島宗則や西周(薩摩)、村田蔵六=大村益次郎(長州→宇和島)などを招いている。こういう師をもった平田東助は、慶應義塾で英学を学び、岩倉使節団に随行、ロシア留学の予定が、条約改正に活躍した青木周蔵や吉田松陰門下の品川弥二郎らの説得でドイツ留学に切り替え、ハイデルベルグ大学で博士号を取得。ドイツ法の専門家となっている。奥羽越列藩同盟の米沢藩出身でありながら、長州閥の官僚となる。伊藤の憲法調査団随伴、さらに帝国議会発足後は山縣有朋の側近となる。最後は元老に次ぐ実力者であったようだ。ちなみに、神社合祀令を強く推し進めたことでも知られる。これに猛反対したのが南方熊楠や柳田國男であったという。最終的に、正二位。伯爵。
…儒学的でまた国学的な要素を含むの質実剛健という語は、実は洋学の徒によりつくられたわけである。日本の多層的な思想の状況を垣間見るようで面白いと私は思う。
…閉話休題。質実剛健なる人物は、多いようでなかなかいない。私がふと浮かぶのは、京大出身の先生方である。共通点は、京大出身であるということを自分からは絶対言わないし、当然ながら自慢などしない。頭の良さは本物で、私などは足元にも及ばない。しかも意外にスポーツマンで部活指導に熱心だったりするのが共通点。まさに、一流、質実剛健の人物のような気がする。
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