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2026年2月28日土曜日

イランの影で…サヘルの現状

https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_117.html#ad-image-0
ついにイスラエルと米軍のイラン攻撃が始まったようだ。3月に入ると砂嵐の季節がやって来るので、戦闘機等のジェット機の飛行に支障をきたす故、攻撃は2月中に始まるのではないかという予想がされていた。今はまだ速報段階であるので、イラン情勢のことは置いておいく。

本日は、日本ではあまり報道されないアフリカ・サヘル地方の現状について訴えるYouTubeがあったので、そちらのエントリー。https://www.youtube.com/watch?v=TvNQQg8sLUU

私がブルキナファソの北部サヘルの地に足を踏み入れたのは、かなり過去の話になってしまった。すでにブルキナファソの治安状況は、外務省の情報では、サヘル地方はレベル4・退避勧告になっている。首都ワガドゥグもレベル3・渡航中止勧告が出ている。あんなに平和で、治安など心配する必要がなかったのが嘘のようである。(画像参照)

YouTubeによると、ブルキナファソだけでなく、ニジェール・マリ・チャドといった旧フランス領の地域は、極度の貧困、天然資源の搾取(ニジェールはウランで有名。ブルキナファソも金の算出が増えている。)が要因となって、軍部によるクーデターで、反仏意識が向上し、フランス軍も撤退。そのあおりを受けてアルジャジーラやISIS系のイスラム武装組織が暗躍しているようだ。軍は、テロ組織を十分に抑えきれていないらしい。

ブルキナファソ事情を少しばかり知っている私は、当時の民主政府(といってもデモクレイジー的であった)は、やはりかなり腐敗しているように映った。もちろん、専門家としてJICAで日本に派遣された教育省のエリート官僚や、経済学を学んでいた学生さんなどは、真剣に国の将来を考えていたのだが、SONYという名の電化製品&ゲームの店に入ると、むちゃくちゃ高価な製品も並んでいた。(汚職で手に入れた金で得た)高級官僚などの家族向けの店とのこと。大統領が作ったという私的動物園の横を車で通過したこともある。一方で、日々の食を得るのに苦労している人々も、数多く見てきた。

一方で、青年たちは、反訪米的で”ラスタ”思想が強かった。ネスカフェ(現地ではコーヒーをみんなこう呼んでいた。)の空き缶を加工して土産物を作り、欧米人に売っていたのだが、「お前らの売りつけたもののゴミを持って帰れ。」というコンセプトだった。こういう国民感情があったのだ。一方、貧困家庭から口減らしで、首都に出てきた半分ホームレスの子供たちの多くは、コーラン学校の生徒だった。と、いっても仏教で言う乞食行(こつじきぎょう)のようなことをしてわずかな食を得ていた。極度の貧困の中、彼らがアルカイダやISISの組織に、飲み込まれても全く不思議ではない。ただ、ブルキナファソのイスラム教徒は穏健で、キリスト教徒徒と対立しているわけではなく、両者の混在した墓場を見て大いに驚いたこともある。わりとゆるいのである。

ちなみに、軍隊も警察もブルキナファソでは、教育を受けたエリートである。HDIでも世界最下層のブルキナファソでは、軍人になるのはそう簡単ではない。彼らが、国を憂う気持ちも理解できる。よって、軍事クーデターを批判する気は私にはないし、反欧米感情やラスタ思想にも理解できるところが大きい。これからも”アフリカ”留魂録としては注目していきたいところだ。

2026年2月27日金曜日

確定申告&国境なき医師団

今年も確定申告に行ってきた。私はスマホの操作が苦手なので予約も含めて、今回も妻にほとんど任せっきりであった。(笑)ところで、国境なき医師団にずっと毎月少額を寄付しているのだが、税務署の担当の方に、国境なき医師団のことを聞かれた。初めてこのNPOの存在に接したそうだ。

国境なき医師団は、フランスに本部がある国際的なNPO法人。紛争地域だろう何だろうと医師や看護師とスタッフを派遣し医療活動に携わることで有名。できる限りのことをするのだが、やばくなると逃げ足も早い。私のM高校時代の教え子が、この国境なき医師団にスタッフとして関わっっていたし、学院の卒業生で、いずれ国境なき医師団に関わりたいという希望を持っている生徒もいた。そんな組織である。

2026年2月26日木曜日

運転免許更新&拘禁刑

https://digital.komei-shimbun.jp/web-contents/newsword/imprisonment
5年ぶりに運転免許の更新に行ってきた。前回は、四国・八幡浜警察署での更新で、往路の国道197号線の坂道で、愛車のエンジン周りから湯気が吹き出して夫婦で大騒ぎになった思い出がある。八幡浜で応急修理して、地元・三崎で改めて修理してもらったのだった。免許証は即日くれたのだが、今回は、今の免許証の有効期限を長くしつつ、だいぶ先(3月中旬)まで待たねばならないことになった。免許を取って長いが、今回は、いろいろとデジタル化されていて時代を感じる。

私は「優良」免許証だったので、30分の講義を受講したが、その中で最も驚いたのだが、交通法規と直接関係ないのだが、「拘禁」という用語である。重大な過失を犯した場合、今までは、懲役・禁錮という刑なっていたが、調べてみると2025年6月の刑法改正で、この懲役(服役と作業)と禁錮(作業無し)が一本化されたのだという。禁錮でも作業をしたがる場合が多いところから改正されたらしい。これに社会復帰ための教育を加味したものである。(画像参照)政経の授業で、懲役と禁固の相違を話すことはあるが、これからは拘禁で教えなくてはならないわけだ。知らなかった。社会科教師としては、少し情けない話である。

2026年2月25日水曜日

ロシア解体新書

https://www.youtube.com/
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来年度の地理の授業に役立ちそうなYouTube第二弾。「ロシア解体新書」。

二学期の後半に、アメリカを中心軸に、いくつかの国の国是というか理想についてまとめたのだが、ロシアについても語った。ロシアは、ヨーロッパからは田舎と蔑まれた、歴史的地政学的に半分アジアの国である。しかもナポレオン(祖国戦争)とナチスドイツ(大祖国戦争)に、二度も蹂躙されているというトラウマがある。一時期、ロシア革命による世界初の社会主義国家・ソ連となり、一部のヨーロッパ人から尊敬を受けたが、ソ連崩壊後は、またトラウマに支配されることになる。(このマルクス・レーニン主義を教えるのが、倫理や政経ではまだしも、地理では時間をとるのが難しい。)

このYouTubeはその辺をうまくまとめてくれている。大学生向けとされているが、高校世界史を履修してれば問題はないと思う。おすすめは、ロシアが侵略をやめれない理由を解説した以下のURLのものである。

https://www.youtube.com/watch?v=Nvdl6CPRUrw

2026年2月24日火曜日

熱帯の経済が発達しない理由

https://www.youtube.com/watch?v=XQ-ITuArBLA
地理の教材でも使えそうなYouTubeを発見した。https://www.youtube.com/watch?v=XQ-ITuArBLA

経済が発展しているとは、国民1人あたりの付加価値が多いことを意味する。この付加価値を多く生み出すためには重化学工業が発達する必要がある。この重化学工業は、資本集約的産業という特徴がある。つまり、設備投資に膨大な金が必要である。これは「蓄財」への取り組みこそが重要であることを意味する。このYouTubeでは、蓄財を不道徳とするカトリックと、不道徳ではないとするプロテスタントの相違でヨーロッパの南北格差を説明している。さらに、蓄財の背景として、気候の相違からも語られる。Cs(地中海性気候)の南欧では、温暖故に食料を貯めるという行為は愚か(=腐らせる)な行為であり、北欧はその逆になる。高温多湿な熱帯(A)は、ヨーロッパの例から導かれる(食料の)備蓄の文化の無さが顕著であり、蓄財への意識も同様である。

