2020年6月4日木曜日

日本はアジアか否か?(2)

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昔々、ニューヨークに旅した時、アシアナ航空を利用した。ソウル空港で、さあ、搭乗となった時、列になるどころか、搭乗口に押し寄せた韓国の人々を見て、唖然としたことがある。そして、気が付いた。同様の視線を送っている人間があと2人いたのだ。それは、アフリカ系米国人と白人の米国人で、三人は目があった。この時、三人ともが思わず「どうしたもんかねえ。」というボディランゲージをしたのを鮮明に覚えている。(断っておくが、この便はいくら格安とはいえ、自由席ではなく指定席である。)…この時、私は間違いなく、アジア人ではなく、欧米側に立っていたと思う。(マレーシアでは、同様の経験をしたことはない。)

アジア的なるものを定義するのは難しい。人口圧?アメリカに行くと、人と人の距離感の様なものを感じる。”エクスキューズミー”を常に口にして、距離感をとる必要性にかられた。関空から、京橋駅で降りた瞬間、肩が触れ合ったりする日本の距離感の近さに辟易としたこともある。要するに、個人主義が確立した世界と集団で生きる世界の差異なのかもしれない。契約がある意味重視されるキリスト教的な世界と、情で動く多神教世界の違いかもしれない。

日本は、脱亜入欧などという概念が明治の中頃から浸透していた。それがアジアの盟主として、アジアの植民地解放思想に発展していく。このあたりの福沢の脱亜論と脱亜入欧論の関連は少しばかりややこしいが、歴史的な事実として八紘一宇などに発展したわけだ。だが、これに大失敗した日本は、戦後、身も心も脱亜入欧したように思われる。もう、少なくとも政治的・軍事的にアジアにはかかわりたくない、というコンプレックスのような感覚があったのではないかと思う。

とはいえ、風土はアジアである。米を食べ、小学校から集団教育を受けている。止揚したといえば格好いいが、アジア人でありながら欧米的嗜好、私など、幼年期からアメリカのTV番組を見て育った。ディズニー、奥様は魔女、トムとジェリー、ポパイ…。まさに、日本人とは不思議な存在である。

ひどく雑文的になったが、日本はアジアか否か?この答えを正確に述べることはできない。混沌とした思考が巡り巡るだけだ。基盤はアジアだが、欧米嗜好、とくにアメリカナイズに最も苛まれているともいえなくもない。うーん、さらに混乱してきたのだった。また機会があれば、この命題に再挑戦してみたいと思う。

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