2025年10月3日金曜日

新約聖書 四福音書の構造

https://booklog.jp/item/1/4003380312
岩波文庫の『福音書』(塚本虎二訳)を手にとって出勤した。読破しようとしたわけではなく、最後の方の解説を読んでいた。(どうも福音書は、異教徒には実に読みづらいのである。)本日のエントリーは、四福音書の構造について。

まずこの書は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという新約聖書の順ではなく、最も古いマルコの福音書から始まっている。異教徒としては、納得なのだが、AIでなぜマルコの福音書が最初に置かれているのかを調べてみると、1:新旧の聖書をつなぐ役割/イエスの系図から始まり、両者の橋渡しとして適切だったこと。2:初期キリスト教会での重要性/山上の垂訓など体系的にまとめられていること・伝統的には最初の福音書だと思われていたこと。3:歴史的背景/ユダヤ人を読者として書かれており、当時最も有為とされていたこと。ということらしい。

ところで、四福音書のうち、マタイ・マルコ・ルカは共観福音書と呼ばれている。この三福音書は非常に似たところと相違するところがある。マタイ(似た箇所75相違25)マルコ(似た箇所95相違5)ルカ(似た箇所57相違42)という数値が示されている。本書では、それらが詳細に示されているが、構造としては、最も古いマルコの資料(=M資料)と、マタイとルカに共通する(=Q資料/ドイツ語の資料Quelleから)が存在し、各福音書の特種(とくだね:普通、特別資料S/Sonderdut)が付随する。
よって、マルコ=M+Sa、マタイ=M+Q+Sb、ルカ=M+Q+Scという構造になっている。

…まあ、これだけで十分な学びだが、物的で歴史的事実を記した共観福音書に対し、ヨハネ福音書は、霊的であり神学的要素が強いのである。少し、ヨハネ福音書を読んでみたが、たしかに…と思った次第。

2025年10月2日木曜日

祝 レッズに2連勝のドジャーズ

https://news.yahoo.co.jp/articles/58d054f79f19b8
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いよいよ大谷選手の言うヒリヒリするような短期決戦、ポストシーズンが始まった。昨日の第一戦は、大谷選手の先頭打者HR、さらにもう一発、大親友のテオヘルも2発、エドマンも続いてHR攻勢で、スネル投手の好投を助けた。だが、懸念されたブルペン陣の不調がやはりあって、一時はどうなるかという試合だった。トライネン投手が9回に登場すると、ハムショー氏のチャットに、アカンネン、マケンネン、ヤバイネンなどという投稿が殺到し、チャットが止まってしまったと妻が言っていた。(笑)とはいえ、なんとか抑えてくれた。…ホント、野球は退屈ではない。しかも大谷選手のHRボールを得たファンへの神対応、さらに60すぎの日系ファンが清掃している姿にベッツ選手が反応、大谷選手に知らせると、すぐに駆けつけ神対応。日本人として、まさに誇りに思う。

今日の第二戦は、山本投手が、自責点0の好投を見せた。HR攻勢ではなく、ベッツ選手の大活躍もあって得点を積み重ねた。しかし、先発陣のシーハン投手がリリーフしたが乱調で、またヒヤヒヤする局面に。最後は佐々木投手が2三振を奪う見事なセーブで連勝したのだった。…今日も、またまたドジャーズの野球は退屈ではない。

これで、次はフィリーズとの対戦となる。第一戦の先発は大谷投手らしい。これまた楽しみである。カーショー投手も戻って来るのではないだろうか。次に活躍するのは、フリーマン選手かマンシー選手か?はたまた10月男のキケ選手かも…。

2025年10月1日水曜日

月刊言語の編集後記を読む。

『月刊言語』の2003年12月号、旧約聖書の世界という特集から、印象に残った記述のエントリー第7回目、最終回。本日は、意外に面白かった(豊)氏の編集後記についてのエントリー。