農業の生産性の問題も大きい。生産性の高い国ではと蓄財が可能だが、低いと不可能である。熱帯の地質は、微生物の働きが活発すぎて、落ち葉や遺骸が分解され尽くしてしまい、土壌に還らないという特徴がある。Af(熱帯雨林気候)やAm(熱帯モンスーン気候)では、多大な降水量が養分を洗い流してしまう。樹木が多いことと土壌が豊かであることは関係しない。熱帯の樹木は根から酸を放出して、土や岩を溶かし痩せた土地から養分を得ることができる能力がある。これにより、土壌が酸性化し、作物にとっては成長が鈍る。伝統的な焼畑農業で生まれる灰や炭はアルカリ性で中和させる事が可能だが、どうしても生産性は低くなる。よって農業従事者の蓄財は厳しくなるのである。ところが、日本では渋沢栄一が、農業従事者に蓄財を勧め、銀行に預金を集めて、資本を形成したという過去があり、このことが日本の経済的成功の重要な一因だと説いている。…なるほど。

最初に、「教材に使えそうな」と書いたのだけれど、途中、もろにカトリックの悪口が語られていて、カトリックの学院で、直接このYouTubeを見せることは諦めた次第。(笑)

2026年2月23日月曜日

トランプ関税 違法判決の件

現在世界を揺るがしているトランプ関税に、連邦最高裁判所が違法判決(6/9)を下したとの報が流れた。これだけの情報を聞くと、グローバル経済に異を唱えてきたトランプ政権に鉄槌がくだされた様に聞こえるし、各国にすごい影響を与えるように聞こえるが、詳細を知ると、すぐに影響が出るとは思えない話だった。

北米の情報で最も信頼できるYouTubeチャンネル(https://www.youtube.com/watch?v=cUOzraMhOJ8)によると、トランプ関税の根拠になっていたIPEEA(国際経済権限法)に、関税の具体的な規定がない、だから違法、という話である。政府は、その他の法律を使うカタチで継続を行うようである。下級裁判所で敗訴していたころから、すでに対策をしていたようだ。このあたり、法の支配が徹底しているアメリカの三権分立体制とともに、優秀な行政官僚の存在を意識せざるをえない。(今回もAIでイラスト画像を作ってみた。)

ちなみに、朝日新聞のYouTubeを見てみたが、かなり批判的な表現をしていた。この辺は、オールドメディアの限界のようだ。

2026年2月22日日曜日

米国のイラン攻撃 秒読みか

イランとアメリカがジュネーブで、核やミサイルの交渉を行っているが、どうも雲行きが怪しい。これ以上のイラン側の防御のための時間稼ぎに、イスラエルもアメリカも忸怩たる思いだろう。しかし、アメリカは決して地上戦には持ち込まないと思われる。イランの十二イマーム派は、過激なようで意外に理性を重んじる。アメリカを長期戦に引き込む戦略を練っている可能性が高そうだ。それを回避するために膨大な戦力を、2つの空母打撃群だけでなく中東の各国の米軍基地に配備している。脅しというにはあまりに多い軍事力の結集である。

ところで、このイラン攻撃は、引き金でしかないとする見方がある。アメリカが本当に狙っているのは、中国であるという。中国はイランから大量の石油を、密輸(マレーシア産と偽って)しているようだ。イランの石油生産が崩壊すれば、他のどの国よりも影響を受ける。輸入量が減り、石油価格が高騰し、電力供給やガゾリン供給(=輸送コスト)に支障をきたす。製造業への影響は計り知れない。しかもコスト・プッシュ・インフレが起こり、今でさえ不安定な治安が悪化することは目に見えている。極めてきつい揺さぶりである。ロシアも中東の足場を失うことになるのだが、アメリカの冷戦2.0の矛先は、あくまで中国であるようだ。(今回もAIで画像を作成してみた。)

2026年2月21日土曜日

市民歴史講座に参加してきた

久しぶりに、枚方市の市民講座に夫婦で参加してきた。今回は、京都橘大学の飯塚一幸教授(日本近代史)が、詳細なレジメを元に、枚方市の都市化と軍需工場について講演していただいた。妻がこういう内容に興味があったので参加したわけだが、枚方市が、京阪電車と軍需工場によって都市化が進んだことがよくわかったのだった。

面白かったのは、現在の関西医科大学や大阪歯科大学の前身は、枚方に早く誘致された(京阪電車の収入増のため)ものの、旧制中学はなく、大阪市の新設中学の候補地に枚方(町)が手を上げ、誘致したのが、現在の府立いちりつ高校(旧大阪市立高校)であるそうだ。当然ながら、私はいちりつ高校との関わりは深いのだが、1校だけ大阪市外にある不思議な存在だった謎が今になってわかった。また、戦時中には、京阪沿線にある、現在お世話になっている学院も女子学徒動員に駆り出されていたこともわかった。

会場は高齢者でほぼほぼ満員御礼状態だった。かく言う私たちも高齢者なのだが…(笑)

2026年2月20日金曜日

ロシア正教会と聖セラフィム3

https://monasterium.ru/monastyri/svjatiny/istochnik-prepodobnogo-serafima-v-poselke-
「ロシア正教会と聖セラフィムーその霊性の源泉を求めて」(及川信/サンパウロ)の書評。次に、聖セラフィムの言行録や記録から、聖霊(正教会では聖神)による神との合一についてエントリーしたい。聖セラフィムは著作を残していない。沈黙の苦行を終えた後の約8年間に多くの人と会ったうえでの言行録、また弟子・モトフィロフとの対話、さらに列聖の記録などから、これまでの教義的な神との合一ではなく、具体例を抜粋しようと思う。

師父(聖セラフィム)は、「主イイスス・ハリトリス(=イエス・キリスト)、神の子よ、われ罪人を憐れみ給え」という祈りを、道を歩いている時も、座っている時も、働いている時も聖堂にある時も、心の内で唱えるばきりではなく、口に唱えても生活しなさいと教えた。絶えず神の名を呼ぶならば、心の内が安らかになり、同時に体も心も清くなり、そして神・聖霊があなたの内に宿るでしょう、と。(言行録より)

聖霊降臨の時、神の深い配慮から人間に伝えてくださる永遠の生命の言葉の全てをはっきり聴くために、私たちは完全な沈黙の中にひそまなくてはなりません。(モトフィロフとの対話より)

(聖霊が私たちと共にいるのかいないのかを、どのようにして知るのか?という問に対して)聖書の奇妙な出来事、たとえば「アダムは園の中で主の歩まれるのを見た。」という箇所(創世記3-10)や、モーセの口を通して聖霊が語っていること、使徒パウロが「私たちはアカイアへ行き、聖霊は共に行かなかった。そこで私たちがマケドニアへ戻ると、聖霊は共におられた。」(使徒言行録16-6~10)など、聖霊の顕れが理解不能という人がいる。だが、初期のキリスト教徒が現在の我々より純粋に信じてたことが重要で、ヨブ記に、神を冒涜していると友人がヨブを非難した際、「私の鼻に神の息を感じる時、どうすることができるのか。」(=聖霊が私と共にある時、神を冒瀆できようか。)と述べている。(モトフィロフとの対話より)

列聖の際の調査によると、聖セラフィムの祈祷によって奇跡(=神恩)が起こった事例(細かな証拠があると認められたもの)は94件あった。それ以外にも数百通の書面がサーロフ修道院に残された。特に有名なのは、馬を盗まれた農民が、その居場所を聞きに来た際、明確な場所を示し見つかったという話である。また、師父の死後も聖セラフィムの泉(画像参照)での奇跡談(目が見えるようになったり、口がきけるようになった、歩けるようになった等)も数多い。(列聖の記録より)

