水野忠邦 |
さて、それはさておき、「幕末バトル・ロワイヤル」の続きをエントリーしたい。いよいよ水野忠邦の天保の改革についてである。天保7年大飢饉がおこり、東北や関東から難民がどっと流れ込んできて、米はもとより、炭・油などの生活必需品も物資不足に陥った。庶民生活は窮迫し、それ以上に旗本・御家人といった収入増が見込めない武家社会の暮らし向きは落ち込む一方であった。
幕府内部では、物価が下がらない原因をめぐり意見が二つに割れた。独占価格説と貨幣インフレ説である。前者は水野忠邦ら老中と勘定奉行の説でインフレの原因は一部の問屋商人の独占的な価格形成にあり、問屋仲間を解散させれば物価は下がるという説。後者は南町奉行・矢部駿河守定謙(さだのり)の少数意見で、度重なる貨幣改鋳によって貨幣価値が下がったからという見方であった。幕府は金・銀・銅の貨幣の品質が落ちているので、(紙幣乱発同様に)インフレが起こっているというわけだ。天保12年、この対立は矢部の更迭で決着が付くのだが、それに先立つ9年に水野忠邦は、大阪西町奉行・阿部遠江守正蔵に、物価騰貴の調査を内密にさせている。米・酒・塩・炭・綿などの主要16品目の価格メカニズムを詳細に分析したレポートが提出されたが、それは13年のこと。結局政策には反映されなかった。これによると、需要(捌き口)に供給がおいついていない(生費不釣合)=需要インフレなので物価が上がるのは当然という結論に達している。
結局、水野忠邦は「奢侈禁止令」を出す。高価な品物の売買を禁止したのである。売れなければ物価は下がると見たわけだ。彼はこれで、武家社会は3~40年はもつと考えていたらしい。江戸の景気はめっぽう冷え込み、不満が高まった。さらに「株仲間解散令」を出す。海運の主力であった菱垣廻船の運行に支障が出て大消費都市江戸は壊滅するかもしれないような改革である。そのかわりに「素人直売勝手次第」とし、どんな品物も自由に売買してよろしいということになった。まさに独占禁止法である。これまでの商習慣を無視した政策で、そう簡単にうまくいかない。金融にも大きな痛手が押し寄せる。問屋が廃止され、信用経済が成立しにくくなったのである。菱垣廻船がもしもの時の損害捕縄も消滅した。物価はさらに上がっていく。さらに、物価を統制する動きにも出た。ジャコバン派の最高価格令のようなもので、物価統制+密告奨励政策が動き出す。
矢部について書かれた小説 |
…水野忠邦の天保の改革は実に評判が悪い。今の経済学の常識から見たら、もっとやり方があったろうに、と思えるのだが当時としては致し方ない面もある。所詮江戸幕府のシステム事態の矛盾が露呈しているわけだ。
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