2015年9月30日水曜日

毎日 「水説」 SDGs

http://www.unic.or.jp/activities/economic_social_d
evelopment/sustainable_development/2030agenda/
毎日新聞の今日の朝刊「水説」(中村秀明論説委員)は、「世界の変革に加わる」と題して、昨日私がエントリーしたSDGs(持続可能な開発目標)について述べられていた。MDGsが途上国の開発を中心課題としていたのに対し、今回のSDGsの本質は、「先進国の責任は非常に重い。そこに暮らす人はできることだけではなく、どんな犠牲を払えるかを考えなくてはいけない。」という環境平和学が専門の鳥飼行博東海大学教授のコトバに尽きるかと思う。

またこのコラムの中で、ホーキング博士と、世界の若者が呼びかけるSDGsのYouTubeが紹介されていた。早速見てみた。2つともなかなか素晴らしい。これは…生徒に是非見せたいと思った次第。

<ホーキング グローバル ゴールズ>
https://www.youtube.com/watch?v=w6vvaa4vEv4
<We the oeople グローバル ゴールズ>
https://www.youtube.com/watch?v=jV5f7YZJFQg

2015年9月29日火曜日

SDGs(持続可能な開発目標)

いよいよ、国連で、ポストMDGs(ミレニアム開発目標)としてSDGs(持続可能な開発目標)が話題にのぼりだした。MDGsの成果を踏まえ、グローバリゼーションの進展の中、17の目標が設定されている。以下は、IGESによる仮訳である。ところどころカタカナで示されているところは、いずれ政府が統一的な和訳を提供することになると思われる。

1.あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる。
2.飢餓を終わらせ、食糧安全保障および栄養改善を実現し、持続可能な農業を促進する。
3.あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する。
4.全ての人々への包括的かつ公平な質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する。
5.ジェンダー平等を達成し、全ての女性および女子のエンパワーメントを行う。
6.すべての人々の水と衛生の利用可能性と持続可能な管理を確保する。
7.すべての人々の、安価かつ信頼できる持続可能な現代的エネルギーへのアクセスを確保する。
8.法粥的かつ持続可能な経済成長、およびすべての人々の完全かつ生産的な雇用とディーセント・ワーク(適切な雇用)を促進する。
9.レジリエントなインフラ構築、包括的かつ持続可能な産業化の促進、およびイノベーションの拡大を図る。
10.各国内および各国間の不平等を是正する。
11.包括的で安全かつレジリエントで持続可能な都市および人間居住を実現する。
12.持続可能な生産消費形態を確保する。
13.気候変動およびその影響を軽減するための緊急対策を講じる。
14.持続可能な開発のために海洋資源を保全し、持続的に利用する。
15.陸域生態系の保護・回復・持続可能な利用の推進、森林の持続可能な管理、砂漠化への対処、ならびに土地の劣化の阻止・防止および生物多様性の損失の阻止を促進する。
16.持続可能な開発のための平和で包括的な社会の促進、すべての人々への司法へのアクセス提供、およびあらゆるレベルにおいて効果的で説明責任のある包括的な制度の構築を図る。
17.持続可能な開発のために実施手段を強化し、グローバル・パートナーシップを活性化する。

…あえて、WEBをコピーせず、コツコツと打ち込んでみた。MDGsと対比してみると、一気に開発途上国の貧困撲滅から、まさに地球規模の持続可能な開発へと発展したような感想をもつ次第。

http://www.csonj.org/mdgsnews/sustainable-development-goals-draft

2015年9月28日月曜日

ロシアに消えたサーカス芸人

ちょっと変わった内容の文庫本を読み終えた。「明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか」(大島幹雄著 新潮文庫/本年9月1日発行)である。私は、サーカスに別に興味を持っていない。と、いうより国内公演に行ったことがない。北京で修学旅行の付き添いで雑技団を2回見たことがあるくらいである。だから、あまりイメージが膨らまないままに読み進んだのだが、明治時代に、日露のサーカス団の交流があり、日露戦争やWWⅠ、さらにロシア革命、スターリンの粛清などに巻き込まれた日本人を追いかける話である。