最後に、聖セラフィムは、白い修道服を常用していた。これはめずらしいことで、受難と十字架の死を意識して、修道士は黒や濃茶などの常用するのが普通。公祈祷時や洗礼時に白を着用するのだが、日常生活がすばらしい喜びに満ちていた故と言われている。これは常に聖霊と共にあったことの証明といえるかもしれない。

…聖セラフィムの信仰実践を知り、純粋な深い祈りの365日24時間の持続の中で、聖霊が宿っていたことが理解できる。特にイイススの祈りは、仏教における題目やマントラ、イスラムのスーフィズムのズィクル(「アッラー・アクバル」:神は偉大なり・「ラー・イラッハー・イッラ・ッラー」:アラーの他に神はなし・神の99の美名などを繰り返し唱える)などとの共通点も多い。ブディストとして、同様の感覚を多少理解できるところである。

2026年2月19日木曜日

ロシア正教会と聖セラフィム2

https://frgregory.hatenablog.com/entry/2021/01/15/205632
「ロシア正教会と聖セラフィムーその霊性の源泉を求めて」(及川信/サンパウロ)の書評。聖セラフィムの生涯を辿っていきたい。

1759年、クルスク(ロシアのクルスク州州都/ウクライナから見れば東北の国境地帯)に、レンガ製造工場や建築業を営んでいた父(敬虔・誠実な人だったが、彼が三歳の時に死別)と父の家業を引き継いだ母(貧しい娘や身寄りのない娘を養女にすような気丈な人)の次男として生まれた。兄は商売を営み、彼を商売人にしようとしたが、向いていなかったようで宗教書を読みふけっていた。19歳になった1778年12月3日に、院長が両親と親しいサーロフ修道院に入門した。ちなみに翌日12月4日は、生神母マリアがエルサレム神殿付属の女子神学校に入った記念日である進堂祭であった。

修道院の雑務に励みながら、サーロフの森で厳しい修練の生活を送っているのを見学していた。1780年、激痛を伴う水腫を発病。医者の診察を拒み、「聖なる父、霊と体の真の医師、我らの主イエス・キリストとその母マリアにすべて委ねているので十分なのです。」と言った。10歳のときにも重病で生死を彷徨ったが、夢に生神母マリアが現れ、癒やされる軌跡を体験していたからで、この時も生神母マリアがペテロとヨハネを伴って現れ、祝福して彼の右腰に手を当て、穴が開いて水が流れた。この傷跡は生涯残ったという。その後、3年間療養することになる。奇跡のあった小屋跡には、聖堂と三階建ての病院が建てられている。

1786年セラフィムの修道名で修道士の誓いをたて、故郷の母と別れを告げる。27歳である。この頃から神秘的な奇跡を体験することが多くなり近くの森に小屋を建て修練を積む時間が多くなる。1793年に司祭となり、翌1794年に修道院を離れ、6kmほど離れた森での隠遁生活に入る。生神母マリアの聖像が飾られ、椅子代わりの木片1つが床に置かれ、ベッドはなし。ストーブにはほとんど火を入れず、四季を通じて白い麻の修道服1枚。いつも背負っている袋には大切な福音書。彼は、この地を聖山アトス(ギリシアの正教会の聖地)と呼び、小屋の周囲にイスラエルの地名をつけた。ナザレで生神母マリアのために祈り、ゴルゴダでは六時課と九時課(正教会の修道院の奉礼で、六時課は正午にイエスの十字架刑、九時課は午後3時でイエスの死をそれぞれ記念して行われる)を唱えた。タボル山では主の変容祭(イエスが光を発したよされる山/変容祭はそれを記念する祭)の福音を朗読し、ベツレヘムでは「至(い)と高きには光栄神に帰し~」の(イエスの誕生を祝う)聖歌を歌うといった具合である。

修道生活の基本である祈祷・斎(ものいみ:食事などの節制・断食)・独居・廉施(周囲の人や自然への優しい思いやりのある言動)を、人の霊魂を神の国へと運ぶ”四頭立ての馬車”と呼んだ。サーロフ修道院と同様の祈祷日課や最も厳しいと言われていた聖パコミコス修道院の夜間祈祷も行い、日曜日には司祭として修道院に帰り、領聖(カトリックで言う聖体拝領)も行っていた。有名な話で、小屋にやってくる熊や狼、兎、狐、狸、小鳥や蛇にも食料を分け与えていた光景が多くの修道士に目撃されている。(画像参照)

1804年3人の乱暴な農民強盗が、小屋に乱入した。土曜日だったので重症にも関わらず修道院に向かっているとこを発見された。血に塗れ意識が混濁していたが、7日目に生神母マリアがペテロとヨハネを伴って現れ、奇跡が起こり回復する。5ヶ月後には小屋に帰れたが杖無しでは歩けなくなっていた。強盗犯たちは捕まり牢獄に収監されたが、減刑と赦免を嘆願し。釈放された3人は修道院を訪れ謝罪したという。

またサーロフ修道院の当時の院長の永眠後、院長就任を断り、沈黙の修行に入っていく。1810年、長年暮らした小屋を離れ修道院に帰院。1825年、生神母マリアから「沈黙の苦行を終えて小屋に帰り人々に教えなさい。」という黙示を受け、15年間の沈黙をやびり、修道院近くの庵で、夜の8時まで人々に会った。修道士や聖職者、農民、商人、軍人、貴族などあらゆる階層、あらゆる年齢の人々が各地からやってきた。1789年、サーロフ修道院が庇護していた女性の共同体を、女子修道院を開くことに尽力した。1833年、ロシア歴の元旦の日曜日、祈祷後修道士1人ひとりに別れの挨拶と祝福をし、埋葬されるはずの土地を訪問し、庵で復活の讃歌をいつもより大きな声で歌った。そして、翌日、聖像の前で跪き、祈祷したままの姿勢で息を引き取っていた。

…なんとも感動的な生涯である。正教会最高の聖人と言われるのも納得である。

2026年2月18日水曜日

ロシア正教会と聖セラフィム

学院の図書館でまた宗教にまつわる本を3冊借りてきた。「ロシア正教会と聖セラフィムーその霊性の源泉を求めて」(及川信/サンパウロ)から読んでいこうと思う。正教会の学びの中で、登場した聖セラフィムの伝記である。正教会の聖霊(エネルギア)を呼び込んで、キリストと一体化するという正教会の教義は理解したが、具体例を知りたくて書棚から選ばせてもらった。

ところで、今朝宗教科のI先生と、休憩室で一神教について話がはずんだ。I先生は、J大神学部出身で、カトリックの立場から様々な質問を受けていただける貴重な存在である。学び、そして議論することができる極めて比較宗教学的に有効な空間が、学院にはあるわけである。実にありがたい。

2026年2月17日火曜日

考察 「冷戦2.0」

https://note.com/furafura_yuki/n/n63ac31a6ec31
トランプ政権が、国際政治を大きく揺るがしている。昨日のエントリーでも触れたが、あるYouTubeで「冷戦2.0」という衝撃的なネーミングを聞いて、少し考察してみようと考えた。

言うまでもなく「冷戦」は、いわゆるWWⅡ以後、およそソ連の崩壊した1990年代初頭まで使われた、資本主義・民主主義の西側諸国と社会主義の東側諸国の対立構造を示す語彙である。東欧や中国だけでなく、アジア・アフリカ諸国やラテンアメリカでも、社会主義を標榜する国家が増え、全世界的に二極化していた時代といっていいだろう。

ソ連崩壊後は、東欧諸国は西側に合流した。CISという旧ソ連の国々のくくりも、かなり希薄になった。現在、社会主義を標榜し、資本主主義を排除しているのは、キューバくらいではないかと私は感じている。北朝鮮は社会主義と言うより金王朝であるし、中国やベトナムは開放政策やドイモイ政策で資本主義の導入を積極的に行っている修正社会主義国家である。

