2025年11月30日日曜日

期末考査後の授業について

昨年度のポスターセッション・モザンビークの1つ
期末考査が終わると、私の地理総合の授業は、特進クラスでは行わないことになっている。入試科目対応の特別時間割になるからである。残りの総合理系と看護コース、総合文系の授業に専念することになるのだが、今年は、総合理系と看護コースでは、ちょっと本格的なディベートを、総合文系では、昨年同様ポスターセッションを中心にやることにした。

ディベートは、命題を2つ出し、4チームに別れて行う予定。すでに学級委員に最適なチーム分けを依頼してある。総合理系と看護コースは、明確な言語を使える生徒が多く、ここに論理性を加味したいところ。命題の1つは決定している。「中国は先進国か否か」である。

立論に際して、「先進国の定義」がまず重要になるだろう。一応はOECD加盟国ということになっているが、中国はG20に入っているし、上海協力機構なども組織し国際援助を行っている。この先進国の定義を狭義に捉えるか、広義に捉えるかがまず重要かと思われる。さらに具体的な質疑内容を考えさせたいと思う。もう一つの命題に関しては悩んでいるところ。

ポスターセッションに関しては、中南米やオセアニアの地誌はほとんどできなかったので、これらの国の国是や理想をもとに自由に発表させたいと考えている。こちらから、候補国を提示して、クラス内でダブらないようにしていきたい。昨年はなぜかモザンビークが各クラスで人気であった。三者三様の発表で、その対比も面白かった。(笑)

中南米とオセアニアということで、メキシコ、パナマ、ペルー、エクアドル、ボリビア、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル、オーストラリア、ニュージーランドと太平洋の島嶼国ということになりそうである。

2025年11月28日金曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録3

https://artmuseum.jpn.org/mu_sokurates.html
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第3回目。第2章の古代哲学の続きである。

ポストモダンとは、すべてのものは相対的だということなので、詭弁に等しいと佐藤氏は断じている。「丸い四角を書きなさい」といったことは神にできないことの1つである。神にもできないことがあると中世に議論になりました。命題事態がナンセンスなものは、神にも回答や実行は不可能である。だから神は行わない。ただ、こうした内容も論理として整理するのは、なかなか難しい。(P45-46)

…「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)のポストモダン批判と、佐藤氏のプロテスタント神学との共通点として私はこの記述を捉えた次第。

面白いのは、ソクラテスの死にまつわって、裁判員制度の話が出てくる。殺人や放火などの重罪のみ、量刑も決める裁判員制度はいかがなものかというわけである。裁判員制度が本来に馴染むのは、特捜事案、政治家などの犯罪についてこそ国民目線が活かされるのではないか、また国民の義務にしているのも問題だというわけだ。(P50-51)

…これには同意。未だ私に裁判員に、という指示は来ていないのだが、素人が重大な犯罪の量刑にまで踏み込むのは、やはりなじまない。特捜事案こそ活かされるというのは賛成。ただ、素人なりに政治的なスタンスが絡むので難しい面もあるだろうが…。

「悪法も法なり」という普遍的な規則にしたがってソクラテスは死んだとなっているが、佐藤氏は、当時のギリシアの身体論(魂と牢獄としての肉体は別々)から、解放である死は怖くなかったのではないかとしている。死生観は変化するものだというわけである。(P51-52 )

…NYCのメトロポリタン美術館で、ダヴィッドの「ソクラテスの死」を見た。かなり大きな絵画で、圧倒された。ソクラテスは、たしかに恐れることなく毒杯を飲もうとしていたのだった。こういう視点も実に勉強になる。

2025年11月27日木曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録2

https://www.science-studio-channel.net/akiresu_to_kame_part1/
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第2回目。第2章の古代哲学の世界からである。

古代ギリシアは、奴隷経済社会であり、物と心にゆとりのある自由民が高等遊民となって哲学の基盤を築くことになる。ここで佐藤氏は、夏目漱石の『それから』に登場する代助に「働くのもよいが、生活以上の働きでなくっちゃ名誉にならない。」「食うための職業は、誠実ににゃ出来にくい。」と言わせている場面がある。品性が下劣なのは、食うために働いているからだという考えは、まさにギリシアの自由民の考え方であると。文学はそういう人をモデルにして成り立つというわけである。(P34-39)

