2024年9月30日月曜日

秋田商 野球部 県大会優勝

https://www.aab-tv.co.jp/news/aabnews-24092917070079/
秋田商業高校野球部が、県秋季大会で19年ぶり17回目の優勝を勝ち取った。東北大会で好成績をおさめなかればならないが、春のセンバツに大きく前進したわけだ。実に嬉しい。センバツに来れたら、必ず応援にいきたいと思う。

学園の野球部の方は、残念ながら準決勝で敗退した。とはいえ、強豪ひしめく兵庫県で、ベスト4は素晴らしい。

今夏に悔しい思いをした両校の健闘を改めて寿ぎたいと思う。

2024年9月29日日曜日

石破新総裁で株価急落?

https://buhitter.com/searc
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あまり日本の政治について、自分の意見を述べるつもりはないのだが、いよいよ10月から、明治製薬製のWの接種が始まるし、中国では日本人学校の児童の事件(反日プロパガンダの犠牲であるのに、一切反省もお詫びもない。)、武漢での原潜の事故(日本の世界基準を満たした汚染水をしつこく批判しながら、自国での問題は隠そうとしていたが、米誌の報道で世界的に明らかになった。)と、ストレスが貯まる話が多すぎる。米国の傀儡首相に変わり、新総裁にはWや中国の問題、さらには移民問題に毅然とした態度を取って欲しい人物をと、私は漠然と考えていたのだった。

先日、自民党総裁選が行われ、石破新総裁が生まれた。まあ、論議が全くできない人気だけのK氏、Wの件で嘘八百をつき推進し、多くの人命を奪ったK氏などが落選したことは良しとしたいが、普通、株式市場では、こういう時株価が上がるのだが、平均で2000円ほど下がったらしい。これは、石破が消費税を増税すると言っていたことが最大の要因だったらしく、この円安の状況下でわざわざ総選挙前に言うことではないだろうと、思う。先行きが思いやられる。

まあ、近々噂される総選挙は負けるだろうと思われる。と、いうより、他の総裁選候補でも極めて厳しいだろうと思う。今回の総裁選を見ていても、自民党の議員の質の低下が甚だしいように思う。派閥をなくすという流れの中で、自己の利益(政治献金やポスト)に汲々として、大局で日本の政治を見ているようには決して思えないのである。これは、小選挙区制のデメリット以外の何物でもないと私は思っている。

たしかに中選挙区制は金がかかり、それが金権政治批判を生んだが、少なくとも議員は派閥の中で勉強し、パラノに段階を踏んでポストを得ていった。それが、派閥がなくなり、党中央の采配で小選挙区の公認が取れるかが再選の鍵となる。よって、専制的な言論統制が常となり、何のために政治家になったのか、勉強しても無駄のような退廃したムードが党内にあるのではないか。そんな感想を持ったのである。

過去の自民党の歴史を振り返ると、総理となるような議員は、派閥の長であり議員団を束ねる力量と人望をそなえ、大蔵(財務)や外務大臣、内閣官房などの主要閣僚を経験していた。また党内で幹事長や政務会長を経験していた。よって、前述の人気だけのKを担いだ議員たちは何をもって推薦したのだろうか、と思ってしまう。

政治不信は良いことではない。だが、そうなる要因は、そこかしこにころがっている。

2024年9月28日土曜日

学院の文化祭

学院の文化祭である。多くの3年生に乞われたのもあるが、授業以外の生徒の姿を見れる絶好の機会である。勇んで登校したのだった。3年生の各クラスは模擬店をやっているので、順番に全部回った。血糖値によくないものばかりで閉口したが、それぞれ歓迎してくれた。これが第一のミッションである。(笑)

今回、学院の文化祭でも、いろいろと発見があった。1つ目は、美術部の展示のレベルが高かったこと。実に驚いた。学校長を始め、多くの先生方もこのことをよくご存知で、教えている3年生の意外な生徒が美術展で優秀賞や奨励賞を受けていた。たしかにすばらしい作品群であった。

