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まず、「規律権力」近代国家は、国家は一体であるという「幻想」を人々に与えるために、規律的な近代教育を利用した。近代国家は、暴力装置としての国家という古い形態から、文化全体が人間の主体を無意識に支配に従属させるような新しい支配システムと変化し、文化的な「見えない権力」による支配という像を描き出した。この像は、大きな影響を与えた。
しかし、近代市民国家は、前述の「自由の相互承認」の原則によって、徐々に時間をかけ人々の自由と福祉を実現してきた。ビスマルク以来の福祉政策、さらに普通選挙法、労働法など、歴史を見れば明確であると。フーコーは近代社会の暗黒面を慎重にピックアップし、それを詳細なデータで、近代社会を抑圧の歴史として描いたが、事実は完全に逆だと竹田氏は断言する。「見えない権力」という言い方も、実体としては存在せず、全くの表象、あるいは比喩でしかない。
近代社会では、命令に従わせる力は、実力ではなく、誰が上位の権限者になるかの「権限を与えるゲーム」であり、この権限のゲームを構成している多くのルールの束である。(選挙制度や株主総会などが謙虚な例として挙げられる。)
近代国家では、権力の独占と不当な権力が問題なのであって、権力という制度が問題なのではない。本当に権力を取り払ったら強い者勝ちの社会が残るだけであり、フーコーは、この権力の独占や不当な権力を「見えない権力」によって支配されているという「物語=表象」によって表現しているに過ぎない、というわけだ。
…たしかにフーコーの哲学の視点は実に興味深い。批判していることにも納得できるのだが、竹田・苫野両氏は、あくまで原理学としての哲学という立場から批判しているのである。見えない権力が、新たな抑圧の物語をつくっている…だから、どうすればいいのか?フーコーを始めとしたポストモダンには、そういう回答がなされていない、というわけだ。ドゥルーズやデリダも、たしかに明確な回答をもっているとはいいがたい。
追記:レッズとの三連戦、スイープで終わった。大谷投手が9三振を奪う好投でドジャーズでの初勝利、今日もキケが首を痛めたフリーマンに代わって一塁で守備も打撃も頑張っていたのだった。ところで彼らは知っている。だからどうすればよいのか?全力でプレーするのみ。昨年の同僚ラックスと婚約者に(投手大谷を打ち込めなかったが)「全力でプレーしてカッコ良かった。」と大谷選手が試合後に会った際言ったそうだが、これが野球というスポーツの原理なのだと思う。
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