神学にとって重要な存在は、メインストリームでアリストテレス、その裏側でプラトン。加えて重要なのがネオ・プラトニズム(新プラトン主義)であるとしたうえで、「AI時代の今大事なのは自然哲学」というタイトルで、「アキレスと亀」の話が登場する。

(あるものはある、あらぬものはあらぬというアフォリズムで有名な)パルメニデスの弟子のヅェーノーン(=ゼノン)によって、「アキレスと亀」というパラドクスを想起した。アリストテレスに、「弁証法の発見者」と称されたこのパラドクスは、運動を否定するために、運動を仮定し、以下にして背理に陥るかということを示し、間接的にその前提となった運動を否定しようとしたものである。佐藤氏は、このパラドクスを論理で崩すのは意外に難しく、今だに完全に納得できるような解決はついていないとのこと。(P40-43)

…高校倫理における自然哲学の分水嶺は、この変化するものは本当にあるとは言えないとするパルメニデスと「万物は流転する」と説いたヘラクレイトスの対立をどう料理するかであったと私は教えている。これがエンペドクレスの四元説、さらにデモクリトスのアトム説へと発展していくのである。

さらに、近代の数学者・バートランド・ラッセルの「床屋のパラドックス」にも触れられている。これは、ある村の人間(男)を、床屋に行ってヒゲを剃ってもらう人間と、自分でヒゲを剃る人間に分けた場合、床屋はどちらに入るのかという問題。床屋は自分で剃っているともいえるし、床屋に剃ってもらっているとも言える自己言及問題となり、コンピュータは解決・判断できない。AI時代には重要な、一番の隘路(あいろ)であると言えると、佐藤氏は警鐘を鳴らしている。工学系の人も哲学の勉強をしていないと危ういという話である。(P44-45)

…私自身、本年度はAIを教材研究などで徐々に活用するようになったが、たしかに危ういと思えることもある。

2025年11月26日水曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録1

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)をとりあえず一読した。画像にあるように付箋がいっぱいついている。(笑)本日は、付箋をつけた箇所の備忘録として、つらつら記しておくというエントリーの第1回目である。佐藤氏の講義では、横道にそれながらも教養あふれる話が多いので、神学から見た西洋哲学という趣旨とは、あまり関連のない記述もあることをご了承願いたい。

近世より中世、中世より古代の方がいい時代といった復古維新的な発想について。日本は明治維新の時、日本本来のあり方についてどこまで戻そうとしたか?1つが建武の中興、後醍醐天皇の時代、さらには中国から入ってきた律令制導入以前。これは5.15事件の理論家でアナーキズムと国家主義思想の双方に影響を与えた後藤成卿(せいきょう)の論。さらに、日本神話の天地開闢(かいびゃく)まで戻るべきと唱えた人々もいたのだが、伊勢神道系と出雲系で分かれるので難しい。解釈学では大和朝廷による国家統一の過程を神話化したとされる。西洋でも哲学の根っこはギリシア神話とつながっており、その連続性のなかにある。(P22-23)

…こういう秘史的な話を佐藤氏はどこで身につけたのかと思う。例の獄中であったとすれば、マイナスを見事にプラスに変えたといえるだろう。

2019年、フランシスコ教皇が来日した際、反原発の立場をとった。その理由は、創造の秩序の神学に身を置いているからである。神はプルトニウムをつくっていないから、人間はそういうものをつくってはいけないというわけである。ゲノム編集も合成生物学もダメということになる。自然の中に神の意志があるという考えは、極めてプレモダンであるが、モダンの危機の中で、ポストモダン的な状況の中で再び脚光を浴びている。プロテスタンティズムは明らかに袋小路に入っているが、カトリシズムが同じ袋小路に入らないのは、モダンの時代に背を向け、プレモダンな状況に身を置くという選択をしたからである。(P25)

…このカトリックがプレモダン(近代以前)の状況に身をおいていの反原発という論理は実に興味深く感じた。同時に、プロテスタンティズムが袋小路に入ってしまっているという箇所が気になった。新しい研究材料である。