その社会主義国家らしい社会主義国家・キューバは、例のベネズエラの石油が遮断されて窮地に陥っている。キューバの産業構造はサトウキビくらいで、ソ連が主導していた経済共同体コメコン時代は、供給の一角を占めていたが、コメンコンが破綻して以降は、アメリカの経済封鎖でさらに厳しい状況になっていた。キューバ兵の派遣と引き換えにロシアや中国などの支援で生きながらえてきたといって良い。そのロシアがウクライナ紛争で急激に経済的に行き詰まっており、キューバへの支援も滞っている。カストロ以来の社会主義政権は風前の灯と言っていいだろう。

一方、パナマ運河の東西の港湾を抑えていた香港(というかバックには中国)企業に対し、パナマの最高裁が、運営権について無効だという裁定を行った。香港企業はアメリカの圧力に屈して、売却する方針だったようだが、それさえも叶わない。中国の経済力の衰えが露呈している現在、世界各地で反中の動きが活発化している。

「冷戦2.0」の構造は、アメリカの覇権に異を唱える国々、中国とロシア、イランなどを経済的・軍事的に締め上げるというものある。一時期、BRICSの共通通貨を作成し、世界標準のドル決済から離れようとしていたし、今も当事国の通貨で貿易を行っている。(注:イランもBRICSに加盟している。インドや南アはかなり微妙な立場にある。)

ヨーロッパ諸国は必ずしもアメリカの「冷戦2.0」に同調しているわけではない。ただ、最近のEUの動きで、ウクライナの来年1月のEU加盟を促進しようという動きがあるようだ。全加盟国の賛同が必要だが、ハンガリーが反対しているので、多数決にルール変更しようとする動きがあるとのこと。EUにウクライナが加盟すれば、NATO同様の集団自衛権が稼働し、EU諸国がロシアに参戦することになるだろう。

ロシアは経済的にも軍事的にもかなり疲弊しており、中国も同様、かつての勢いはない。アメリカは、この機を逃さず、あらゆる手段で締め付けていくのだろう。力によるパクス・アメリカーナの復活である。たしかに今の国際情勢は「冷戦2.0」という語彙で表現できなくもないな、と思われる。この是非を問うとすれば、SDGsの”Leave No One Behind”(誰ひとり取り残さない)の視点で見るべきである。アメリカが打倒しようとしている諸国の多くの国民が”取り残されている”という状況から脱するならば、それは是であろう、と私は思う。

2026年2月16日月曜日

新島襄の危惧

かの同志社の創立者・新島襄は、帝国議会の開設に時期尚早と反対したそうである。意外にも思えるが、国民への民主主義教育をしないままに、民主主義の体裁を整えることに意義を唱えたのだという。アメリカで学んだ彼からすれば、ストレートな利害の衝突がかなり危なげに見えたのであろう。

たしかに、政治を定義すれば、”各集団の利害の調整”であるといえる。今日、ある国際関係に関するYouTubeを見ていて、本年初頭のベネズエラの問題から世界が大きく変化しているとの危惧が言われていた。そのネーミングが衝撃的である。「冷戦2.0」。アメリカは、自らの利益を守るため、ウエストファリア条約以来の国家主権絶対主義に軍事力パワーをもって挑戦していること。その主敵は中国であること。多国間の協定をも軽視していることなどが言われていた。「冷戦2.0」、その評価は早計に行うべきものではないと私は思っている。

新島襄の危惧は正しいと私は思う。現在の日本はともかく、途上国の多くは、教育が徹底されないまま、カタチだけの民主主義をとっており、汚職指数が極めて高い途上国に、トランプ政権が民主党時代から続く税金のバラマキを停止したのは理にかなっている。国家主権を盾に汚職で私腹を肥やそうとする指導者を持つ国々に対し、トランプ政権はNOを表明しているといってよい。その対蹠点にあるのが、中国である。先進国の技術を盗むことを悪とは思わない彼らが、途上国の指導者を丸め込み、新植民地化している。彼らの国民は情報統制化で、血税が何に使われているかも知らない。まさに、新島襄の危惧する政治的教育の問題である。中国の政治教育は、共産党に握られ、プロレタリア独裁の美名のもとプロパガンダに覆い尽くされているようである。

私の世代は、まさに大学紛争の最終ランナー世代で、紛無派とも呼ばれた。左翼思想は、かなりの影響力を持っており、マル経(マルクス経済学)が主流であった。中国ではちょうど文化大革命が行われており、ソ連も東欧の反発があったもののまだ元気だった。しかし、今やそれらの化けの皮が見事に剥がれてしまった。私も、倫理や政治・経済で、マルクスの科学的社会主義を軽く説明はするが、現状を見るに、正義という観念とはかけ離れているとしかいえない。プロレタリアのための政権が、給料未払や失業への対策を置き去りにするなど考えられない。共産党指導者は、プロレタリアから得た剰余価値から汚職で私腹を肥やしており、そんな輩に指導された国家主導の経済活動が、いかにうまく行かないかを中国は実証している。

やはり、新島襄が言うように、最初に教育ありきなのである。

2026年2月14日土曜日

久々に沢木耕太郎を読む。

学院の卒業式の日。少し早めに着いて、全員が入場する際に顔を出すことが出来た。みんないい顔で卒業式に臨んでいた。この1年の授業でのことが走馬灯のように浮かんでくる。カトリックの学校なので、マタイの福音書に始まる非常に特徴的な卒業式のことは、昨年記したので、本日は、登下校時に読み始めた沢木耕太郎の久々のノンフィクションについて、少しだけ記しておこうと思う。

『天路の旅人』(新潮文庫上・下)という作品だ。好きな作家を問われたら、私は常に沢木耕太郎の名を挙げる。『深夜特急』を始め、『バーボンストリート』など多くのノンフィクションを手掛けてきた沢木の文章は、驚くほど読みやすいし、引き込まれる。今回も登下校時の2時間ほどで、一気に86ページを読んでしまった。むちゃくちゃ面白い。書評らしきことを書くべきか否か悩むところであるが、いずれ…。

2026年2月13日金曜日

キケの来年度契約が決まった

https://cocokara-next.com/athlete_celeb/bluejays-vs-dodgers-20251101-32/
キケ・ヘルナンデス選手が、来年度もドジャーズで三連覇を目指すことが確定した。大丈夫だと信じていたがやはり嬉しい。ポストシーズンでの活躍は凄かった。ロスは、ヒスパニックの人口も多いので、プエル・ト・リコ出身でスペイン語を話すキケの人気は高い。我々日本のファンにとっても、彼の個性も人柄も実に魅力的だ。同じベテランのマンシー選手の再契約も実に嬉しい。カブスから、FAの目玉と言われたタッカー選手がドジャーズに加入したことより私は嬉しい。(笑)外野の補強には、ヌートバーに来てほしかったのだが…。

一方で、バンダ投手が放出されたようだ。大谷選手に背番号17を譲った、ポケモン大好きなブルペン投手である。花の色はうつりにけるないたずらに…。MLBビジネスの世界は、非情に流れていく。

正教会と数理神学3

https://www.youtube.com/watch?v=GCACD4tmYlU
『ギリシャ正教 無限の神』(落合仁司著)の備忘録的エントリー第3回目。前述の命題1・命題2をもとに、著者は正教会の教義と照らし合わせていく。

神は現実的無限、無限集合である。したがって、神の本質も神の実存(=キリスト)も神の活動(エネルゲイア)も無限集合であらねばならない。神を集合論的に区別すると、Aと述語づけられるキリスト、Bと述語づけられる聖霊と、Aでなく、かつBでもない神自身に区別される。神の本質という無限集合が3つの部分集合に分割されていると考えられる。したがって、「無限においては、部分と全体が等しい。」あるいは、「無限集合は、自らに等しい部分集合を持つ。」という第一命題(=三一論)が帰結される。