2つ目は、吹奏楽部のレベルも無茶苦茶高いこと。最初に課題曲が演奏されたが、変調したり、テンポが変わったりとかなりの難曲であった。それを見事に演奏しきっていて驚いた。実に上手い。今秋、福島県で行われる全国大会に出場すると聞いたが、なるほどと思った。

3つ目は、学院というかミッション・スクールでしか見ることができないだろうと思うハンドベル部の演奏が実に良かったこと。音色はもちろん、仕草も美しく、実に上品であった。最初の”風の谷のナウシカ”のテーマ曲で特に素晴らしかった。

4つ目は、軽音楽部の野外ステージ、生徒も頑張っていたが、英数国の3名の先生のバンド「主要三教科」がメチャクチャ上手かったことである。最近の生徒の演る曲は知らない曲ばかりだが、このときばかりはブルーハーツをやってくれたので、実に嬉しかった。(笑)

個人情報保護のこともあり、体育大会に続いて躍動する生徒の画像は出せないので、私の今日の職員室の机上の様子(パンフや模擬店の戦利品などなど…下の方に焼きそばもちょっとだけ写っている。)を置かせてもらうことにした。

2024年9月27日金曜日

哲学史入門Ⅲを通読する

併読は私の常である。先日、「哲学史入門Ⅲ」(斎藤哲也編/NMH出版新書)を購入して、2日間でかなり読み進んだ。この新書は、現象学、分析哲学から現代思想について、専門の先生方にインタヴューした内容が中心である。高校の倫理では、現象学と分析哲学は、かなり重要でありながらも高校生には難解に過ぎるのでお茶を濁しているといってよい。良い資料集でもかなり”上澄み”という観がある。現象学抜きで現代思想は語れないし、現在、英米の哲学の中心は分析哲学になっている。いつまでもそれではいけないと私などは考えている。少なくとも、それ以前の西洋哲学同様、様々な逸話や例を引いて説明できるようになりたい、というわけだ。アフリカ哲学全史も超重要だと思うが、今回併読しているのはそういう理由である。

で、意外なのだが、まず通読していて面白いと感じたのは、現象学や分析哲学ではなく、第3章のフランクフルト学派の哲学である。共通テストでもよく出題されるので、それなりの蓄積があるだが、第一世代で有名なホルクハイマーやアドルノに比べて、資料集でも、ちょこっとしか書かれてない、同じ第一世代のベンヤミンの話なのである。彼は1921年の「宗教としての資本主義」を発表、資本主義の宗教的な構造の特徴を3つ挙げている。

第1:資本主義はひとつの純粋な礼拝宗教で、最も極端である。一切のものが直接的に礼拝と関わることによってのみ意味を持つ。第2:資本主義は、毎日が礼拝である。第3:この礼拝は人々に罪を負わせる。

またこの発想のもと、晩年「パサージュ論」を書いているが、19世紀の首都としてパリを論じ、「地獄の首都」と称している。WWⅠで資本主義は大量の死者を生み出したが、19世紀の首都パリが将来的な地獄へとつながっているとイメージされている。万国博覧会が開催され、ガラスの天井と鉄骨と大理石でつくられたアーケード(=パサージュ)が最先端の遊歩街となり、ショーウィンドゥにはそれまで奥にしまい込まれていた商品が、きらびやかに陳列され、人々の欲望を喚起するような場所が生まれた。美が商品につかえる、この場所こそ、資本主義の礼拝所となったという話である。…なかなか面白い発想と表現ではないか。

この背景には、当然マルクス主義がある。WWⅠ直後、社会主義が高揚しつつも、ヨーロッパでは結局成功しなかった。フランクフルト学派の本拠・社会研究所は、社会主義に傾倒していた資産家の息子が、1923年に親父に金を出させて創設したもので、そもそもが、プロレタリアートが革命主体となりえなかったのはなぜか?階級対立を押し留めた心理的メカニズムはどのように成立したか?などが研究課題だったのである。