神学は基本的に「独断論」の立場を取る。自分にとって絶対に正しいことがあるというところからスタートする。哲学的な思考は、究極的には独断論か不可知論かしかない。正しいものは何もない、あるいはとりあえずこれが正しいことだ、という事で始める、どちらしかない。現代の哲学で、独断論の立場を取るのは、神学以外では、フッサールの「現象学」のみである。独断論といえばナンセンスに思えるが、反証主義をそこに合わせれば問題は生じないので、独断論は重要である。とりあえず独断論の構えから始まっても、反証主義的に開かれたカタチにしておく=反証可能性を残しておくなら議論ができるからである。最初から本当か嘘かを問う不可知論では議論自体が進まない。(P28-29)

…この「独断論」について、神学とフッサールの現象学が反証可能性を残している独断論であるいう対比の記述は実に面白い。なるほどと感心した次第。

カントの物自体(Ding an sich)は、考えても無駄だとされるようなもので、限りなく神に近いものである。ところが、そういうものに対しても価値の哲学という形で扱うことができると考えたのが新カント派である。解釈が前提となる新カント派は戦前・戦中の日本の教養主義の中で大きな地位を占めていた。この時代の人達が書いたものは基本的に新カント派の考えの枠内にあると思ってよい。

本書のテキストとなっている著者の淡野安太郎氏も同様である。彼はこう記している。「その宏大無辺な宇宙を自己の思想の中に包み入れることができるし、また包入れずにはおれない。」こういう考え方(1人の人間の中で全世界を整合的に解釈するという考え方)は、世界観である。

世界観を最も強調した潮流はマルクス主義である。だから、マルクス・レーニン主義は世界観であるが、スターリンの場合は『弁証法的唯物論と史的唯物論』の中で、その世界観の主体を党(共産党)にした。正しい世界観は党が持っている、ということにした。その党の意思決定は、党の政治局によってなされ、政治局の意思決定は書記長によってなされるので、書記長の見解が唯一の正しい世界観になる。

この構成は、カトリック教会と一緒であるが、全体主義と受け取られるのを避けるため、教義に関する事柄と道徳に関する事柄については、ローマ教皇が教皇座から言う事は過ちを免れる(教皇の不可謬性)という言い方をすることで、世界観を持っている教会であることを正当化しているのだが、佐藤氏によればスターリニズムと全く同じ図式だと手厳しい。(P32-33)

…カントの物自体が神に近いという記述は、目からウロコである。実践理性のみが関与できる存在であるくらいにしか思っていなかった。さらに付記すると、高校倫理では、新カント派については、新プラトン主義ほど語られないというより、ほとんど登場しない。新鮮である。

…世界観という視点から、スターリンに突入しているのが興味深い。これは、現在の中国共産党にも言えることではないか。習近平の世界観も同様に、中華思想に凝り固まっているがゆえに、現在のような馬鹿げた事態を招いているように思う。

…ところで、まだP30くらい。本書はP435まである。(笑)

2025年11月25日火曜日

中国外相タジキスタンで吠える

https://www.travel-zentech.jp/world/map/Tajikistan/Map_of_Tajikistan_and_neighboring_countries.htm
中国外相が、タジキスタンを訪問し、日本の軍国主義の復活云々と吠えた。タジキスタンもこれに呼応し中国の立場を認めたという報道が流れた。

タジキスタンという国は、トルクメニスタンほどではないにせよ、かなり独裁に近い強権政治を強いている国だ。ソ連の支配下にあった関係で、反ロシア的色彩が濃い。となれば中国に接近するのは地政学的にも当然である。山岳国家で、かなり経済的に厳しい。HDIは129位/193カ国である。

中国は、G20でも立場がない状態で、UNでも一気に影響力を低下させた。なんとか味方を増やそうと必死なのだろうが、焼け石に水。先進国、ASEANなどの批判を果たしてかわせることはないだろうと思われる。