このサーカスの人々は、もちろん多くは戦争などの時日本に帰国しているのだが、そのままロシア・ソ連に残った人々もいる。特に悲惨なのはスターリン時代の話だ。日本人である、というだけでスパイ容疑をかけられ銃殺されている人もいる。後に息子の努力で名誉回復するのだが、佐藤優の解説を読んでいると、フルシチョフのスターリン批判があって、粛清裁判で処刑された人々の名誉回復の申請が行われ、積極的に受理された。その中で、この申請も受理され名誉回復が行われるのだが1966年のことである。この時はすでにブレジネフやコスイギンによるソフト・スターリン主義に変更されつつあったので、当時の裁判官はかなりリスクを負っていたはずだ、と。ロシアのエリートの正義感と歴史に対する責任感、良心を貫こうとする姿勢が読み取れるという。

このところ、偶然なのかか、シベリア抑留関係やイルクーツク・バイカル湖などのTV番組を見る。抑留者は、常に友人を監視し、告発することで生き延びることを余儀なくされた。スターリン時代というのは、いかに非人間的であることか。この書を読んで、改めて認識した次第。

この本の中で、紹介されている「究極のバランス」を記録した映像がYouTubeにある。昔の映像なので見にくいが、凄い演技である。彼らこそ、「芸人」であると、思う。
https://www.youtube.com/watch?v=1_tcDMaHnAs

2015年9月27日日曜日

S先生の米寿を祝う同窓会

同窓会の会場 JR桃谷駅前
私の小学校時代は4組まであった。そのうち3組の担任の先生方がご出席いただいて小学校の同窓会があった。今回は、特に、S先生がめでたくも米寿を迎えられての同窓会である。S先生には4年生の時担任をしていただいた。とにかく怖い先生で、悪さをすると、漢字練習帳を何ページやってこい、という感じで特別な宿題を出された。またS先生は、長い間布団ではなく、板の上で就寝されていた。まさに臥薪嘗胆。常に自分に厳しく、生徒いや児童にも厳しかった。そんなS先生も、長年の闘病をされていて、今回の同窓会に出席する為に、かなり養生されておられたと幹事に聞いた。奈良のお住まいから、近隣の同窓生が車でお出迎えしての出席である。こういう会を開けたことの幸せを思うのだ。幹事やS先生の送迎をしてくれた友人に感謝である。

我が5・6年の担任のN先生は、新卒で、私たちが初の卒業生だった。だから比較的お若い。今も大阪市の「いきいき」という小学校で放課後の児童のお世話をしておられる。S先生と、今回はあまりお話できなかったのが、ちょっと後悔。とはいえ、来年古希を迎えられるので、また1組だけで集まろうという話ができていた。だから、米寿のS先生に、現状をご報告するだけにしたのだった。S先生には、多少なりとも喜んでいただけたと思う。

よくよく考えてみれば、S先生のオーラというか、威厳は何だろう。当時は、逆算してみると、およそ50歳前である。私ははるかにS先生の年齢を超えてしまった。50歳前で、あのような凛とした厳しさがあったのかなあ、などと考えてしまうのであった。

2015年9月26日土曜日

司馬遼、山崎氏と明治天皇を語る

明治天皇、東京へ「行幸」の図 これが「遷都」ということになっている。
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1775400.html
ちくま文庫の「明治国家のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)のエントリーをさらに続けたい。劇作家の山崎正和氏との明治天皇についての対談が面白かった。