神の本質と活動の関係において第二命題「無限においては、部分の総和が全体を超える。」が適用できる。神の本質は、自己の活動(自己自身)をも超越するという命題が帰結され、人が神になること(パラミズム:14世紀の聖グレゴリオス・パラマスによる、神の本質を直接知ることは出来ないが、聖霊/エネルゲイアによって神と交わり一致することができるという教義)が証明可能である。

著者はここで、「およそ全ての宗教は、神あるいは仏の多一性や自己超越性を言明する教理を保持している。集合論が明らかにしたことは、むしろそれぞれの宗教の地域的、歴史的な言語表現の差異の深層に隠された、その構造の同型性、共通性である。集合論は、宗教の命題を数学の言語で表現することによって、それぞれの宗教に共通する普遍的な構造を暴き出すのである。」と記している。

…この数理神学から導かれた「宗教に共通する普遍的な構造」については、実に興味深い主張である。以後、比較宗教学的に、詳しく検討したいところだ。

この後、著者は集合論が、それ自体証明されない公理系を前提に成立していることを明かす。公理系は証明不可能であるから、合理的議論の対象ではなく、自由な選択の対象である。信仰の自由とは、個々の宗教を命題を選択する自由ではなく、その公理系自体を選択する自由である、としている。公理系の内容は、大学数学の範囲(画像参照)で、私の理解力をはるかに超えているので割愛したい。

…これで、3冊の書評を終えた。正教会の特徴はおよそ、神と、人となったイエス・キリスト、神より与えられる聖霊の至聖三者(=三一論:カトリックの場合は聖霊がキリストからも発せられるので、はっきりと相違がある。)がそれぞれ位格をもっており、特に聖霊は神のエネルゲイアが、信仰者に神との交わり・一致(”神になる”と表現されるが、神の本質には至らない。)という東方ゆえの特徴(仏教等の影響)をもっている。また、イエス・キリストの位格は、ロゴスであり、冒頭でロゴスについて語られるヨハネの福音書の影響が強く見られる。カトリックでは、クリスマスのミサにヨハネの福音書の冒頭を朗読するが、正教会では復活祭のミサで朗読される。このことは、クリスマスより重要な復活祭で朗読する正教会のほうが、ヨハネの福音書を重視しているという証に他ならない。(学院は、カトリックの学校で宗教という教科もあるので、この辺は公立の高校より理解度がそもそも高い。)

…今年度の地理の授業で、1学期後半に比較宗教学的な一神教の対比(ユダヤ教・イスラム教・キリスト教のカトリック・正教会・ルター派・カルバン派・英国国教会のハイチャーチとローチャーチ)を行ったが、来年度はさらに深く理解した立場から論じることができそうである。ただし、大学の数学まで登場する集合論(数理神学)まで話すことはないだろうと思う。(笑)

2026年2月12日木曜日

正教会と数理神学2

https://www.youtube.com/watch?v=2sobnkyibok
『ギリシャ正教 無限の神』(落合仁司著)の備忘録的エントリー第2回目。カントールの集合論の続きになる。彼は、集合論が神が無限性の弁明になることを明晰に意識していたことは極めて重要である。

ここで、数の分類の確認をしておきたい。整数:-2、0,1.2など。自然数:1.2.3など正の整数。有理数:2つの整数abを使って、a/b(b≠0)で表せる数。実数:有理数と無理数を合わせたもの。

ところで、平方根√2や円周率πなどの無理数について、彼は数列の極限として捉えた。円周率を例に取ると、π=3・π1=3.1・π2=3.14・π3=3.141…極限にいたる数列は、無限個の自然数を1つに括った全体、すなわち自然数の無限集合に他ならならず、自然数全体と同様の現実的無限であるとした。このアリストテレスの禁忌(前述の「現実的無限については、思考することを禁止する。」)を乗り越えることで、近代科学の基礎を築いたのである。

彼の証明した第一の命題は「無限においては、部分と全体が等しい。」さらに、数直線上にある、すなわち実数全体という無限集合は、一次元の直線、二次元の平面、3次元の空間、さらにn次元のユークリッド空間におきても無限集合と等しいことを証明した。直線上の0から1までの区間の実数の数がこの全宇宙さらには4次元時空連続体に存在する実数の数と等しいというのである。この証明を成し遂げたことを伝える手紙の中で「私は見た。しかし信じられない。」と書いている。

…完全文系の私としては、このあたりでかなりギブアップ気味である。(笑)ただ、この「無限においては、部分と全体が等しい。」という命題は、神と人間の関係、特に人が神となる、という事に大きく関わってくるのではないか、という嗅覚が働いた次第。

次に彼が証明した第二命題は「無限においては、部分の総和が全体を超える。」なのだが、この命題については、さらに解説が難解すぎるので、忌避させていただく。(笑)…つづく。

2026年2月11日水曜日

正教会と数理神学1

https://note.com/koritakada/n/n28aca641d08d
『ギリシャ正教 無限の神』(落合仁司著)の備忘録的エントリー第1回目。まずは、本書の前提の確認。正教会では、三一論(=至聖三者:カトリックの三位一体とは聖霊の捉え方が異なる)で、神の無限(神性は無限で把握しえないものであり、把握しうるのはその無限性と把握不能性のみである。:ダマスカスのヨアンネスの定義)を説いている。さらに、有限な人間が神になること(厳密に言えば、聖霊:神のエネルギアによってペルソナ化)が可能であると説くわけであるが、これを数理神学の立場から証明しようとするのが本書である。これは同時に、仏教を始めとする多神教と一神教の誇張された対比を否定する方向に向かう。著者の所属する同志社大学の小原学長の本書の書評が端的に示してくれている。https://www.kohara.ac/research/2002/03/review200203.html

次に、数理神学の前提。ギリシアでは、無限のパラドクスに早くから気づいていた。自然数全体の数と偶数全体の数はどちらが多いのか。直感的には自然数全体であるが、どちらも無限故に等しい。アリストテレスは、この常に後続が存在する未完結の無限を「可能的無限」、完結し実現した無限を「現実的無限」と呼んだ。彼は、現実的無限については、思考することを禁止した。この呪縛が解かれるのは19世紀末である。(ただし、4世紀のギリシア正教の教父は神を、可能的無限ではなく、現実的無限であると宣言した。)

この呪縛を説いたのが、ゲオルグ・カンタール(画像参照)。自然数全体や実数全体など集合全体を1つの対象として扱い、無限集合の存在を明らかにしたのである。…本日はここまで。

2026年2月10日火曜日

総選挙の分析・総括のYouTube

https://www.youtube.com/@thesenkyo
今回の総選挙の余韻が、かなり残っている。歴史的な結果がそうさせているわけだが、様々な分析・総括のYouTubeを見ていると、なかなか興味深い。

まずは、中道革新連合の大敗について。元公明の組織票は元立民にどう影響したかという分析。言い当てて妙だと思ったのは、各選挙区の上記組織票・1~2万票は、野球で言うとスクイズのような存在。3塁に走者がいれば得点(当選)できるが、今回の立民の候補は3塁まで行っていなかったので死票化した、というもの。何故3塁まで進塁できなかったのか?立民は、「メルトダウン」してしまっていた。批判ばかりで、他の少数野党のように建設的な批判・アプローチに欠けており、野党第一党の役割を果たしていなかったし、急な新党結成で、従来の支援者も離れていく結果となったという分析があった。なるほどと思う。

私が、なにより大きいと思うのは、国民の嫌中意識である。立民の岡田氏の執拗な批判が、首相の例の台湾問題の発言を引き出した。これに中国が例によって様々な脅しをかけてきた。まさに岡田氏=立民はヒール的存在となったことが大きい。その後の首相の見事なまでの対応が国民の支持をかなり拡大した。中道革新連合を「中国協賛党」と揶揄する見方が生まれ、アメリカ(=自民)VS中国(=中道)という構図となったのも大きいのではないかと私は思う。中国は、今回の総選挙結果について、恫喝的な反応を見せている。全く懲りていない。

