2013年10月31日木曜日

教え子の採用試験突破を祝す

本校の第一・第二体育館
本校に勤務する常勤講師の教え子が府の採用試験を突破したという報告を、今日受けた。非常に優秀な教え子なので、大丈夫だと思っていたが、実に嬉しい。

院で英語教育を研究していたので、府立高校のセルハイ(スーパーイングリッシュハイスクール)のどこかに赴任が決まればいいなあと思っている。面接を前に、自分の研究成果をアピールするよう、私もアドバイスしたのだ。中堅校である本校では英語が苦手な生徒も多い。弱音は聞いたことがないが、苦労していることだろう。だが、そういう経験も重要だ。校内の分掌でもよく仕事をこなしていて、かわいがってもらえている。

周囲を見ると、教師には持って生まれた星のようなものがある。進学校に最初から赴任して、転勤してもまた進学校というふうに受験指導のプロ化していく先生もいれば、困難校を渡り歩く先生もいる。中堅校や商業高校ばかりの人もいる。私などは、商業、工業、進学校、中堅校とバラバラだ。(笑)私には、それなりの意味があると思っている。教え子が、どういう道を歩むかはわからないが、せっかくの英語の専門性が活かせるような道を歩んで欲しいなと思うのだ。

2013年10月30日水曜日

早川千晶さんのアフリカトーク

何度かエントリーしているケニア・ナイロビ在住の早川千晶さんが、11月4日に講演会をおこなうという記事が昨日の毎日新聞の朝刊(大阪版)に載っていた。ハービスプラザ3Fの「旅のセミナールーム」で午後2時から4時まで。道祖神の主催かと思いきや、大阪ユニセフ協会主催だそうだ。参加費500円で定員(50人)があるので、大阪ユニセフ協会に連絡を入れる必要がある。(以下のHP参照)

早川さんのキベラスラムでの教育活動には大いに興味があるし、久しぶりにお顔を拝見しに是非行きたいところだが、どうも体調が思わしくない。今日も分刻みで仕事をしていた。明日は修学旅行付き添い教員の打ち合わせがある。そのための資料づくりと、ハランベープロジェクトの発送準備に追われていた。資料の方は、総42Pの資料となった。これを明日の放課後までに25部ほど用意しなければならない。さすがに学年団の先生方にも協力願うことにした。

今はとにかく修学旅行に向けて体調を整えておくことに最大限努力したいと思っている。疲れたまま指揮をとると判断に狂いが生じることは、これまでの経験で痛いほどわかっているからだ。

と、いうわけで、早川さんとの再会は断念した次第。もし読者で行かれる方があれば是非。

<大阪ユニセフ協会HP 早川千晶さんのアフリカトーク>
http://www.unicef-osaka.jp/act/index.html

2013年10月29日火曜日

アフリカへ古着を送ろう 12

先週、ユニクロの事務局から追加の専用段ボールが到着した。生徒たちが相談して、今日古着の選別とパッキングが行われた。生徒たちが、毎日毎日きれいにたたんでいたし、およそ選別もしていたので、作業は順調に進んだようだ。何人か男子生徒も手伝ってくれて、保管していた倉庫から、我がクラスに運んでくれたし、何着集まったのか確認もしてくれた。

総計753着であった。PTAも大いに協力していただき、難民キャンプの子供たちにとっても、なんかおめでたい数になった。(笑)

喜んで作業に励んでくれたハランベープロジェクトの生徒たちを誇りに思う次第。明日、さっそく段ボールに送付用のシールを貼り、運送業者連絡しようと思う。

2013年10月27日日曜日

「岩倉使節団」を読む。(その後)

木戸のブロマイド
泉三郎氏の「岩倉使節団」は文庫本ながら760Pにも及ぶ。ロシア行を読み終えた後、長らく放置していた。今日のエントリーは、その後について少し書いておきたい。岩倉使節団は、ロシア訪問の後、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスと巡っている。で、マルセイユから往路では完成していなかったスエズ運河を通過し、帰国の途についている。

最初は欧米の技術力に圧倒された使節団だが、途中から欧米に対して批判的な視点で見ているのだが、それが頂点に達する。インド洋からさらにアジアの植民地ベルト(インド、スマトラ、香港、上海)と帰港していくにしたがい、帝国主義の弱肉強食を目の当たりにしていくのだ。この辺、実は岩倉使節団、さらに明治政府にとって、大きな意味があるようだ。