2025年11月24日月曜日

ドイツ的キリスト者運動の事

https://ja.wikipedia.org/wiki
佐藤優氏の『哲学入門』もあと少しで一読、というところまできた。その中には、大きく取り上げたい話と、備忘録的に記しておきたいものもある。いずれ再読しながら書評を書きたいと思っている。
今回は、その備忘録的な内容の1つ。1930年代のナチスドイツ時代に、ルター派の一部が他のプロテスタント教会と統一し、「ドイツ的キリスト者」(Deutsche Chiristen)と呼ばれる運動を展開したことについて。

キリスト教を「非ユダヤ化」する試みで、イエスは当時パレスチナに駐屯していたローマ軍団兵の息子で、ユダヤ人ではなかったとした。イエスのユダヤ教に対する戦闘的な側面を強調し、旧約聖書のすべてを含むユダヤ人が書いた部分を却下、さらにカトリックを根絶し、プロテスタントの統一を図るといった具合。

なぜ今日この話題にしたかというと、期末試験後にホロコーストのパワーポイントを生徒に見せるつもりであるからだ。新たに、この話も挿入したいと思ったのだ。これまでわたしが作ったホロコーストのパワーポイントには、その背景として次のような言葉が出てくる。

「まず、ユダヤ人のシナゴーグや学校にひをつける。それから燃えないものはすべて埋めるか土をかぶせる。こうして石ころ1つ、燃えがら1つ、二度と目に触れないようにする。モーセは申命記13章に、邪教にふける全ての都市は火によって焼き尽くされるであろうと書いている。モーセが今も生きていたら、彼は率先してシナゴーグやユダヤ人の家に火をつけていただろう。」

…これは誰の言葉だろうか、と毎回生徒に問いかけてきた。正解を言った生徒は未だにいない。これは、マルティン・ルターの言なのである。申命記の邪教はオリエント社会の多神教だと見るのが正しいと思われるし、ルターが嫌悪しているのは、イエスを死刑にしたという各福音書の記述ならびに、ユダヤ共同体が社会になじまず独自の存在感を見せていたことが大きかったように推測できる。私は、ルターという人物をそんなに重要視していない。わりと教義的には曖昧な部分は曖昧で、当時の政治状況で持ち上げられた側面と、ドイツ農民戦争での掌返しといった面も感心できない理由の1つだ。

ともあれ、ルター派から、こういったナチスに迎合した宗派が存在した事実は、受験の世界史や倫理では登場しないわけである。もちろん、これに反対した「告白教会」などもあったことも付け加えておく。

2025年11月23日日曜日

WBC 2026考

https://www.mlb.jp/2024/05/24/67920/
最近のYouTube、特にMLB関連の内容は、FA情報などフェイクがかなり多い気がする。確かな情報を得るためには、かなりのリテラシーが必要なようだ。

さて、来年春のWBCが近づいているが、大谷選手・山本選手・ササミローキ選手は出場するのだろうか。また今季MLB入が噂されるスラッガーたちや、カブスの今永投手らメジャー組の動向もよくわからない。しかもTVも地上波放映ではなく、LIVEでは見れないとのこと。(我が家にはTVがないので同じだが…。)

今のところ、判明している事は、ダルビッシュ投手とヌートバー選手は、怪我で出れないらしい。これは実に寂しい。

前回のWBCは痺れる展開だった。当時エンゼルスにあってポストシーズンとは無縁だった大谷選手にとっては、まさにヒリヒリする展開だったと思う。優勝の喜びもひとしおだっただろう。ダルビッシュもイチロー選手同様ベテランとしてチームをまとめあげた。

だが、今回のWBCは、大谷選手らドジャーズ組にとっては、過酷なシーズンを終え、7回戦まで進んだWシリーズで死力を振り絞って戦った後になる。ドジャーズが、出場に慎重になるのも十分理解できる。現状においては、WBCとWシリーズ3連覇を天秤にかければ、自ずと不参加、あるいは大谷選手は打撃のみ、山本・ササミローキ選手にも厳しい登板制限がかかるのではないか。

アメリカは、本気で優勝を狙っているし、他の国も精鋭を揃えてくる。果たしてドジャーズ組とメジャー組のWBC出場はあるのだろうか。