2026年2月9日月曜日

憲法改正が現実味を帯びてきた

https://www.honda.co.jp/magazine/article/202412vol01/
今回の解散総選挙で、与党が316+36で、352議席となった。これは、憲法改正の発議に必要な衆議院の総議員の3分の2(310議席)を超えたことになる。発議には参議院も同じく総議員の3分の2が必要(166議席)なので、現状118+18で136。50議席も足りない。改憲に賛成の党もあるので調整すればさらに増えるだろうが、今のところ「憲法改正が現実味を帯びてきた」としか言えないだろう。憲法改正は、自民党の党是である。首相が「国論を二分する論議」と言っていたのは、第9条改正とスパイ防止法くらいしか思いつかない。

第9条を現状に合わせて、「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使はと国際紛争を解決する手段として、永久にこれを放棄する」を、国際的に認められている(=国連憲章51条)の「個別的自衛権」「集団的自衛権」(緊急性と必要最小限度という条件あり)に合わせる改正案が見えてくる。国連憲章代7条の国連軍ならびにPKOについても付加するかもしれない。第2項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」に関しては、陸上・海上・航空の自衛隊(本日の画像は空自のブルーインパルス風のバイク隊:実に平和日本の自衛隊である。)を前項の目的を達するため保持するとするのが妥当だといえる。

「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。」という条文は、アメリカがこの憲法を作成したのがバレバレの条文である。”その他の戦力”は、言うまでもなく海兵隊を意味しているからである。戦力を保持しないと言わせておきながら、朝鮮戦争や冷戦を巡って、アメリカの影響下で、警察予備隊、保安隊、自衛隊と改組してきた歴史があり、条文と現状が一致しないのは、小中学生が読んでも明らかである。これも妥当。

これらの国際法上の戦争規定と自衛隊の存在の明記は、国民の普通の感覚のように思われる。これでも反対するような左翼的な政党はすでに少数派になっている。さてさて…。

2026年2月8日日曜日

オーソドックスの教材研究Ⅶ

いよいよ、正教会の教材研究も三冊目になる。ここまで、スラブ西洋史学・宗教史学的な『東方キリスト教の世界』、イギリスの正教会司祭による説教的に7つの神を説いた『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』を読んできて、なぜ佐藤優氏が正教会の教義を学ぶ必要性を同志社の神学生に説いたのか、また正教会においてヨハネの福音書が重視される理由についても、十分理解できたつもりである。だが、三冊目の『ギリシャ正教 無限の神』(落合仁司著)は、少し違った視点(数理神学)で正教会のテーゼを描き出しているので、興味深い。

およそ前2冊とかぶる部分は割愛しながら、エントリーしていこうと思う。数理神学といっても、私は完全文系人間で、数学は大の苦手なのだが、「集合論」をもとに進めているようなので、できるだけ平易に、私の理解しうる範囲で、備忘録を記していきたいと思っている。

2026年2月7日土曜日

正教会:永遠としての神

カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、最終回の今回はエピローグとしての「永遠としての神」について。箴言は、「話すことは今のこの世での道具である。沈黙は来たるべき世の奥義である。」(シリヤの聖イサアク)

「我望む。死者の復活、ならびに来世の生命を。」正教会のミサで唱えられる『信経』(381年の二ケア・コンスタンチノポリス信経:12の条項の短文からなる。)は、来たるべき時に思いを馳せて、期待の言葉で結ばれている。とはいえ、ヨハネの福音書(3-2)には「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかしえあたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。」とある。ただ、聖書と聖伝は、繰り返し再臨を告げている。しかし、(当然ながら神の意思で定められる故に)その時期は知らされていない。

ハリトリスの再臨の時は魂も肉体も蘇る。魂と肉体は、もう一度結びつき1人の復活した人格として最後の審判を受けるために主の御前に進み出る。私たちの選択の行為のすべてが、目の前に示される時である。審判者は当然ハリトリスであるが、別の見方をすると、裁くのは私たち自身である。地獄にいる人は、自己定罪、自己呪縛する人であるので、「地獄の扉は内側から錠がおろされている。」というのは全く正しい。

復活の王国は、終わりのない国である。黙示録に「勝利を得る者には、隠されているマナ(出エジプト記で、イスラエルの民が荒野にある時、天から降ってきた黄色く蜜を入れた煎餅のような食べ物/上記AIの画像参照)を与えよう。また白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が書いてある。」とあり、それぞれの人は明確にその人自身であり、個性も保たれるが浄化され、一新され、輝かしいものになる。ヨハネの福音書(14-2)「主イイススはその憐れみにより、それぞれの人にその人の働きに応じて安らぎを与えられる。偉大な者にはその偉大さに応じて、また小さい者には小さい者にふさわしいように。」とある通りである。

永遠とは絶え間ない前進であり、果てしない成長であると、本書は結ばれている。

2026年2月6日金曜日

正教会:祈りとしての神

カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、今回は「祈りとしての神」について。今回の箴言は、「正教の精神は祈りの賜物にある。」(パシレイオス・ロザノフ)という短いが、意味深長なもの。

著者は、主教として、教会・機密(=秘跡:サクラメント)・聖書を、正教会の信仰に不可欠な条件としている。この中で、西方で展開されてきた聖書の批判的研究について、学問的研究(聖書学や歴史神学など)は疑いなく存在し、十把一絡げに拒否するべきではないが、正教徒として、その全てを受け入れることは出来ない。聖書は、孤立した個人として読んではならないし、起源や様式史また編集史についての最新の諸理論に照らして読んではならない。教会の精神(教会のメンバーとして交わりの中で読む)を最終的基準とし、教父や聖人たちによってどのように理解されてきたのかということを意識し続けるべきである。聖書を読むことは祈りへと続く道である、としている。

さらに3つの段階について述べられている。修徳的生活(徳の実践)、自然の観想、神の観想である。ここでは、自然の観想における神学的な話を期しておこう。すべての事象には神の造られざるエネルギアが浸透し、その存在が保持されていて、全ての事象は神の存在を仲立ちとして人に伝える「神現」(テオファニィ)となっている。それぞれ事物の中心には、神のロゴスによって刻み込まれた内的な原理すなわちロゴスがある。このロゴスとの交わり(神のエネルギーとロゴスを見出す)に入ることが重要である。

正教会の伝統を伝える霊的な師父は、神の観想の段階では、否定主義的な祈りを実践する。雑念を払い、「イイススの祈り」(主イイスス・ハリトリス神の子や我罪人を憐れみたまえ)を繰り返す。そうして、ペルソナ的一致に向かう。ハリトリスに似る者になったとしても、ペテロはペテロ、パウロはパウロ、フィリピはフィリピで、それぞれの者がそれぞれの本性とペルソナ的自己同一性を保つ。聖人たちが神化するのは、神のエネルギアによるものである。

出エジプト記(20/21)に、モーセがシナイ山頂の「神のいる濃い闇」の中に入ったという描写がある。神が闇であるとは言われていない。ヨハネの福音書(1-5)「神は光であって、神にには少しの暗いところもない。」タボル山でのハリトリスの変容も光で示された。東西を問わず、聖人たちは身体の栄化の例が多い。モーセはシナイ山から降りてきた時、顔が光り輝き、誰もまともに見ることが出来なかったので顔にベールをかけたとされる。(上記画像は、適当な画像が見つからなかったので、AIで作成したもの)

…正教会における神化は、朱子学の理気二元論と共通点がありそうである。もちろん、理とロゴスと同じものとは考えにくいが…。だんだんと正教会がヨハネの福音書を重視していることがわかってきたのであった。また「イイススの祈り」を繰り返す祈りは、仏教の題目やイスラムの信仰告白との共通点を感じるのであった。このあたりは、やはり「東方」を感じるのである。