さて、岩倉使節団の留守中には、征韓論などが沸騰していて、政権も江藤新平や大隈重信といった肥前が幅をきかしていた。早めに帰国した大久保は、有馬温泉につかったして岩倉の帰国を待つ。この辺はやはり全身が政治家と言われた男だ。凄い。木戸は病床にあったが、「国家の非常時の時、三条に代えて岩倉を立て、大久保の奮起を促して協力させるべし。」と伊藤に知恵を授ける。伊藤は、大久保と岩倉の間を駆け回り、岩倉は、やがて自宅に押し掛けた西郷、江藤、板垣らを相手に征韓論を打ち砕く。「まろの目玉の黒いうちは、お主らの勝手にはさせませぬぞ!」という咆哮は、西郷をも男の勝負の爽やかな想いにさせたようで「右大臣、よくぞ頑張りもうしたな。」と言ったという。外遊組の結束力が格段に違ったわけだ。

その後の岩倉は「開化風」に吹かれなかった。木戸、大久保、伊藤らの推進する斬新的開化・立憲君主制には懐疑的で、あくまで王政復古の守護神、天皇権力擁護の立場を変えなかった。明治14年の政変では、プロシア憲法を下敷きにした欽定憲法案をよしとし、大隈の急進的な案をつぶすのである。明治15年、伊藤が憲法調査に出発する時、西園寺公望を同行させた。岩倉がこの時点で国家経営のバトンを伊藤に、公家華族の統領を西園寺へと考えていた証だとする説ある。明治16年、死去。臨終を看取った医師は、あえぎながらもしっかりと遺言を語る岩倉を評して「公の全身はただこれ鉄の意思だった」ともらしている。

その後の木戸は、明治6年の政変(征韓論をぶっとばし薩長が再び政権につく。)で大久保政権が誕生したものの体調がすぐれず思うような活動はできなかった。しかし、大久保の専制を抑えれるのは木戸だけで、大阪会議以降、共和的な「漸次国家立憲の政体」樹立を進める。明治10年西南戦争勃発の最中死去。維新前は「開明派」の総帥、欧米視察後は「保守派」となり漸進主義になった木戸は「文明は一朝一夕にはならず」と主張していた。木戸は市井の人々に人気があり。死後ブロマイドが書店で売られたという。

その後の大久保は、西南戦争を圧伏させ、強力なリーダーシップで近代化を推進した。しかし明治11年凶刃に倒れる。透徹したリアリストであり、驚異の粘り強さで政策を実現させた稀有な政治家であり、上からの殖産興業で富国強兵を目指すと言う日本の進路はまさしく大久保の引いた路線である。

その後の伊藤は、岩倉を後ろ盾に大隈と二人三脚で大久保の路線を引き継いだ。明治14年の政変で大隈を退けた後はトップリーダーとなる。明治22年、訪欧して明治憲法制定にこぎつける。岩倉使節団帰国後に、木戸が「日本だけの」大久保が「日本独自の」とそれぞれの意見書に書いた共和制でも君主制でもない憲法であった。伊藤は、仏教や神道は(欧米のキリスト教のような)宗教としての力をもたない。だから「我が国においては機軸とすべきは独り皇室あるのみ。」と述べている。憲法を補う形で「教育勅語」が制定され、「和魂の砦」としたのだった。幕末以来のスローガンだった「和魂洋才」は、これによって始めて社会に具体的な形として根を下ろしたのだった。

このように、岩倉使節団の影響は甚だ大きいわけだ。さっそく日本史研究の授業に活かすことにしたい。

2013年10月26日土曜日

アフリカ向けウィキペディア

ケニアで、一般の携帯電話のショートメッセージ機能を使ったウィキペディアを利用できるサービスが試験的に始まったらしい。パソコンやスマホがなくても、利用できるところがミソである。やがて、このサービスは、ケニアからアフリカ全土に広がり、7000万人に利用されるだろうということだ。

なるほど。なかなかいいサービスだと私は思う。ところで、この7000万人という数字が興味をそそる。現在10億人と言われるアフリカの人々の7%である。人口ピラミッドで見れば、アフリカは子供の数が多いので、5億人はまだ子供だと仮定すると、生産労働力人口の14%。年配者を省いたら少し増えるだろうから20%くらいである。パソコンやスマホを持っている人々には無用なので、実際のところ生産労働人口の4人に1人くらいが利用できることになるというわけだ。かなりアバウトな推論だが、私には免罪符がある。

最近、サブ=サハラ・アフリカ諸国の統計が、かなりいい加減だということが指摘されている。ガーナのGDPが一気に上昇し、中進国レベルになったりしているからだ。まあ、アフリカの正確な統計はかなり難しいということで、おゆるしいただくとして…。

