著者は、individu(これ以上分けられない、これ以上分割するとその意味を失う、すなわち決して分割できない「私」という存在。)を最終的に「人」と訳して儒教的な「天」の思想の中に、強引に西洋風の「個人」と平等をねじ込んだものだと言う。
これは、プラトンの魂の分割不可能性、アウグスティヌスやトマス・アクィナスの教父哲学における救済の対象となる魂、デカルトの「主体」の哲学、これらの議論をうけて展開されたライプニッツの分割不可能なモナドとしての個人といった、練りに練られ、洗練に洗練された非常に強固絢爛たる西洋の精神の主体の思想を、生産的に誤訳し、旧来の日本語文化の「人」という定義を、密かに書き換え、強引に作リ替えたものであると著者は主張している。
この背景。福沢諭吉は、西欧列強に肩を並べるために「自主独立」を説いた。日本文化にあってヨーロッパの個人主義の伝統を接ぎ木するという凄まじい文化的移植である。儒教的な、上に逆らわない従順さ(忠のモラル)の社会規範に則っていては、欧米にあっという間に食い物にされる。だからこそ日本人の精神を根底からひっくり返さねばならない、と考えていた。とはいえ、欧米でも、本当の意味で個人である人は少数。あるがままの自分を貫けるのはどの時代でも少数派。いわゆる天才か狂人と見なされる。ただ、マジョリティが個性の発現を目指すべきである、と信じ実際に行動している点が日本とは違う。福沢諭吉はが日本に輸入しようとした自主独立の伝統と行動様式は、これだったと著者は述べている。
その後の日本は、ヨーロッパコンプレックス、独立自尊コンプレックス、個人主義コンプレックスが深く根をおろし、日本という同調圧力の強い空間にあって、ブラックホールのように個人主義の理想が鎮座し、経済活動を中心にそこに皆が引き込まれ、ブラックホールの求心力で社会が回っていると状況であるという著者の洞察は、なかなか鋭い。
ただ、やはり西周同様、福沢諭吉は、個人主義を儒教や仏教の世俗主義的ターム(ここでは知恵や徳行、世間、親子の間などの語彙を使って解説していること)で受容しており、出自の違う文化的産物を翻訳語のちゃんこ鍋にぶち込んで、謎の旨味を出しているスーパーコピーライターでありスーパーインフルエンサーであると結論づけている。
…私は、福沢諭吉という人が好きではない。よって、人物に関わる部分は割愛した。ただ、彼の業績を否定するつもりはないし、著者の指摘には大いに頷くばかりである。



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