江戸期のの皇室について、「天皇の教養が痩せてきた。」宝暦事件の話が出てくる。桃園天皇の時代に竹内式部という学者が国学と武道を天皇に教えて弾圧された事件である。こういうイデオロギー的な教育が入り込む余地があったこと自体、室町時代の頃から見れば考えられない。それくらい文化の流入がなかったし、幕末の孝明天皇は、公家さえ遠ざけられていた。近衛が、天皇が酢のような酒を飲んでいるのを偶然知って自分の領地の伊丹から剣菱を献上した。「酒というものはこんなにうまいものか。」と言われたという。それくらい閉鎖された環境に天皇はあったわけだ。だから、ペリー来航の際、絵師の書いた牛のような図を見て、ヒステリックに攘夷を叫ばれたらしい。

ところが、日本人には古来京都への潜在的求心性みたいなものがあって、源平争乱時代になってから、武士の氏性が「源平藤橘」のうちのどれかということになってしまう。ほとんどインチキなのだが、みんな(豊臣家以外は)天皇の血統に入ってしまう。なんとなく、日本人は京都が日本の持ち主であることを知っていたんではないか。江戸時代、日光例幣使という公家の勅使が毎年参詣に行っていたが、宿場で使った残り湯は病気に効くという信仰があった。公家の法主をいただく本願寺派の多い北陸などは、維新後の天皇巡幸で大いに盛り上がったという。

明治6年、政府は(世界に普遍的な)太陽暦を採用する。五節句を廃して同時に紀元節と天長節を制定する。本来天皇は太陰暦・五節句の精神に繋がるのだが、近代国家になりたいがための象徴的な事件となった。しかし、日本皇室の万世一系を証明する記念日も同時に制定することになった。

台湾出兵の際、在外公使館から横槍が入る。これに西郷従道は「おいどんは勅諭をもっている。」と言って出発してしまう。この台湾出兵を、太政官の参議でない(長州の木戸が、政治を軍事に先行させる鉄則を守ったらしい。)がゆえに事前に聞かされていなかった陸軍卿・山県有朋が大久保に食ってかかる。これに大久保は、「言うことをきかんとか何とかいうが、いざとなれば天皇の命令一下でまとまるんだ。」と言い放つ。つまり、それまで天皇は軍隊に作動していなかったのである。
西郷隆盛も、陸軍大将で近衛都督で参議、つまり天皇の直参のような立場ながら、征韓論で下野する際、天皇に挨拶もなく鹿児島に戻ってしまった。西郷にとって観念の上では天皇は君主だったが、生活体験上は、島津家が君主だった。これが明治6年。軍隊が天皇を無視しているといえる。これに先ほどの大久保の一言が明治7年。山縣は、この大久保の言を後に統帥権に活かすことになる。この辺が天皇制国家の成立といっていいような気がする、とのこと。

ところで、大久保が暗殺されなかったら、山縣のような精神のいじけた天皇制国家をつくるようなことはなかっただろう、というのが両者の共通意見。統帥権山縣が生きている間は自身が官僚の親玉であり、軍の最高責任者だったからいい意味で作動し得たが、彼が死ぬと抑えていた穴ボコからヘンなものが出てくて独立していった。大久保なら、もっと普遍的な国家システムをつくっただろうというわけだ。

最後に、明治天皇は、時代のムードをつくったという話。あの空の抜けるような青さに似た時代感覚は天皇の人柄と無縁のものではない。人間として面白い人だったと司馬遼は言う。明治天皇の好きな人(山岡鉄舟や西郷隆盛、乃木希典など)は男性的である。しかもなかなかのユーモリストであった。英国帰りの蜂須賀侯爵が宮中に伺候した時、天皇の現れる前に菊の御紋の入ったタバコを数本ポケットに失敬した。これに気づいた天皇は「さすがは蜂須賀小六の子孫じゃのう。」といわれたという。(太閤記に小六が泥棒として出てくる:そういう下世話な本まで読んでおられたというわけだ。)またなかなか思いやりもある天皇だった。演習で田原坂を訪れた際に、「もののふの攻め戦ひし田原坂 松も老木となりにけるかな。」と詠み、侍従に「乃木に渡しておけ」と言われたという。(乃木は軍旗を奪われたことを苦にしている、これで慰めてやれということ。)明治天皇は宮中の生まれではあるけれど、人間の世の中に通じていた。こういう雰囲気というものが時代を覆っていた、と。