「二人の娘に、アンナとサラというヘブライ語起源の名前をつけたから、ときどきクリスチャンですかと聞かれるが、いたって不信心な生活を送っている。若い頃にドイツ文学を専攻していたころの酔狂でつけた名前で、ローマ字で書いてもドイツ語になる名前を考えたら、たまたまヘブライ語起源の名前になっただけだ。▶西欧文学を専攻したくらいなら旧約聖書は読んでいて当然だろうが、実はちゃんと読んだことがなかった。今回の企画で時間の許す限り初めて繙(ひもと)いた。読んでみて、改めてこの浩瀚(こうかん:分量が多いこと)な書物が西欧文学に与えた影響の大きさを思い知った。▶創世記24章、アブラハムが息子イサクの嫁探しに家の者を派遣する件、泉に水を汲みに来る娘の素行で嫁の品定めをするところを読んで、卒論で扱ったゲーテの『ヘルマンとドロテーア』の一節に近似していることに気づき、思わず20年前に読んだ原書をひっぱり出してきて、我を忘れて読みふけった。▶若いころは、こんなにコンサバ(コンサバティヴ:伝統的な/保守的な)な作品を卒論に扱ったことを恥じたものだが、中年になった今、もはや羞恥もなく、しばし至福の体験であった。」

…私は、当然この『ヘルマンとドロテーア』を読んだこともないし、初めて知った。ゲーテといえば、『ファウスト』や『若きウェルテルの悩み』とくるのだが、この『ヘルマンとドロテーア』は、ドイツ本国では最も有名かつ読まれた作品らしい。(たしかにコンサバである。)少し調べてみた。題材は、新教徒故にフランスを追われた女性・ドロテーアとドイツの純朴な青年ヘルマンの話なのだが、フランス革命時に置き換えられている恋愛叙事詩であるらしい。

…有名な映画・「エデンの東」がカインとアベルの物語をモチーフしていることを先日(本年9月4日)エントリーしたが、AIで旧約聖書の内容が影響を与えた文学や映画は何か?と検索してみると「失楽園」や「カラマーゾフの兄弟」などが挙がってきた。おそらく、もっともっとあると思われる。

…ところで、ゲーテは、ドイツでは”グェーテ”と発音される。南ア・ジンバブエ行の帰路、フランクフルトで時間あったので短時間の観光ツアーに参加した際、たくさんの人が集まっているところを指さして、ガイド兼運転手に”グェーテの生家だよ”と言われた(もちろん英語)のだが、後でゲーテのことだと知ったことを思い出したのであった。

…とにかく、この(豊)氏の編集後記、実に俊逸だと思うのだが…。

2025年9月30日火曜日

旧約聖書のトリビア知識6

https://www.islamreligion.com/jp/articles/332
『月刊言語』の2003年12月号、旧約聖書の世界という特集から、印象に残った記述のエントリー第6回目。本日は、選民思想の展開について。

ユダヤ教の「選民思想」とは、選ばれた民であるとともに、選んだ民であるという記述に驚いた。言うまでもなく、選ばれた民は、創世記のアブラハムの召命や出エジプト記で明確であり、申命記4章35節で「主こそ神であり、他に神はいない」という唯一神の認識が明示されている。これが、唯一神の教えと意思に従うことを促し、ユダヤ人のアイデンティティーの礎となったわけである。

第二神殿末期より、ラビ・ユダヤ教が台頭し、口伝律法における再編が行われる。民数記の聖書解釈などを中心に、「選んだ民」としての主張がなされていく。要するに、タルムードにそういう主張が記されているわけだ。特にディアスポラの中で、書かれた律法である成文トーラー(=モーセ五書)の”選ばれた民”と口伝律法の”選んだ民”からなる「書物の民」として活路を見出すのである。(ユダヤ教の宗教思想/勝又悦子)

…この二重の選民思想の存在も初めて知った。タルムード(画像参照)の内容の詳細については、さすがに私も不勉強である。まあ、高校倫理の教師としては、そこまで専門性は問われないとは思うのだが、興味は尽きない。

2025年9月29日月曜日

メッツ敗れ、レッズと対戦

https://mlbtours.jp/?p=112312771
ドジャーズのポストシーズン、最初の相手はシンシナティ・レッズになった。両者とも今日敗れたのだが、かのファン・ソトのいるメッツではなく、ギリギリ対戦成績で優位だったレッズとなった。

なにかと大谷選手に対して不愉快な発言をするソト選手は日本人を完全に敵に回している。あれだけの大金をもらいながらポストシーズンに出れなかったのは、実に愉快だと思っている日本人は多いのではないか。私もその一人であるのだが…。

2025年9月28日日曜日

旧約聖書のトリビア知識5

https://popehistory.com/marcion/
『月刊言語』の2003年12月号、旧約聖書の世界という特集から、印象に残った記述のエントリー第5回目。前述の加藤隆氏の『新約聖書にとっての旧約聖書』から。