2026年2月5日木曜日

正教会:聖霊としての神

https://avantdoublier.blogspot.com/2013/08/blog-post_16.html
カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、今回は「聖霊としての神」についてである。今回の箴言は、サーロフの聖セラフィムによるもの。「聖霊が人に降り、そこから溢れ出るものの充満で彼を覆い尽くすなら、彼の魂は言い表しがたい喜びでいっぱいになります。聖霊が触れるものは何であれ喜びに変えられるからです。天国は聖霊における平安と喜びです。内なる平安を求めなさい。そうすればあなたをとりまく何千人もの人々が救いを見つけるでしょう。」

ローマのカタコンベ(地下墓地)には、天を見上げ、両手を広げ、手のひらは上を向ける「オランス」という姿勢をとる婦人の姿が壁画に描かれている。この姿(画像参照:注/これはローマのものではない)は、聖霊を呼び求め、待ち受ける嘆願(エピクレシス)の姿である。

聖霊は、ギリシア語ではブネウマ(風ないし息)と呼ぶ。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。」(ヨハネの福音書3-8)その理解し難さにもかかわらず、正教会の伝統では、第1に位格(ペルソナ)であること。第2に、他の2つの位格と同等であることが重要である。聖霊はマリアに降り神のロゴスを宿した。ハリトリスを世に送ったのは聖霊であるし、イイススがヨハネの洗礼を受けた時、聖霊は彼の頭の上に鳩のカタチで降った。イイススを伝道に派遣したのも聖霊である。超有名な一節「主の聖霊が私に宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、私を聖別してくださった方である。」(ルカの福音書4-18)とあるように。

さらに復活後は、ハリトリス(すでに受肉していたイエスは死に、神と一体化していた故に)が聖霊を送り出す。(正教会では、カトリックと違い、イエスから聖霊が発するとはしない。)この聖霊降臨は、受肉の目的と成就を形成する。「ロゴスは身をとった。それは私たちが聖霊を受け取れるようになるためである。」(ウラジミール・ロースキー)また、最後の晩餐で、「真理の聖霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分について語るのではない⋯聖霊はわたしのものを受けて、それをあなた方に伝える」(ヨハネの福音書16-13/14)これも復活後のハリトリスを示している。

聖霊は、個人を人格(ペルソナ)へと作り変える。正教会の伝統では、信者の共同体への直接的働きかけがひときわ明らかにされており、ギリシア語でゲロン、ロシア語でスターレツと呼ばれる長老もしくは霊的父がいる。冒頭の箴言に登場したサーロフの聖セラフィムのような人々である。

https://one-piece.com/char
acter/S-Snake/index.html
⋯異教徒にとって、至聖三者の中でも聖霊が最も難解である。倫理の授業での聖霊の説明は、使徒言行録19にあるパウロの洗礼をうけた人々が異言(異国語)を発したことくらいである。今回の備忘録では、少しばかり深まった気がするが、どうもわかりにくい。ちなみに、聖セラフィムの名が出てきたが、このセラフィムは最上位に位置する熾天使(してんし:6枚の羽をもち、神への愛で燃えている)である。セラフィムと聞いて、何と言っても想起するのは、ONE PIECEの人間兵器・セラフィム。王下七武海とルナーリア族の血統を受け継ぎ背中に火がついている。(右の画像はSスネーク)⋯なるほどと、膝を打った。

2026年2月4日水曜日

正教会:人としての神

https://christian-unabridged-dict.hatenablog.com/entry/2018/02/15/134759
カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、今回は「人としての神」についてである。今回の箴言。「イイスス(=イエス)を渇き求めなさい。彼はあなたをその愛で満たしてくれよう。」(シリアの聖イサアク)

イイススとは、「救う者」という意味である。天使がハリトリス(=キリスト)の養父ヨセフに言った「その名をイイススと名付けなさい。彼は己の民をその諸々の罪から救う者となるからである。」(マタイの福音書1-21)さらに、ハリトリスという称号は、「膏(あぶら)つけられた者」を意味するメシアというヘブライ語のギリシア語での同意語である。「膏つけられた」とはすなわち「聖霊によって」ということで、旧約時代のユダヤ民族にとって、メシアは聖霊の力を受けてユダヤ民族を解放する未来の王を意味した。

イイススは、「シアントゥロポス」(神・人)である。実に神であり同時に人であるがゆえに私たちを罪から救う。人は神の元へ行けなかった。だから神ご自身が人となることで、人の元へ来た。脱自的な愛の内で、自分が創造したものになった。神は人として、人が堕罪によって拒絶した神と被造物との仲立ちという仕事を成し遂げた。藉身(:せきしん=受肉/神が人なること)は、人を解放する至高のみわざである。藉身した神・ハリトリスは神の本性と人の本性があるが、人となった永久のロゴスとしての位格があるのみである。福音書が伝えるハリトリスのわざと受難の全ては一つの同じ位格的主体、時と場所の内に人として生まれた永遠の神の子に帰せられる。

ハリトリスは父にこう言った。「私は、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。これは、私たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。」(ヨハネの福音書17-22/23)彼は、結び目であり合流点である。神の藉身は人に神化への道を開いた。神化とはハリストス化されること、私たちが獲得するよう呼びかけられている「神の似姿」である。

ハリトリスは処女から生まれたことは、通常では新しい人格が存在することに対する否定である。藉身したハリトリスの位格はロゴスの位格であるからだ。正教会では、この「福(さいか)なる童貞女」をハリトリスの母として深く崇敬する一方、(カトリックの教義である)無原罪の懐胎の教理を不要・過剰(前述のアウグスティヌス主義批判の立場)とする。正教会では、マリアと洗礼者ヨハネとともに、旧約時代の聖性の極致・頂点と見ている。(要するに、マリアにも原罪はあるが、洗礼者ヨハネとともに最高の聖性をもっているということである。)

十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイの福音書27-46:これはヘブライ語の旧約の詩篇22で、全文を見れば神への讃歌であるという説もある/画像参照)と叫んだことについて、どれほど重視しても重視しすぎることはない。主は私たちのために血を流すばかりか、私たちのために神を見失うことさえ受け入れた、あらゆる人間の苦悩と疎外に同一化し、自身で担うことによって癒やした、これ以外に癒やす方法がなかったのである。これが十字架のメッセージである。

ハリトリスの復活は、私たちを不安と恐怖から解き放った。十字架の勝利は確証され、愛は憎しみより強いことをはっきり示された。この世界に存在するいかなる闇も悪の力をも恐れる必要はない。正教会はこの意味を極限において理解する。正教会が、エキュメニカルな(教派を超え教会の再一致を模索する)対話に関わる時、この真正な復活を信じるか否かをまず問う。

⋯そもそも藉身(=受肉)や、十字架での疎外の言葉や、この復活の深い意味は、異教徒にとってはなかなか理解しがたいものである。とはいえ、今回も比較宗教学の立場では、正教会のスタンスがよくわかる実に興味深い内容であった。

2026年2月3日火曜日

正教会:創造主としての神

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カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、続いて「創造主としての神」についてである。今回も箴言を挙げておく。「あなたはあなたの中に小さなもう一つの世界があることを知りなさい。あなたの中に太陽があり、月があり、そしてまた星々もあるのだ。」(オリゲネス)

「爾(なんじ)は我らを無より有となし」と『聖イオアンネス・クリュソストモスの聖体礼讃』は讃える。この「無より」という言葉が意味するのは最初に、そして何より重要なこととして、神が全世界を自由意志によるみわざで創ったことを指す。神は誰からも強制されず、神自身が創造を選んだ。何の意図も必然性もなく世界が創造されたわけではなく、また自動的に溢れ出したわけでもない。神の選択の結果である。何故神は創造を選んだか。その動機は愛である、と著者は記している。