…明治天皇は、(欧州の皇帝とは異なり)あまり自分で事を決める、ということはされなかった。唯一決めた事例は、日露戦争で多くの兵を殺してしまい、自刃しそうだった乃木を「学習院院長」にしたことだと言われている。乃木が天皇崩御に際して、殉死したのは、まさに「士は士を知る者のために死す。」であるわけだ。私は個人的にこういう義的な話は好きだ。

2015年9月25日金曜日

司馬史観は「写生」の無さを嘆く

日比谷焼き討ち事件
http://rikukaigun.tuzikaze.com/meiji
-taisyou-syouwa-daiemaki..m29-m45.html
ちくま文庫の「明治国家のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)のエントリーを続けたい。司馬史観について、少しだけ記しておきたい。

かつて司馬遼は、昭和20年の初夏、関東平野を守るべく栃木の戦車隊にいた。ここに大本営の少佐参謀が来たそうだ。連隊の将校が、「我々は、水際で撃滅する任務をもっているが、東京から避難民が北上してくることが予想される。停滞して立ち往生してしまうと思われるが、どうすればよいか。」と聞いた。参謀はごく当たり前の表情で「轢き殺していく。」と答えた。この時、司馬遼は、「長州藩から引き継いだ遺伝因子」を思わざるを得なかったという。

その直後、厚木方面で演習というより実験があった。大本営は、この地域は深田、泥田で、戦車は走行不可能ということで無防備とすることに決めていた。南方方面からの報告では米軍の戦車はこのような土地でもやってくるというので、自軍の戦車で確認しようとしたのだ。土ダワラを敷いてみたら楽々通れた。鉄板を敷いたらこれも楽々。最後はそのまま泥田に入ったが通れた。なんという無計画さ。司馬遼は、この時も長州藩の遺伝因子を強く感じたという。

長州藩の無計画な暴走ぶり、目的のためには盲蛇になってしまうおそれるべき精神構造が長州藩の遺伝因子である。この暴走が奇跡的に成功した。(司馬遼は、この暴走の功罪を論じているのではなく、巨視的に取り上げているとことわっている。)その長州が明治陸軍をつくった。濃厚にその「やれば何とかなる」の体質を遺伝させたのだ。ところで大正・昭和の軍部の主導権を握っていた人には、東北人が多い。戊辰戦争で「賊軍」にされた藩から多くの軍人が出ている。彼らは西国諸藩出身者以上に「勤王屋」になり、陸軍の「長州的暴走性」の上に狂信性を加えた。「轢き殺して進め。」と言った参謀は、「天皇陛下のためだからやむをえない。」と付け加えたという。

…司馬史観は、個人的な経験にも基づいているわけだ。昨日エントリーした子規の「写生」とは、全く反対の「概念」で動く日本人。司馬史観には、この思いが貫かれている。

司馬遼は、ポーツマス講和条約後の「群衆」についてもこう述べている。江戸期の一揆は、飢えとか重税とか、形而下的なものであったが、明治38年の日比谷焼き討ち事件は国家的利己主義という多分に「観念的」なもので大興奮した。政府も新聞に真の(日露戦争のもしロシア陸軍が戦闘を再開したら負けてもおかしくない)事情をわずかしか渡さなかった。無知だったのであるが、真実を知ろうとするより大衆と激情を共有するほうが、錯覚に理性を委ねることのほうが甘美だったのである。司馬遼は、この理不尽で、滑稽で、憎むべき熱気の中から、その後の日本の押し込み強盗のような帝国主義がまるまるとした赤ん坊のように誕生したと考えている。この熱気は形を変えて教育の場の思想になった。つかのまの大正デモクラシーの時代ですら、江戸期の優れた思想家たち(荻生徂徠、三浦梅園らを司馬遼は挙げている。)については一語も語られることなく、むしろ南北朝時代の典型的な中世の情念が楠木正成などの名を借用することで柔らかい頭に注ぎ込まれた。大正期以後、熱気は左翼と右翼にわかれた。根は1つだった。(すなわち、「写生」ではなく「概念」から、感情的物語がつくられているということだと私は思う。)昭和前期を主導した軍人たちは、そういう教育を受けた擬似中世人たちで、先人である明治期の大山巌や児玉源太郎たちから見れば、似つかぬ古怪な存在になっていた。