この生産労働人口の4分の1という数値は、スマホなどの高級機種ではなく、プリペはイドの携帯電話使う人々のうち、英語やフランス語、ポルトガル語などの公用語が読める人口と解していいと私は思う。最近はアフリカ3(貧困層)も携帯を利用しているが、公用語が読めるとなれば、このような数値になるのだろう。

ケニアで言えば、スワヒリ語でウィキペディアが表示されるとは思わない。(莫大な翻訳が必要だし利用人口を考えると気の遠くなるような作業となる。)スワヒリ語化しても、どうしても専門用語は英語になる。要するに、この7000万人は、公用語が読めるアフリカ1(高所得者)になる予備軍だといえるわけだ。今、彼らこそがアフリカの消費拡大を担っている。

このサービスが、その価値を失う時、アフリカはさらに開発が進んでいるのだろうと思うのだ。
<アフリカ向けウィキペヂィアのニュース>
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131026/k10015575171000.html

2013年10月25日金曜日

全力少年

放課後に、修学旅行委員のレクリェ-ション係が集まった。18日付ブログで紹介したが、みんなで歌う歌を決めた。なんとかメロンの「粉雪」?など私の知らない曲ばかりが黒板に書かれていく。(笑)で、結局ピタゴラスイッチじゃない、スキマスイッチの「全力少年」という曲に決まった。

どんな曲なのかYouTubeで聞いてみた。
http://www.youtube.com/watch?v=VYVcHpOTXw0

担当のI先生が、歌詞を検索して、「なんか過去の良さを歌っていて、ふさわしいかどうか微妙ですねえ。」と感想を述べていた。うーん、なるほど。でも、生徒がこれでいいと言うのだから、私はいいと思っている。

そう言えば、最近はやっている曲とかは私は全く知らない。昔(20代かなあ。)は、生徒を理解するために、TVの歌番組も見たていたし、少年ジャンプも読んでいたのだが、最近はそういう努力を怠っている。せっかくだから、この曲カラオケで歌えるようにしようかな。

2013年10月24日木曜日

「捨てる」日本料理

詩人 草野心平
今週はひたすら空き時間は修学旅行の書類(しおり)づくりに追われている。根をつめての作業なので、疲れる。今日など1・2時間目集中に集中して、生徒用の行程表を完成させた。その後昼休みをはさんで4時間授業が続いた。さらに放課後も…。老体に鞭打ってというより、自分で寿命をちぢめているのではないかと思ってしまう。だが、私にとっては、何が何でも見やすくて美的な「しおり」にこだわるのだ。B型というか、デザイン科卒の芸術肌というか…。

と、突然話題を変えたい。日本料理が無形文化遺産と認定されるらしい。今朝の日経の「春秋」に詩人草野心平が、「日本料理は捨てる料理である。」と書いているという話が載っていた。なるほど、日本料理の素材を活かす道は、捨てるという過程が不可欠である。

今週は超多忙だったのだが、先日放課後に我がクラスの男子生徒とじっくり対話した。その生徒が急に髪型を変えてきたのである。聞くと中間考査が終わり、以前からあこがれていた髪型にしたのだという。本校は、生活指導がきびしい。当然朝、正門をくぐったら指摘されたという。私が朝のSHRで驚いたぐらいだから当然である。私は、どちらかというと生徒の方に降りて行く方なので、まずはじっくりとその思いを聞いた。で、私はこう言ったのだ。

「人生とは、ある意味で捨てることの連続ではないか。」誰しも希望や夢はある。それを追い求めることは当然だ。だが、すべてがかなうわけではない。ひとつひとつ価値の低い希望や夢を捨てていく。そして捨てられないものだけが残る。これがその人間のアイデンティティだと私は考えている。髪型というものが、彼にとってどれくらい重要なものなのか、私には推し量れない。だが、「今の自分をじっと見つめてみて、どうしても捨てられないのなら、それは仕方がない。だが、もっと重要なことがあるというのなら、捨てられるのなら捨ててしまうべきだ。」と私は言ったのだ。

翌日、彼は髪を切ったわけではないものの、ぐっとおとなしい髪型にしてきた。そこまでは捨てれたのだろう。日本では集団の中で、こういう経験が人間を作って行く。

日本料理も、そういう集団の中での長い伝統がつくったような気がするのだ。「捨てる」ということ。それはある意味、その素材を極めるために必要な、日本の「無形のカタチ」かもしれない。そして捨てられず残るものは、美しい。日本の「有形のカタチ」だと思う。