…フランクフルト学派は、対ナチスという文脈で語られることが多く、なるほど、と納得したのであった。

2024年9月26日木曜日

衝撃のヒズボラ・ポケベル攻撃

https://www.youtube.com/watch?v=EMsQGvesXZw
イスラエルは、レバノン南部に拠点を置くヒズボラと戦争をするつもりだ。ヒズボラは、テロ組織であると同時に、レバノンの政権与党でもある。

衝撃を受けたのは、ヒズボラ構成員に対し位置情報を知られる恐れのあるスマホの使用を禁じて、その代用にポケベルを配布する方針をモサドが探知、そのポケベルになんらかの仕掛けをしていたようで、先日このポケベルが一斉に爆発、大量の死傷者がでたようだ。

これは恐ろしい。電池が爆発したのか、小型の爆弾が仕掛けられていたのか、不明だが、ハンガリーのペーパーカンパニーも台湾のライセンス供給会社の関係も判明しているが、実際の製造元は未だ不明。もちろん、イスラエルの仕業に間違いないが、毎度のことながら何ら声明をだしていない。

イスラエルは知立国家である。ハッキングなどオテノモノであるが、このポケベル戦術は、その一環であることは間違いない。とんでもない時代になった、とため息をつかざるを得ない。

2024年9月25日水曜日

アフリカヌス・ホートンの哲学

「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第4章のアフリカ人の哲学者列伝第二弾。シオラレオネ生まれのホートンは、1835年解放奴隷の親のもとに生まれた。1845年英国国教会の牧師に見出され、グラマースクールならにびカレッジでで西洋的な教育を受けた。1855年にイギリス戦争局の奨学金を得てロンドン大学で外科医の資格を取り、エディンバラ大学に移り学位論文「アフリカ西海岸の医学的地形」を発表し、この時「アフリカヌス」の名前を付け加えた。その後、イギリス陸軍の将校に任命され、ガーナ、ラゴス(ナイジェリア)、ガンビア、シエラレオネに赴任。軍を退役後は、シオラレオネでビジネスを始め、いくつかの会社を設立、中でも西アフリカ初の西アフリカ商業銀行を設立した。

ホートンの哲学は楽天的で普遍主義的だと言われるが、その理由は彼の人種概念が現代的であるからで、多くのこの時代の黒人哲学者が宗教的な立場から対抗したが、医学者である彼は、人種間の生理的・医学的差異が大きな意味を持っていないことを知っており、科学者の人種差別を直接批判の対象とした。1865年の「イギリス領内西アフリカの政治・経済ーいくつかの植民地の必要条件について」1868年の「西アフリカ諸国とその人々」でヨーロッパの一部の人類学者に反論を展開、西洋人優位の人種概念は何の根拠もないことを問題にしたのである。西洋の急速な発展は、完全に外的状況(=歴史的状況)の影響から生じた差異だと主張した。

文明化は、社会を強力にしていく。アフリカがやるべきことは、教育を強化し、キリスト教を布教し、産業を起こして、豊かになることであり、政治政策として促進すべきだと主張、彼自身、実際に金鉱山の開発に携わっている。

イギリス政府に、カナダやオーストラリアのように、西アフリカ植民地に自治を求め、アフリカ人による国家形成を唱えた最初の近代アフリカ政治思想家で、アフリカ民族主義の創始者の一人であり、「アフリカ政治思想の父」と呼ばれている。彼自身は西アフリカの可能性と発展を信じていたが、結局裏切られたのは歴史が示すとおりである。

…19世紀に、このような思想を展開し、また実践活動に勤しんでいたホートンは実に偉大であると私は思う。現リベリアとシオラレオネの実情は、その痕跡すら見いだせない。ある意味、残酷な話である。