…この司馬史観、かなりの批判があるが、私は批判があることを念頭においた上で、よく理解できるところである。

西郷の無私を形成した方法

ちくま文庫の「明治国家のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)のエントリーを続けたい。本日はオムニバス的な備忘録としてのエントリーである。そうそう、ちなみに今日は先日(土曜日)の文化祭の代休である。

江戸幕府というのは大名同盟で、抜きん出た大名である徳川将軍家が盟主である実を失った時は、いつでも野党の大名で盟主としての実力を持つ者が取って代わってもよい、という暗黙のルールがあった。薩長の反逆は、忠義・不忠義という倫理問題ではない。幕府は力の上に成り立っていた。「幕府というのは、シツケ糸一本を抜くだけで解体するようにできていたのだ。」とは勝海舟の言葉である。うますぎる発言であるが、多分に真実性がある。

薩摩武士社会の郷中頭(や他の地域の若衆頭)というのは、教育権を代表しているという点で、体制的秩序と同格である。祭礼や海難救助や山火事などの非常時においては、若衆組の受け持ちだけに、首長は彼らの方針や処置方法にただ頷いて聴くというだけにすぎない。この習俗は、例としてはちょっと強引すぎるかもしれないが、大学紛争時、極度に学生側に社会が味方したり、会社の若衆組としての労働組合、旧軍の青年将校の跋扈などにイメージが重なる。他の中国やヨーロッパでは見られない。

西郷は、18歳で下級武士ばかりの下鍛冶屋町の郷中頭になった。普通20歳くらいで退隠するのだが、若者たちにひきとめられ、24歳まで務めた。薩摩にはオセシンという言葉があり、慣習の中で強い権威をもっている。(他藩にはそういう同藩の士を極度に尊敬するという風習はない。)オセシンは藩の役職ではなく、郷中の暮らしの中にある。この消息や機微は一種老荘的でさえある。「オセンシが言われた。」となれば、事情はわからなくてもともかく銃をとって戦場に行くというもので、西南戦争は薩摩しか、起こらず、起こらないといえる。

西郷は、この郷中頭として推される中で、自己の非力を思ったに違いない。無私になればよいと思った形跡はたしかにある。人間は生物である以上欲望で生命が成立している。無私であるなど不可能というに近いが、その生命に充満している欲望を圧縮して全体の2・3%でも真空をつくれば数万数億の人をも容れることができる、ということに西郷は気づいたかと思われる。智謀の士も胆勇の士も幾万という兵士も、この2・3%の真空の中に吸引できるとすれば、自ら智謀をもち腕力をもつ必要はない。そういうことを西郷は思ったに違いない。だから、西郷は、弟の従道や大山巌に判断させ、それを採用し、幕末の革命家として行動した。

従道は自分を大きく見せたいという人ではないが、「兄が幕末であれほど働いたのは私たちがいたからだ。」と言った。この言葉は真実だろう。と、同時に維新後、従道から見れば信じがたいほどの阿呆である桐野利秋や賢愚定かでない篠原国幹らにかつがれ、西南戦争を起こしたという恨みが込められているわけだ。

…この司馬遼の「薩摩の郷中組という視点」の重要性という主張は、「翔ぶが如く」に何度か書かれていたと思う。ただ、オセシンという言葉や西郷の無私の方法、従道の言葉などは、(だいぶ前に読んだので)記憶にない。改めて、記憶しておきたい話だ。