世界は、必然的でも自己充足的でもなく、自らをあらしめた神に依存しつつ、神に向けて成就可能なものとして開かれている。被造物である人間は決して自分たちだけでは存在できない。神が我々の存在の核心であり、神の愛の意思に依存している。そして、神は現在進行形で創造し続けている。創造の教義の目的は、時系列の中にある一点(創世記)に、この世界の起点となすことではない。

また、神は創世記において、世界創造の後「はなはだ良かった」と言っている。よって、創造されたものはその内なる本質において、はなはだ良きものである。二元論を否定するキリスト教において、「はなはだ悪しきもの」はあり得ない。

正教会の世界観では、神は被造物のために、「ノエティック」(霊的・知性的な領域)と物質的ないし肉体的という2つの領域を与えた。ノエティックだけ(物質的な身体を持たない)の被造物は天使である。物質的な領域のみは。星雲、様々な鉱物で構成される星々や天体、さらに植物や動物などの生命である。人間だけが、この2つの領域を共に得ている。ユダヤ教のタルムードには、「義人は救いの天使より偉大だ」と描かれているのはそのためで、人間は神の創造の中心にあるといえる。

この後、人間の堕落について述べられる。正教の伝統では、アダムの原罪について、アウグスティヌスの考え方(人類全体に影響が及び、罪責を受け継いでいる)を受け入れがたいとし、原罪の教理は、「人は悪を犯しやすく、善は行いにくいという環境の中に生まれてくる」こととだとしている。

…今回も、重要な正教会の教義が示されていた。神の自由意志による創造、神の創造は現在進行形であること、天使(本日の画像は正教会の七大天使のイコン)と人間の関係性、そして原罪思想の捉え方…。

2026年2月2日月曜日

正教会:至聖三者としての神

https://novel-shoten.com/life/archives/5104
カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、続いて「至聖三者としての神」についてである。正教会の聖三者は、カトリックやプロテスタントで言う三位一体である。まず、前回同様に、箴言から。「我が憑恃(たのみ)は父、我が避所(かくれが)は子、我が帲幪(おおい)は聖神(聖霊)なり 聖三者よ、光栄は爾(なんじ)に帰す。」(聖イオアニコスの祈り)

著者は、ユダヤ教やイスラム教のように単に唯一の神を信じるほうが容易であるとし、聖三者の教義は文字どおりの難問で「人間的思考の十字架」(ウラジミール・ロースキーの言)であり、精神と心の真の徹底的な方向転換(メタノイア)を求めるものだとしている。

「私と父は一つである。」(ヨハネの福音書10-30)とハリトリス(=イエス)は言った。この意味は、ニケア公会議(325年)とコンスタンチノープル公会議(381年)で確認されたイエスは、真の神よりの真の神、神・父と一体(同一本質)であること、言い換えれば父と同等である、ということである。父と子は2つの神ではなく単一の神である。4世紀末に父と子と共に「聖霊」が同様に言明された。なお、聖三者は本質において1つだが、それぞれに位格、自己意識を持つ区別された主体である。

第一の位格は、神・父。「泉」であり、他の2つの位格の源泉、起因ないし起源であり、聖三者の間に一致をもたらす接合点(きずな)である。第二の神の子の位格は、神の「言葉」ないし「ロゴス」である。この神の言葉・ロゴスは、受肉以前から働いており、全てを貫いている秩序の原理であり目的である。創造者ロゴス(Logos)は、被造物1つひとつにそれ自身に内在するロゴス (logos)ないし、内的原理を分かち与え続けている。第三の位格は、聖霊である。神の風や息である。(言葉でそつなく整理してしまうのは不適切と心得た上で言えば)聖霊は「内なる神」、子は私たちと「共にある神」、父は私たちの「上にある神」・私たちを「超えている神」である。(聖霊は、父のみから送られることを確認したうえで/カトリックの教義では、子からも送られることに成っている。)この聖三者の位格は常に共に働き、聖エイレナイオスは、子と聖霊を父の「両手」と呼ぶ。

…正教会におけるヨハネの福音書の重要性が、だんだんと見えてきたのであった。ここで確認。ヨハネの福音書冒頭の「はじめにロゴスありき」のギリシア語は、”エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス”で直訳すると「アルケーはロゴスなり」となる。アルケーは、(イオニアの自然哲学と同じで)万物の始源・宇宙の根本原理。ロゴスは、真実・真理・論理・理性・概念・調和・統一のある法則、そして言葉の意味もある。よって、「根本原理はキリスト(神の言葉)である。」=神こそが全ての原則、ということになるのである。日本では、「はじめに言葉ありき」という誤訳が一般的になってしまった。実は、この一節を使って、M高校のパンフレットをつくった経緯がある。国語科と英語科をつなぐキャッチコピーとして有効ではあったのだが…。(2010年6月30日付ブログ参照)

2026年2月1日日曜日

正教会:神秘としての神

https://www.nikkei.com/article/DGX
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カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』書評。前述(1月29日付ブログ参照)のように、まずは、「神秘としての神」の備忘録的エントリーである。本書には、著者の選んだ関連する箴言も多く記されている。この章にも、いくつか記されていたが、冒頭の「理性では神は把握できない。もし把握できたら、それはもはや神ではない。」(ポントスのエヴァグリオス)を記しておきたい。

正教徒の神学は、多くの面で象徴的(直接的な言明ではなく絵やイメージを通して神に触れる)である。だが、象徴性は神の超越性や「他者性」を伝えるには不十分である。「戦慄(畏れと驚異の感覚:ヌミノーゼ)すべき神秘」を指し示すためには、肯定的言明とともに否定的な言明(神は~であるではなく、神は~ではないという言明)が必要である。この正教会の否定的言明は、実のところ超肯定であり、全ての言語や思考を超えて、生ける神の直接体験に触れてゆくように促す。これは「神秘」という言葉が意味する真実である。隠されているだけでなく、顕されていることを意味する。

神への信仰は、ユークリッド幾何学で得られる論理的な確実性のたぐいとは全く異なる。神を信じることは、理論上の議論で照明されたから神の存在の可能性を受け入れることではなく、私たちが知り、愛する「お方」に信頼を置くことである。信仰は、仮定ではなく確信である。

(隠されているが、顕される)神の人間への関わりを示すため、正教会の伝統は、神の本質と、すなわち神の「本性や内的あり方」と、神の「エネルギア」(その作用や力の働き)を区別する。神は、本質によっては他者であり、エネルギアによっては近づき得るものである。正教会がエネルギアと呼ぶものは、神の働きとして神の全てを指し示す。(神から放出されるものでも、モノや賜物でも、仲立ちでもない、一部分でもない。)神の本質とエネルギアを区別することで、神と人間の直接あるいは神秘的な合一の可能性を確信できる。これをギリシア教父たちは、人間の「神化」と呼ぶ。しかし同時に汎神論的な同一視は排除される。人は神のエネルギアに与るが、本質はわからない。一ではあるが、融合や混同はない。神と一つになったとしても、人は人であり続け、「我と汝」のペルソナ(人格)的関係が保たれる。

…ここでも、神との合一という概念が登場する。ただし、エネルギアによって、であり神の本質を理解し合一できるというのはないわけである。かなり微妙で理解できるような出来ないような…。私は異教徒であるので、エヴァグリオスの箴言にあるように理性で理解しようとしてもできるわけないのは当然か、と思う。ところで、今日の画像は、ギリシア演劇によるペルソナの画像である。昔々、ペルソナを題材にして、一連のパフォーマンスを脚本・演出したことがある。ペルソナはラテン語で、人格を意味すると同時に、ギリシア演劇における仮面を想起させる。なつかしい語彙である。