2024年9月24日火曜日

エドワード・ブライデンの哲学

https://web.sekaishi
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「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第4章は、いよいよアフリカ人の哲学者列伝になっていく。まずは、19世紀を代表する、アメリカ系リベリア人(アメリカの元黒人奴隷自由人のために建国されたリベリアに、アメリカから渡ってきた現地人ではない人々:アメリコ・ライベレリアン)である、エドワード・ブライデンの話から始まる。

彼は、イボ人(現ナイジェリアの民族)の両親のもと1832年デンマーク領西インド諸島のセント・トーマス島生まれ。オランダ改革派教会の牧師となったアメリカ人牧師のもとで神学を学んだ。才能を認められ、アメリカの大学で学ぶことを勧められたが、人種を理由に入学を拒否され、1850年リベリアへ移る。

首都モンロビアのアレキサンダー高校に入学、神学、古典、地理、数学、ヘブライ語を学び、その後1858年にその高校の校長になる。同年長老派の牧師として叙階された。また高校生時代から、リベリア・ヘラルド誌の特派員となり、1855年から56年にかけ、編集長にもなった。1861年、リベリア・カレッジのギリシア語とラテン語の教授となり、1880年から84年まで学長を務めた。

彼は、政治家でもあり、外交官でもあった1860年ごろから後のイギリス首相グラッドストンと文通をするようになり、1862年から64年はリベリアの国務長官に任命され、イギリス領・シオラレオネ内地代理人、駐英リベリア大使、さらに内務省長官に任命された。大統領選挙では敗北したが、その後も駐英・駐仏大使を歴任している。

また、シオラレオネは、植民地ではあったが、イギリスのリベリアと言って良いところで、ここでは1901年から6年にムスリム教育に携わる。アメリカに渡り、黒人教会でアフリカの現状について講演もしている。死去したのは、1912年、シオラレオネの首都・フリータウンであった。

彼は、「汎アフリカ主義の父」と呼ばれ、アフリカ人の独自性を初めて明確に主張した人物の1人で、後世に大きな影響を与えている。人種、黒人としての誇り、故郷であるアフリカへの愛がテーマで、人種差別に反対であり、黒人はアフリカに戻り、アフリカの発展に貢献することで人種差別の苦しみから開放されると信じていた。

したがって、アメリカで公民権を得ることを望んでいた人々からは批判された。同様の理由で、ユダヤ人のシオニズム運動を公に支持している。また、アフリカのキリスト教化は、神の深遠なる計画と信じ、エチオピア主義(18世紀後半から19世紀初頭にイギリス植民地出身のアフリカ人の政治的・宗教的体験から生まれたアフリカとアメリカ大陸を結ぶ思想的運動で、植民地化されなかったエチオピア、エジプト以来の歴史の中で宗教的にも大きな位置を占めたエチオピアを黒人の自治能力の証と見る。旧約聖書の詩篇68、31に、「王子達はエジプトからやってきて、エチオピアはやがて神に手を差し伸べる」とある。)と呼応していた。

彼は、キリスト教を信仰し続け、離れることはなかったが、一方で「キリスト教、イスラム教、黒人種」(1887年)では、イスラム教の意義を認めている。イスラム教のほうがよりアフリカ的であり、イスラム教を実践するほうが充実するだろうという考えを述べている。

…私が、ブライデンの伝記や思想を呼んで、最も感じ入ったのは、その経歴もさることながら、この最後の、イスラム教の意義を、カルヴァン派の牧師が認めているところである。おそらくは、19世紀という時代背景もあるだろう。彼は言う、「キリスト教圏のどこにいても、黒人の主な特徴は、よく言われるように従順さではなく、隷属性である。自立した黒人社会はどこにも存在しない。しかし一方で、自立し、生産的で、独立し、支配的である黒人イスラム教徒のコミュニティと国家が数多くあり、アラビアの容認や講演なしに、政治、文学、教会制度をを支えている。」この言をどう捉えるべきなのか、じっくり考えてみたい。