キリスト教は、ユダヤ教を全面的に否定したのではなく、受け入るべきものは受け入れた。キリスト教の聖書の成立過程について段階的に述べられている。実に有為な解説であると思う。

1:律法を否定する段階 イエスは「神の支配」という原則を打ち出した。当時のユダヤ教は、「神殿と律法の支配」となっていた故に、イエスは基本的に律法を否定した。”律法に決められているから正しい。”という律法主義的な議論を基本的に認めなかった。律法に依拠した議論が新約にも見られるが、この姿勢を変えていないし、神の支配を語るために、”たとえ話”を多用している。また律法の規定や字句ではなく、その意味や精神について議論している。

2:ユダヤ教の聖書をそれなりに価値あるものとして用いる段階 しかしながら、イエスの死後、初期キリスト教では、伝導の主な対象はユダヤ教徒であるが故に律法の様々な箇所を利用された。ユダヤ教の主流との対立を避けるためであり、また実際的に有効だったからである。

3:キリスト教の側である程度以上のまとまった文書が作成されるようになった段階 最初の権威ある文書・マルコ福音書は、「書かれた律法」(前述のモーセ五書など)を重んじるユダヤ教のグループから生じたと考えられる。故に、マルコ福音書は書かれた律法の権威を認めるものであったし、当時キリスト教の主流であったイエスの教えや振る舞いについての口伝の情報に権威を認めてしまうと、「神の支配」の前に介入する「有力な指導者たちの支配」が生じる。ゆえに「書かれたもの」の権威が口伝に対置されたといえる。

4:ユダヤ教の聖書がキリスト教徒側でも、ユダヤ教においてと同様に権威あるものとして用いられ、またキリスト教独自の文書と同じように権威あるものとする態度が生じてくる段階 1世紀の末になるとギリシア語圏のキリスト教徒の間で、マルコ以外の福音書やパウロの書簡などが次第に権威をもつようになる。キリスト教の分離独立した際、ユダヤ教の律法を全面的に否定するかどうかという問題が生じた。ユダヤ教の口伝律法(25日付ブログ参照)など細部まで尊重する理由のないキリスト教徒は、「書かれた律法」だけが権威あるものとされるようになる。

5:マルキオンの聖書の成立 2世紀のキリスト教には、旧約聖書も含めて、ユダヤ教の律法の全体を否定しようとする流れも存在した。ルカ福音書とパウロ書簡だけをキリスト教の聖書としたマルキオン派はその代表的立場である。

6:旧約聖書・新約聖書がキリスト教の聖書として確定する段階 旧約聖書のすべてがキリスト教にとって有用ではなかったが、”有用な文書だけを抜粋した文書集”などにを権威あるものとはできず、故にすべてを権威あるものとして認めざるを得なかった。

…3のマルコ福音書については、イスラム教のクルアーンとの関係性が認められることを、24年6月24日付の「コーランの中のキリスト教」でエントリーした。律法を重視するキリスト教徒とムハンマドの関係性の話である。

…5のマルキオン(上記画像参照)について調べてみた。正典という概念を生み出した人で、異端とされたのだが、イエスをユダヤ教のメシア(=政治的指導者)ではなく、神によって派遣された存在で人間性や処女懐胎を否定した。さらに旧約の神とイエスの示した神は違うこと、よって旧約聖書は必要がないと主張した。実に興味深い人物である。

2025年9月27日土曜日

学院の文化祭 2025

https://www.osaka-shinai.ac.jp/blog/gakuin/detail/123
学院の文化祭に行ってきた。今年も3年生全クラスを教えているので、7つの模擬店を回ることになった。皆一応に喜んでくれたので嬉しい。今年は特に血糖値が上がるようなものが多くて、料金はそのままに、量を少なめにしてもらった。(笑)

軽音部や吹奏楽、美術部、華道部、茶道部にも寄らせてもらった。普段は大人しく授業を聞いてくれている生徒が皆活躍しているのを見ると嬉しくなる。理系の生徒が、昆虫標本を展示していて、小学生が標本づくりに興味津々だったのが印象に残ったのだった。

今春卒業したOB・OGにもたくさん会えた。これもまた嬉しいものだ。

今回も写真をたくさん撮ったのだが、個人情報の問題も有るので、学院のブログから2022年度文化祭のトップページを使わせてもらった。今年の風景はさらに人が多い感じである。